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DV加害者は外からの介入を嫌う

2022年1月23日(日)主日礼拝メッセージ
第一朗読:ヘブライ語聖書 申命記30章11〜15節 第二朗読:ギリシア語聖書 ペトロの手紙一 1章3〜12節 福音の朗読:マルコによる福音書 1章21〜28節

 イエスの最初の活動は汚れた霊に取りつかれていた男を癒やすことでした。今日読まれたマルコによる福音書1章21〜28節の物語です。それにしても汚れた霊っていったい何でしょう。汚れた霊ですから良い霊か悪い霊かで言えば当然悪い霊ですよね。聖書には悪霊がよく出てきます。そしてその悪い霊と対比されるのが良い霊、神の霊、聖霊です。

 聖書は私たちの体は悪霊ではなく聖霊を宿している神殿であると表現します。例えば新約聖書コリントの信徒への手紙一の6章19〜20節では「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」と記されています。聖霊を宿すとは簡単に言えば不正義や不真実を憎み、正しいことや真理を愛するということです。私たちの体は正義と真理を愛する聖霊の宿る神殿ですが、それは私たち自身が自分の努力で素晴らしい敬虔な人物になったからではありません。私たちの体に聖霊が宿るのは神がイエス・キリストの十字架と復活という救いの出来事を通して代価を支払い、私たちを買い取ってくださったからだと聖書は言います。だからこの救いの出来事に感謝し、もはや自分自身のものではなく神に買い取られたこの体に正義と真理の霊である聖霊を宿してこの社会の中で正義と真理を愛することを通して神の栄光を現そうと聖書は私たちに勧めています。

 マルコによる福音書によるとイエスはヨルダン側で洗礼者ヨハネから洗礼を受けた際、「天が裂けて、霊が鳩のようにご自分の中へ降って来るのをご覧にな」りました(1章10節)。イエスの体の中には神の霊が宿っています。そのイエスがカファルナウムという村の会堂で様々なことを教えていると、汚れた霊に取りつかれた男がこう叫ぶのです。「ナザレのイエス、構わないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。」「構わないでくれ。」「滅ぼしに来たのか。」これらの言葉から汚れた霊の一種の焦りを感じます。悪霊自身が分かっているんです。自分が言っていることや自分のしていることは不正義、不真実であり間違っているということを。それでもやはり自分の身が可愛いから外からの介入を受けて本当のことが明るみになり、滅びることを恐れているのです。

 イエスと汚れた霊とのやりとりを見て、この汚れた霊というのはDV 加害者にそっくりだなぁと私は感じました。DVの疑惑を持たれた男性のほとんどは行政やDV被害者支援団体など外からの介入を嫌い拒みます。「あんたには関係ない。そんな事実はない。うちの問題だから構わないでくれ」という常套句を吐くんです。でも本当に自分が無実なら第三者機関にきっちりと調べてもらって無実を証明して貰えばいいじゃないですか。結局自分が不正義と不真実にまみれているから明るみにしてほしくないんですよね。イエスと汚れた霊との間に見られる構造はDV被害者を支援する団体とDV加害者の関係だけではなく社会の至る所にあります。つい先日私たちはこの国において森友問題という形でこの構造が罷り通っている現実を知り、皆さんも少なからず憤りと落胆を感じておられることと思います。森友学園問題で公文書改ざんを強いられて自死した近畿財務局職員赤木俊夫さんの妻が真実を解明するよう訴えた訴訟で、国が昨年12月15日、1億円を超える賠償金を支払って訴訟を終えると表明しました。国家、現政権は真実を解明されると不都合なことが多いので賠償金を支払ってこの件は終わりにしてしまおう、闇に葬ってしまおうという選択をしました。まさにこの国、現政権は汚れた霊に取りつかれている状態と言えるのではないでしょうか。

 このような現実の中で生きる私たちの目の前に今、神の霊を宿して生きたイエスと汚れた霊に取りつかれた男とのやりとりを記すテキストが神の言葉として置かれています。イエスは構わないでくれと言ってきた汚れた霊と関わり、男性から汚れた霊を追い出しました。イエスは男自身を滅ぼしたのではなく、その男に取りついていた汚れた霊を追い出し、その霊を滅ぼそうとされたのです。これがイエスの最初の活動であり、イエスは徹頭徹尾この働きを担いました。この出来事から今日は2つの大切なことを皆さんと分かち合いたいと思います。

 1つ目は私たち教会は外からの介入を嫌う汚れた霊に怯むことなく関わり、不正義、不真実を愛して私利私欲を満たそうとする人や社会から汚れた霊を追い出す働きを担う必要があるということです。教会の中には教会は社会問題と関わらず信仰の実践をすれば良いのだという人もいます。しかし私は人や社会から汚れた霊、悪霊を追い出す働きはイエスを救い主と信じるキリスト教会が担う信仰の業、実践だと確信しています。マルコによる福音書16章17節、十字架の後に復活された主イエスは弟子たちの前に現れ、彼らをこの世に派遣する際にこのような御言葉を語っています。「信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。」

 皆さんと分かち合いたいことの2つ目は、つい私たちは汚れた霊と汚れた霊に取りつかれてしまった人を混合してしまい、その人自身を憎み裁いてしまうということです。聖書には罪を憎んで人を憎まずという言葉があります。イエスは汚れた霊に取りつかれた男を裁き滅ぼしたのではなく、あくまで汚れた霊をその男から追い出し滅ぼそうとしました。

 つい先日、公職選挙法違反で有罪が確定し、当選無効となったある国会議員が大量の睡眠薬を服用し自ら命を経とうとする出来事がありました。睡眠薬を飲む前後、彼女が親族に「さようなら」と連絡したためすぐに110番通報があり幸いにも助かりましたけど、彼女の「さようなら」の電話の正しい意味は「助けて」ですよね。

 私たちは彼女がどんな罪を犯したのかを知っていますから、つい彼女自身を憎んで裁いてしまいます。彼女はまさに金や権力欲しさに不正義と不真実に身を染めるという汚れた霊に取りつかれている状態だったと思います。私たち教会は汚れた霊に対しては毅然とした態度で、たとえ権力や権威に対してであっても「黙れ!この人から、この社会から出ていけ!」といって悪霊を追い出す働きをします。しかしそれだけでなく教会は本人が汚れた霊に取りつかれていることに気づき、新しく生き直したいと思ったらその人を赦し、受け入れて共に生きる受け皿、共同体となる必要があると思うのです。今の社会は一度間違ったら、一度躓いたらもうおしまいという社会です。その中で私たち教会は汚れた霊に取りつかれていた自分の状態を自覚し、後悔と反省を持って再スタートを切りたいと願う人に神さまが新しい命、復活の命を与えてくださることを信じて共に生きる必要があると思うのです。

 人や社会に取りついた悪霊、不正義や不真実と立ち向かって悪霊を追い出しましょう。それだけでなく悪霊に取りつかれていたことに気付き、後悔と悔い改めを持って再スタートを切りたい、新しく生き直したいと願う人を赦し、受け入れ、神さまから新しい命、復活の命を与えてもらえるよう祈りつつ共に生きましょう。そのようにして神の栄光を現す教会でありたいと願っています。


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