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因果

母の許に引き取られ、父と一つ上の姉と三人で暮らした家から出ることになった。
胸から抜け落ちる感情と、新たに湧き上がる感情とが渦を巻く。
姉が心配であった。

家を出たとはいえ母と暮らす町は隣町。
会おうと思えばいつでも会うことが叶う距離ではあるのだけれど、心の中から父への想いは日毎薄れてきている。
本当ならば今も一緒に暮らしているはずだった姉は、父が一人になると可哀想だからと父の許に残った。

父は仕事から帰ると酒を飲み始め、酔ってくると二人を部屋から呼び出して怒鳴り始める。
手を握り合って震えているしかなかった。
娘達のそんな姿を見た父は己の不甲斐なさ、侘びしさに気付き、それを打ち消すかのように更に激しく暴行を加える。
姉は私を守るように覆い被さり、「大丈夫だよ」と声を掛け続けてくれた。
どうしてこうなってしまったのだろう。
いつも笑っていたはずだ。
家に帰るのが楽しみだったはずだ。
父と母が大好きだったはずだ。
家族仲が良いのが自慢だったはずだ。

大型トラックの運転手として働く父は家に帰ることなく働き続けていた。
欧風の外観の白い壁が美しい家を建て、それまで暮らしていた町営の住宅を出た。
一人部屋が与えられたことが嬉しかったのだが、家族四人で並んで寝ることが無くなってしまったのが少し寂しかった。
ある日学校から帰ると、庭にピカピカに光る黒い大きなトラックが置いてあった。
娘達が帰ってくるのを待っていたのだろう、父がメッキを磨きながら「おかえり」と陽に焼けた笑顔を向け迎える。
「お父さん会社辞めて、これから自分でやっていくからトラック買ったんだよ。もっともっと稼ぐからな」
嬉しそうに話す父の姿がとても格好良かった。
始めこそこれまで通り家にいることが少なかった父だったが、段々とトラックが庭に止まっている日が増えていった。
父が家にいることを素直に喜んだのだが、父の笑顔は少しずつ減っていくことになる。
バブルの崩壊。
当時は意味も何が起きているのかもわからなかった。
父は朝から酒を飲んでは不平不満を漏らす。
いつしか父と母が話しているのを見なくなった。
秋口の肌寒くなってきた頃のある日、学校から帰ると家の中が薄暗く、物が散乱しそこかしこに食器の破片が落ちている。
その中で父が床にへたり込み酒を飲んでいる。
「お母さんな、男作って出ていったよ」
間もなく帰ってきた姉と二人で片付けて、姉が夕食を作り食卓に並べる。
家族四人揃いの食器だったのだが今はバラバラだ。
割れてしまった。

転校した小学校にも友達ができ、それなりに楽しく過ごしていた。
姉は中学生になり、先日制服姿を母に見せに遊びにきてくれたが少し痩せているのが気になった。
姉はいつもの優しい笑顔で「大丈夫だよ」と微笑んだ。
週に一度は電話で話したが、それほど長電話は許されない。
しばらくして遊びにきた姉は、薄くだが化粧をしているようだった。
中学生になるとそういうものなのだろうか。
「お姉ちゃん綺麗になったね」と言うと、照れたように「あんたにもしてあげようか」と笑った。

中学生になったある日、一つの噂が耳に入る。
姉がこちらの学校の先輩と付き合っているという。
不安がぎる。
聞いた先輩の名は、お世辞にも評判の良い先輩ではなかった。
入学前にも母から荒れに荒れていると有名な中学校だと聞いていたし、姉と同じ中学校に通うかとも勧められたが、今更せっかく仲良くなった友達と離れるのも嫌だったので断った。
その頃には姉と電話で話す機会も減っていたし、遊びにも来なくなっていた。
姉と先輩の噂を聞いてからそれほど時間は経っていなかったと思う。
また噂が耳に入る。
その場で嘔吐し、気が遠くなっていくのを感じていた。
友達が名前を呼んでいるのが聞こえる。
ただただ胸の内に先輩達への、男達への憎悪の念が湧き上るのに任せるまま。
結局は何も出来なかった。
姉の気持ちを思うと涙が止まらなかった。
悔しい。
悔しい。
悔しい。
姉を迎えに行ってくれたという先輩に会いに行き様子を聞くと、元気そうに振る舞っていると聞いた。
会わなくても良いのかと言われたが、どのような顔をして良いのかわからずその日は帰途についた。

地元の公立高校へ進学、大学進学を目指し勉強は頑張ったと思う。
姉は高校入学後半年ほどで辞めてしまったと母から聞いた。
何をするわけでもなく男の家に入り浸っているとも聞いた。
どうしてだろう。
姉を軽蔑している。
自分でも意外であったが、姉とは生きる世界が違うのだとそれ以降の接触を断つことにした。
高校三年間も気付けば残すところ卒業式のみとなった。
県内の大学への進学も決まり、気も緩んでいたのだと思う。
好きな男性から「免許を取得したからドライブへ行こう」と誘われた。
一緒に夕食を食べ、夜景を見に行くといった定番のコースだけれど、父以外の男性が運転する車に乗るのは大人になったような気がして胸が高鳴る。
夜景を眺めていると、男性が隣からそっと手を握り告白をしてくれた。
もちろん受け入れ、手を握り返し見つめ合う。
帰り道、自宅近くの交差点の信号が青色から黄色に移る。
スピードを上げて侵入。
右折してきた軽自動車に衝突。

意識を失っていた。
左目は開いているのだろうか、真っ暗で何も見えない。
起きあがろうと力を込めてみたがどうにもうまくいかない。
どうやらここは病院のようだ。
しばらく天井を見上げ身動きせずにいると、カラカラと音を立てて病室の入り口が開いて母が入ってきた。
「お母さん、なんでここにいるの?」
そう声を掛けると母は泣き崩れ、ナースコールを鳴らした。
それから医師の診察があり医師と看護師が退室した後、母はゆっくりと告げた。
一週間意識が戻らなかったこと。
酷い事故で、シートベルトをしていなかったせいでフロントガラスを突き破り遥か前方へ飛ばされていたこと。
姉が見舞いに来てくれていたこと。
運転していた男性が即死していたこと。
顔の左半分に皮膚移植を施したこと。
脊髄損傷により今後歩けるようになるかはわからないこと。
正気を失うには十分であった。

自宅へ戻ってからもしばらくはベッドから出る気すら起きなかったのだが、献身的に介護してくれる母の寂しい笑顔を見ていると申し訳なくなり、「外に出てみたいな」と伝えると、母は涙を流しながら喜び車椅子を用意し乗せてくれた。
朝晩は冷え込んできたようで風が冷たい。
空が美しかった。
「歩けるようになるかな」母に問いかける。
「頑張ろう」強い笑顔だ。

姉は東京で元気に働いており、成人式には帰省するそうだ。
どのような顔をして会えば良いかわからないけれど、久しぶりに大好きな姉に会えることが純粋に楽しみであった。
だが、姉が姿を現すことは無かった。
一本くらい連絡をくれても良いではないかと憤慨したのだが、母が姉と連絡が取れないと不安そうな顔を見せる。

どうしてこうなってしまったのだろう。
姉はこの世を去っていた。
何故意地を張って連絡をしなかったのだろう。
何故お見舞いに来てくれた時に目が覚めていなかったのだろう。
お姉ちゃんに会いたいよ。


彼女の妹はそこまで話すと泣き崩れた。
彼女の告別式が終わり、私の話が聞きたいと彼女の妹からの申し出で互いの話をしたのだ。
掛ける言葉が無く黙っていると、妹が顔を上げ「姉のDVDは見ましたか?」と悪戯な笑顔を向けてバッグから一本のDVDを取り出した。
どうやら母親が隠していたものを見つけ出し、それで知ったとのことだ。
心配をかけてしまうと思い母親には言っていない。
知った直後こそ落ち込んだとのことだが、すぐに受け入れることが出来たそうだ。
「どんなでも大好きなことには変わらないのに。元気に帰ってきてくれればそれで良かったのに」

万感交到ばんかんこもごもいたる。

数年後。
彼女の妹は妊娠、結婚したと聞いた。



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