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【随筆】母からもらった命 母に繋いでもらった命

現在の私を知る方にはいつも驚かれるのだが、学生時代は大小あれど常にいじめを受けてきた。
無視はもちろん、理不尽な扱い、明らかな侮蔑。
肉体的にも、精神的にも追い詰められていたと思う。
「思う」というのは、その頃の感情の記憶が曖昧なのだ。

小学四年生までは穏やかな日々を過ごしていたのだが、宮城県に転居、転校してから私の生活は一変する。
転校生というだけで物を隠されることから始まり、歩いているだけで後ろから飛び蹴りを喰らったり。
私の机が窓から投げ捨てられていたり、ありがちな話だが花瓶が置かれていたり。
男子からは肉体的に暴行を受け、女子からは精神的に追い詰められた。
何が彼らの気に障ったのかは今でもわからない。
いじめというものはそういうものなのだろう。
理由はなんでも良いのだ。
単純にストレスの捌け口の他、標的がいなければ次は私というような強迫観念が働くのだろう。
私には味方はいなかった。
教師も見て見ぬふり。
その頃は「いじめられる側に問題がある」と平然と叫ばれていた時代だ。
耐えるしかなかった。
逃げ場など無かった。
死ぬ勇気も無かった。
ただただ、一日を耐えるだけの日々。

そして、家に帰れば父親からは常に心無い罵声を浴びせられる。
弟と妹はとても優秀だった為、長男の私がしっかりしていないのが気に入らなかったようだ。
不満を漏らすこと等一切許されなかった。
怒鳴り続ける父の目を見ようものなら目に拳が飛んできた。
目を見なければ、話している父親の目を見ないということで頬に拳が飛んでくる。
長距離トラックの運転手をしていた父は、帰ってくると弟と妹には土産を持ち帰る。
私は二階に呼ばれ殴る蹴るの暴行を受けるのだ。
父が帰った日は夕飯が豪華になる。
だが、私の分は無い。
例えあったとしても口の中がズタズタで満足に食べることは出来ないのだが。
父がいない日は少しだけ心が穏やかだったと記憶している。
父の車の音が聞こえると、私は二階の自室に逃げ込んだ。
そんな抵抗は父には無意味。
襖を勢いよく開き、父親の帰りを出迎えないとは何事だと殴る蹴るの暴行を受ける。
小学生の間は父や友人の顔色と機嫌を伺いながらなんとか一日を乗り切っていた。
着実に私の心を蝕んでいたようだ。
私の自尊心は完全に折れていたのだと思う。

私の通っていた学校は田舎の中学校で、小学校のメンバーがそのまま生徒となる。
私をいじめていた人間達のまま。
また三年間耐える日々の始まりだと覚悟、ではなく諦めた。
だが、それまでとは意識が異なっていた。
中学生になると元々身体が大きかった私は、更に成長し校内でも一番高身長になっていた。
筋肉も付きやすい体質だったのだろう、バスケ部に入部し部活の他に毎日5kmのロードワークと筋トレを欠かさず行った結果、明らかに体格が変わった。
それまで恐怖の存在だった同級生や先輩達に対しての恐怖感が消えたのだ。

いや、明確なきっかけがある。
毎日行われる虐めにある日突然嫌気がさし、一人の男を力一杯に殴った。
吹っ飛んだその男、それを見ていた生徒達の目の色が変わった。
私に対する恐怖だ。

それからの私は荒れに荒れた。
それまで私が受けてきた苦しみを相手にも味わわせるように、本来ならば友人となったであろう同級生達を毎日殴り続けた。
同級生達の私に対する態度も変化する。
私の顔色と機嫌を伺っているのだ。

そう、暴力で支配した。
私は父と同じことをしていたのだ。
その頃の私には気付くことが出来なかった。

それ以降いじめを受けることは無くなったが、友人と呼べる人間はいない。
不良の先輩達に呼ばれてボロボロになるまで暴行されては、放課後に一人ずつやり返す毎日を過ごす。
私が何をしたのだ。
教えて欲しかった。
何故こんな思いをしなければならないのか。
世の理不尽を心底恨んだ。

父との関係もこの頃から変化する。
それまで抵抗の姿勢を見せなかった情けない息子が、殴り返してくるようになったのだ。
元ヤンの大型トラックの運転手の父は流石に喧嘩慣れしており強かった。
だが、先に心が折れたのは父だった。
暴力こそ振るわなくなったが、新たな方法で抵抗を封じる。

誰が飯を食わせてやっているんだ。
親に手を挙げるなら出ていけ。
高校にも行かせてやらん。

その時私の中で父親は父親でなくなった。
もうあの人を父とは認めることが出来なくなった。

私にも極僅かだが友人がいた。
彼の部屋は離れ。
私は家を出て、その日から彼の部屋で暮らすことにした。
今だから言えることだとは思うが、私の叔父(父の兄)が経営する漁師が使う漁具の会社で雑用として働き、小遣いという名の給料を頂戴する。
叔父は事情を知っていたのだと思う。
厳しい人ではあったが、とても優しくしてくれた。
食事も仕事の際に腹一杯食べさせてくれる。
次の日の朝食としておにぎり、昼食代として給料とは別で小遣いまでくれた。
そんな友人と叔父のおかげもあって、高校卒業までの学費は用意することが出来た。
ちなみに卒業まで部活を欠かしたことは一度も無い。
部活が終わり、深夜まで働く。
怪我をしようが、風邪をひこうが、台風だろうが、大雪だろうが。

高校に進学する為、内緒で母親へ連絡する。
喫茶店で待ち合わせし、入学の手続きを頼んだ。
約一年半ぶりに息子の顔を見て声を聞いた母は涙を流し私の身を案じてくれた。

ちゃんと食べているのか。
病気はしていないか。
痣だらけの私の顔をさすりながら言う。
思わず私も涙を流した。

学費を全て貯めたことを褒めてくれた。
嬉しかった。
本当に嬉しかった。

母のおかげで私は無事に高校へ進学することが出来た。
勉強は一切してこなかった為、定員割れの高校を選択。
いいんだ。
私は高校生になることが出来たのだ。

数十年後に聞いた話だが、私が高校へ進学したことを知った父親は烈火の如く怒り、母に対して暴行を加えたそうだ。
母はそうなることを知っていただろう。
だがそんなことは一切感じさせず、私を労り、応援してくれた。

本当にありがとう。
お母さん。

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