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Apology

こんにちは。パグ蔵です。

前回の記事からすこし間が空いてしまいましたが、無理のないペースで書き続けていければと考えていますので、今後ともよろしくお願いいたします。

ところで、本日はタイトルをApologyとしていますが、Apologyという単語を取り上げたいというわけではなく、プラトンのApology of Socrates(ソクラテスの弁明)について書きたいと思います。
つまり英語に関する記事ではありません。

プラトンの作品は好きで、学生のころから読んでいました。引っ越しなどで処分してしまったものも結構ありますが、ソクラテスの弁明や国家は今も定期的に読み返しています。

まず、英語のApologyは、ギリシャ語のApologiaを語源としていて、これはapo(離れる)+ logia(話)から成り立っています。「弁護や防御のための話」というような意味かなと思います。

Merriam Websterには、

"Apology comes to English from the Greek roots of apo- (“away from, off”) and logia (from logos, meaning “speech”). The word's earliest meaning in English was “something said or written in defense or justification of what appears to others to be wrong or of what may be liable to disapprobation.”"

と記載されています。

つまり、ソクラテスの弁明を読んだことがある方はご存じかと思いますが、この中でソクラテスは自分の行いについて謝罪をしているわけではなく、むしろ一貫して自分が誤ったこと(不正)をしていないということを立証しようとしています。

ソクラテスは、若者の堕落とアテナイが認めた神以外の信仰により起訴されていますが、若者の堕落とは、ソクラテスが神託から受けた「ソクラテスより知恵のあるものはいない」というお告げ(かの有名な、不知を自覚しているソクラテスこそが最も知恵のある者であるということ)の誤りを証明すべく、世間で知者と思われている人々を吟味して回り、その結果そうした人々が実は全く知恵を有していなかったということが判明し、そうした吟味を見ていた若者が同じことを親などに対して行うことで、吟味を受けた人々に辱めを与えることを指しています。

これについて、ソクラテスは、自分の時間を使い、かつ、無償で、対話を通じて有益なことを施してきたと主張し、自分にふさわしい罰は(もしあるとすれば)、迎賓館での食事であるとすら述べています。

「有益なこと」とは、不知の自覚ではなく、ソクラテスが生涯を通じて追い求めてきた善や徳、正義、つまり正しく生きること、についてであり、ソクラテスは、対話を通じてこうしたことを説くことに努めてきたと主張しています。

ソクラテスは裁判を通じて不正を行っていないことを主張し、自己を弁護しますが、結局は投票により有罪となり、死刑と決定されます。

それでもなお、ソクラテスは有罪の判決が誤りであり、有罪に票を投じた人たちがその報い受けることになると述べます。

これは恨み節などではなく、ソクラテスは、正しく生きていないことを非難された人が、その非難する人を消すことにより、その非難から免れることが可能でもなければ、立派なことでもなく、また、ソクラテスから学んだ若者たちはソクラテスよりも容赦なくそういった人々を吟味するだろうと指摘し、最も立派かつ簡単な方法が、生き方を改め、優れたものとなるべく自分を磨くことであると述べています。

ちなみに、ソクラテスは、投獄後の話である「クリトン」では、脱獄を提案されるものの、その適否について吟味したうえで、自分の正義のためにこれを断っています。


ソクラテスは最後まで自分の信念を曲げずに貫き通しています。
自分が正しいを信じていることはどんな状況でも曲げずに貫き通せる気概と自分の人生の核となるような確固たる信念をもって人生を生きたいと思いますね。

非常に短い本ですが、一読する価値がありますので、気になった方はぜひ手に取ってみてください!

本日は以上です。
お読みいただきありがとうございました。
それではまた。

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