見出し画像

写真の整理とその空白

運動会が終わって二週間。
楽しかった余韻と共に、優秀なお母さんたちから写真のデータが届く。
「写真撮ったので送りますね」
なんのことかしら、と開いてみれば、そこにあったのはうちの子のハイライトを寄せ集めたかのような素敵な写真の数々。
かけっこでのゴールテープを満面の笑みで切るその瞬間(しかもズーム)、鼓笛隊での緊張の面持ち、そうそう、前日のよさこいの写真もあった、生き生きとした表情で鳴子を振る姿、などなど。

私は園の行事ではあまり写真を撮らない。
私が撮らなくても来月あたりにカメラ屋さんが記録した写真を購入できるチャンスがやってくる。
だいたい全員のかけっこ、遊戯、がきちんとおさめられているので、それを買えば十分だ。
なんとかという写真館から三人もカメラマンが来て、どの子も余すところなく良い表情をおさめてくれる。おかげで私は肉眼での鑑賞を許されるのだ。あぁ、ありがたいなあ。好きな言葉は「外注」ですもの、恩恵を存分に受けるよ。
と、私がのうのうと運動会を堪能していたその瞬間に、外注されてもいない誰かがうちの子のハイライトをおさめていたらしい。
大変に驚愕したのだ。

しかも、このような写真をくださった方がふたりもいた。
我が子の写真さえろくに撮っていないのだから、お返しに差し上げる写真なんて一枚もない。
ただただ、ありがとうございます、と恐縮しきりのLINE を返信するばかり。

私、子育てにおけるあらゆる雑事の中で一番苦手とするのが写真のデータの整理なのだ。
スマホでほいほい写真を撮れるのはよいのだけど、瞬きしているうちに写真がとんでもない枚数になっている。
これらを選別するのがほんとうに難儀で、同じアングルの写真が何枚もあるけれど、ちょっとした表情の違いでどれも必要に思えてしまう。
何十年後かの私がこれを見て愛しさで泣くのだなと思うと、娘が自分で撮ったらしい食べかけのクッキーの写真さえ大切に思えてしまう。
そんな段取りでカメラロールをスクロールしていくと気が付けば思い出に浸るだけの美しいひと時、みたいになって、なんの整理もつかないまま大満足して終了する。
そんなことを六年間続けている。

娘と息子の写真を送ってくださった方たちはきっと年別、イベント別とかでUSBに写真を保存して、素敵な写真をしゃっと選んで現像して(A5サイズとかで)センスのよいなフレームに入れてお部屋に飾ったりしてるのだろうな。
ああ、子どももさぞかし嬉しかろうな。と思うと、なんだかからだがふた回りくらい小さくなるような心地。

因みに、末っ子が産まれてからは「みてね」というとても賢いアプリのお世話になっている。
写真の共有とアルバム制作が一緒になったアプリで、これ、ありそうでなかったやつ。
写真の共有アプリはあったし、アルバムをつくるアプリもあった。
なぜ、いっしょくたにできないのか、誰か賢い人早くつくってもらわないと困るよ、と思っていたらやっぱり賢い人はちゃんとつくっていたらしい。
遠方に住む、実家の父母にコメント付きで写真を見せることができ、なおかつそれをそのままアルバムに収載できる。
ほんの少し罪悪感を手放すことができる。
カメラロールには依然、ごちゃ混ぜに写真が放り込まれているけれど、アルバムにして手に取ることができたら、なんとなくデータがゴールした感がある。

長女が産まれたころといえば、厚手の表紙がついたきちんとした装丁のイヤーアルバムというものが出始めだった。
膨大な写真をなとかしないとね、と息も絶え絶えで二年分作った。
けれど、それも息子が産まれて子育てに追われている間に置き去りになって、どうしようどうしようと思っている間に時は流れ、データは増え、見て見ぬふりを貫き、そして、末っ子が産まれた。
これではいけない、と「みてね」に参入して今があるけれど、つまり空白の「息子誕生~末っ子誕生前」があるのだね。
この空白の二年十ヶ月のことをふと夜中の布団で思い出したりなんかして、かなり暗い気持ちになったりするので早くなんとかしたほうがいいのはわかってるんだ。




また読みにきてくれたらそれでもう。