人間は考える葦である

といったのはブレーズ・パスカルである。

私は、これを高校時代の倫理で知った。
人間は1本の葦である。
頼りなく弱く、ともすればすぐに倒れてしまう弱き存在。
だが、考えることができる。
弱くとも自らで思考することができるのだ。

倫理との出会いは、私にとって光明だった。

デカルトの「我思う、ゆえに我あり」
ソクラテスの「無知の知」
などの学びは、それまで自分に絶対の自信があり、ともすれば周りを見下してしまう傾向のあった私に「何も知らない自身についてもっとよく考えろ」と言われているようで、雷で頭を打たれたくらいの衝撃を受けた。

地元中学では成績10位以内にいた私は、上を見たらキリがないほどの優秀な人がわんさかいる高校へ入学した。私が希望したわけではない親のレールに乗っただけ。県内でも1位2位を争うレベルの高校だった。

そこへ、私は学力ではなく絵画で多く受賞歴のある特殊人材として合格した。だから成績は学内では平均以下の分野もあり、全体としての成績は下の中くらいだった。
入学当初から少しはすに構えているところがあった。態度に出すわけではないけれど、勉強だけが全てではないし、私には人にはない特技があるから、勉強はさほど重要ではないくらいに思っていたところはあると思う。

だが、倫理はその考えをいい意味で打ち砕いていった。
私は、考える葦となり、無知の知を知り、自身の存在について考えるようになった。

さて、冒頭の考える葦に戻ろう。

人は弱い。昨今の情勢だけを見てもそれは明らかである。
コロナの感染者がでた、クラスターが発生した、それが「どこ」の「誰」なのかが報道よりも早くSNSで共有される。
感染に対する防衛本能なのだろう。異形のものを遠ざけるように情報が拡散される。

報道が伝える情報。
SNSグループで流れてくる情報。
ウェブの情報。

あるとき、それらから距離をとった。意識的に見ないようにした。

なぜか。恐ろしいと思ったからだ。
感染がだ。
コロナではない。
恐怖への感染が恐ろしかった。

世界的にほぼ正確とみられる情報が欲しいのであれば、公式にアクセスすればいい。つまり厚生労働省や自治体の公式を確認すればいいだけのこと。
報道も厳選した上で自分で信ぴょう性の高いと感じたメディアだけを必要に応じてみればいい。とすれば、その他の情報はただいたずらに恐怖を増長させるだけのお化け屋敷だ。

我が家には小学生と未就学児がいる。
この度の感染拡大で休校や休園の対応をせざるを得なくなった。
小さい子どもがいれば、親はそれでなくても日々、彼らが健康に安全にのびやかに成長することに精神をすり減らしている状況である中に、得体の知れない感染症が発生した。感染は子どもにも拡大している。
自分が子どもへ感染させてしまうかもしれないリスクもある。
我が家の長子はアレルギー疾患がある。
稀に呼吸器疾患に発展してしまうリスクも持っている。

心は穏やかではない。

だが、ここで見失ってはいけないのは、何よりも自分自身だ。
子どもが危険な目にあうかもしれないと感染者情報に目を光らせ、その地域が自身の居住地の付近であれば対象者を洗い出し、糾弾する。
だが本当にそれでいいのだろうか?
感染者だって被害者なのだ。

東日本大震災。私は被災者の一人だが、多くの被害は津波によるものであった。途轍もないエネルギーを帯びた大量の海水が頭上高くから押し寄せ、多くの建物を破壊し、人も街も飲み込んでいった。
感染症も同じだ。
私たちの力ではどうすることもできないものだ。
震災後、被災地の避難の状況を糾弾する声があった。

なぜもっと遠くへ逃げなかったのか。
なぜもっと早く動かなかったのか。
なぜ子どもを親元に帰したのか。
なぜもっと高いところに避難所を作らなかったのか。
なぜ車で移動しかのか。
なぜ・・・

たくさんの「なぜ」の声があった。なぜだろう。
想像できなかったからではないだろうか。
だって経験したことがない。
まさか、そんなことになるなんて。みんな思ったはずだ。

今回も同じだ。まさか、こんなに感染が拡大するなんて。
多くの人が当初は思わなかったはずだ。
だが次第に感染は拡大し、同時に人の心も蝕んでいった。

恐怖という病は、人を排他的にし、心を疲弊させる。
とても恐ろしい病だ。

受動的にもたらされる情報、そこから生まれる恐怖に飲み込まれ、漠然とした不安や恐怖に晒されストレスは溜まっていく。
そこに働けない、外出ができない、遊べない、人に会えない、などの不満も追加されていく。

ストレスのはけ口は自ずと、自分とは異なるものへ向けられる。
それが感染者への圧力となる。

もう一度問う。

「本当にそれでいいのだろうか?」

私たちは考える葦である。自分の頭で考えられるのだ。
情報はあくまで情報に過ぎない。
それをどう受け止め、咀嚼し、考え、自分の意見とするかは私たち自身だ。

受動的に流れてきた他人の意見を自分の意見のように思ってしまう。
自分自身の頭で受け止め、考え、咀嚼せず、「そうだそうだその通りだ」と、賛同し敵意を拡大する。
そんな思考停止が、むやみやたらと差別を増やしていく。
この状況こそが何より恐れるべき感染症なのではないだろうか。

どうか、考える葦であってほしい。
私も考える葦であり続けよう。

一人でも多くの葦がその思考を深められることを祈って。

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