"「私」物語化計画"「#課題小説を読もう」

yosh.ashさんの"「私」物語化計画" の企画、「#課題小説を読もう」にこっそり参加してみようと思います。

「分析」なんて立派なものではなく、ただの感想になっちゃった感はありますが、自分なりに頑張って書いてみました。(´∀`)ノ

あらすじ(ネタバレ)

本作の冒頭、笠井は“田舎の或あるひと”に、「久し振りの東京は、よくも無いし、悪くも無いし、この都会の性格は何も変って居りません。もちろん形而下けいじかの変化はありますけれども、形而上の気質に於いて、この都会は相変らずです。馬鹿は死ななきゃ、なおらないというような感じです。もう少し、変ってくれてもよい、いや、変るべきだとさえ思われました。」という書簡を送っていて、彼自身もまた、やっぱり何の変るところも無く、映画館でアメリカ映画を鑑賞し、或る有名なユダヤ人の戯曲集を一冊買うという、終戦直後にしては割と優雅な生活を送っているんですね。

その本屋で、笠井は若い女性と目が合います。
彼は、その女性が過去に恋愛した女性ではないか。もしそうなら面倒だなと警戒するわけですが、名前を呼ばれて彼女が戦争で疎遠になった昔馴染みで、元貴族だった女性の娘、陣場シズエ子であることに気づきます。
彼女は「アリエル」という本を探しに本屋に来ていたんですね。
懐かしさから露店から一袋十円の南京豆ナンキンまめを3袋を土産に、笠井はシズエ子とともに、母子が暮らすアパートへ向かうのです。

その道中で、笠井はシズエ子の母親についてつらつら思い出します。
綺麗好きで、別れた夫を愛し、教養があり、シズエ子につまらぬ物をお土産を持っていく代わりに(戦中にも関わらず)泥酔するまで飲めるだけのお酒をアパートに常備していて、性慾に就ついての、あのどぎまぎした、いやらしくめんどうな、思いやりだか自惚うぬぼれだか、気を引いてみるとか、ひとり角力ずもうとか、何が何やら十年一日どころか千年一日の如き陳腐ちんぷな男女闘争をせずともよかった。 つまり、恋愛抜きの関係だった(と、少なくとも笠井は思っていた)わけです。

で、アパートへの道すがらシズエ子に母親の話を振ると、何故か不機嫌な様子になる。
そこで、笠井は「ははーん、コイツ俺に惚れているな」と。母親の話をすると口数が少なくなるのは嫉妬しているからだと独り合点し、ヤクザな口調でわざと母親をくさすような事を行ったり、映画や本の話をして、シズエ子を口説きに掛かるんですね。

この辺の描写は、まさに前述の「思いやりだか自惚うぬぼれだか、気を引いてみる」行為で、挙句の果てにこい、しちゃったんだからと言い放つ始末。戦前、戦後で笠井という男がまったく変わっていない事を示しています。

そうこうするうちに、二人が暮らすバラックの、ひどいアパートに着き笠井が「陣場さん!」と大声で呼びかけると、はあい、とたしかに答えが聞えつづいて、ドアのすりガラスに、何か影が動く。
それを聞いたシズエ子は棒立ちになり、顔に血の気を失い、下唇を醜くゆがめたと思うと、いきなり泣き出してしまうんですね。

聞けば、母は広島の空襲で死んだというのである。死ぬる間際まぎわのうわごとの中に、笠井さんの名も出たと言い、結局、道中で母の話をするとシズエ子が不機嫌に見えたのは、笠井に恋したのでも母に嫉妬したのでもなく、母が死んだという事を、言いそびれて、どうしたらいいか、わからなくて、とにかくここまで案内して来たのです。

その後、二人は母の好物だったうなぎ屋の屋台で、小串を。三人前と、コップ酒を三つ頼んで、広島の空襲で亡くなった母を弔うんですね。
笠井が黙々と酒を飲んでいると、屋台の奥の紳士が、うなぎ屋の主人を相手に、実につまらない、不思議なくらいに下手くそな、まるっきりセンスの無い冗談を言い、そうしてご本人が最も面白そうに笑い、主人もお附き合いに笑います。

笠井は紳士のつまらない冗談を無視して酒を飲んでいるんですが、紳士が店の表を通りかかったアメリカ兵に「ハロー、メリイ、クリスマアス。」と叫んだのを聞いて、思わず吹き出してしまう。
そしてシズエ子に、「この、うなぎも食べちゃおうか。」と、まんなかに取り残されてあるうなぎを「半分ずつ。」分けて食べる。

という物語。

文末、太宰は東京は相変らず。以前と少しも変らない。と締めくくります。

登場人物のモデル

文中で主人公の笠井は、終戦間際の一年三箇月間、津軽の生家で暮し、ことしの十一月の中旬に妻子を引き連れてまた東京に移住して来たとあり、(ウィキペディアによれば)著者の太宰治も「昭和20年3月10日東京大空襲に遭い、美知子の実家の甲府に疎開。7月6日から7日にかけての甲府空襲で石原家は全焼。津軽の津島家へ疎開。終戦を迎えた」とあるので、笠井のモデルが太宰本人なのが分かります。

また、シズエ子とその母のモデルは、「林聖子と実母の秋田富子(洋画家・林倭衛の夫人だった人)」で、「シズエ子と笠井が本屋で再会するシーンも事実を元にしている」のだそうです。

ただ、作中での母親は広島の空襲で亡くなっていますが、太宰が本作を書いている頃、モデルの秋田富子さんは病床にあったそうで、シズエ子のモデル林聖子さんの手記によれば、「(前略)着物姿の太宰さんがわが家に来られた。そして、懐から(本作の載った)『中央公論』新年号を取り出し、ひどく真面目な顔をして、『これは、ぼくのクリスマスプレゼント』といった」のだそうです。

ちなみに、作中でシズエ子が探していた「アリエル」という本は、どうやらアンドレ・モロワの『アリエル―シエリイの生涯』の事らしいですが、どんな内容かは分かりませんでした。

笠井=東京=日本

冒頭で笠井は田舎の知人に、東京は何も変わっていないという旨の書簡を送り、文末も東京は相変らず。以前と少しも変らない。と〆ていて、自分自身も戦前と少しも変わっていない事が文中から分かります。

つまり、笠井という男は東京、ひいては日本をメタ的に表現したキャラクターと言えるのではないかと思うんですね。

とすれば、本作には2つの解釈があって、一つは戦争や空襲という惨事を経験しても日本(人)は本質的に何も変わっていないという皮肉。
もう一つは、戦争という惨事を経験しても、日本(人)は変わらず生活しているという皮肉。

一つ目の皮肉は、日本という国や為政者に対してのもので、もう一つは日本を占領し変えようとするアメリカに対して。もしくはその両方かもしれませんが。

もしくは、それらを全部ひっくるめて(太宰本人を含めた)「男」に対する批判なのかもしれません。広島の空襲(恐らく原爆)で亡くなったシズエ子の母は、男たちが勝手に起こした戦争の犠牲になった女性全ての象徴なのかも。

そもそも、笠井はシズエ子の母に対して、恋愛感情はなかったと書いているけれど、彼女の方はどうだったのかという疑問も湧いてきます。

シズエ子の母は戦中の物のない時代に、笠井が泥酔するほどの量の酒をいつもアパートに常備していたわけで、しかも彼女は大金持ちの夫と別れて、おちぶれて、わずかの財産で娘と二人でアパート住いしているのです。

普通に考えれば、笠井に飲ませている酒代で、食料を買うんじゃないかと。(もしかしたら実家から援助があり、それなりに裕福だったのかもですが)

そして、笠井自身も恐らく、そんなシズエ子の母の気持ちに気付いていたし、彼女は笠井にとって、本当の意味で唯一の女性だったのではないかとも思うわけです。

そう考えると、本作は笠井という男のどうしようもなさを滑稽に描きながら、その奥には太宰(男)から女性(秋田富子さん)への純粋な想いと懺悔の意味が込められているのかもしれない。なんて思いました。

太字部分は青空文庫「 太宰治 メリイクリスマス」より引用。
括弧は、ウィキペディアより引用。

みなさんも良かったら、是非参加を!(´∀`)ノ

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