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北朝鮮に日本はない#7 キャンバスは真っ白

 平壌の普通江ホテルのバー「銀河水」。ここのカウンターのいすの背もたれは、ちょうどいい具合にぼくの腰に当たる。体重を少し後ろにかけると腰痛が軽くなる気がした。毎晩ぼくはこのいすに座り、コーヒーかノンアルコールカクテルを飲み、くだらない話を重ねて平壌の夜の記憶を重ねた。

 ソファ席に飲み物を運ぶとき以外は、接待員たちがカウンターを出ることはない。ソファ席に客が来ることは余りないから、接待員たちはカウンターにずっと立つことになる。ぼくひとりに美貌の女性接待員がふたりつきとりとめのない話をする。ああ、ぜいたくはステキだ。

 経営のことはぼくは全くわからないが、到底このバーが儲かっているとは思えなかった。この他にもこのホテルには、ビリヤード場や卓球場、第一興商の機器のあるカラオケバーがあるがいつもしんと静まりかえっていた。玉が弾かれる音も、酔客の歌声も聴こえないホテルの中で、バー「銀河水」だけが孤軍奮闘していた。ぼくが落とす数ドルがこの国では想像以上の大きな価値と利益を生むのだろうか。目の前の接待員にそれを問うても答えてはくれまい。そして接待員たちは営業活動に熱心ではなく、ぼくと話すかテレビを気だるげに見るかスマホをぽちぽちといじっていて、数ドルのコーヒー1杯で数時間粘っても何も言われなかった。

 ぼく以外の客といえばこのホテルに事務所を構えているエジプト人たち。ぼくと同じように北朝鮮・朝鮮民主主義人民共和国へ流れつくようにやってきたヨーロッパ圏の旅行者たち。なぜかアメリカ人の慈善団体の人たちもいた。みなそれぞれの1日を終えて行くところがないから「銀河水」に集まる。それぞれの国訛りの、決して学校では聞いたことのないスパイシーな訛りの英語が主に響き、同じ国同士の者で話す時はぼくも初めて聴くことばがかわされていた。ぼくが中学レベルの日本訛りの英語を駆使し何かを話すと、不思議とそれは通じているようで、ぼくも相手の言っていることが何となくだがわかった。店の中は笑いに満ちていた。

 世界平和って意外と簡単なことかもしれない。

 そのやりとりを聞いてカウンターの向こうの接待員たちも笑っていて、流暢なキングダムイングリッシュでエジプト人をあしらっていた。その日、ぼくの帰国前日は千客万来でソファ席も少し埋まっていた。

 いつ帰るのですか。

 明日かな。朝5時起きだよ。

 日本は遠いのですか。

 明日の今ごろには家についているかな。

 ウリナラ(我が国、北朝鮮の意)はどうでしたか。  

 面白かったよ。

 何が面白かったですか。

 なんだろうね。うーん、毎晩トンム(君の意)と話すのが楽しかった。

 今度、いつ来るのですか――――。

 記憶のままに会話を書き起こすと、まるでAIと話しているみたいだ。北の旅の感想など簡単にまとまるわけがない。そして「今度いつ来るのですか?」この質問が出るといよいよ旅の終わりを感じる。親しくなった接待員は別れが近くなるといつもこの質問をする。ぐいとぼくはひとつ伸びをして、すっかりぬるくなったコーヒーを飲み干し、もう一杯おかわりをお願いした。アルコールランプに火が付きサイフォンが再び泡立ち始めた。

 ソファ席から昨日出会い、親しくなったイギリス人が英語でぼくを呼ぶ声がして、多分こんなことを言ってるのだろうと見当をつけ手を挙げて英語で返すと英語が返って来てまた店内は盛り上がる。北朝鮮の誇る大同江ビールが世界中からやって来たStrangerたちの縁を繋いでいる。

 クスッと女性接待員が笑った。

 先生様は本当に日本人なのかしら。

 どうして?

 ねえ。本当は日本人じゃないでしょう?

 いや日本人。日本人だと思う。両親たぶん日本人だし。もう40年近く日本人やってるし。

 その言い方がおかしいの。本当に日本人なのかしら。朝鮮人ではないと思うけど。ああ、おかしい。

 ぼくはコーヒーを飲む。

 営業終了の時間が迫っていた。三々五々騒がしい外国人は帰っていく。「Bye!ゆーさん」と明日も普通に会えるように去って行く人を引き留め、拙い英語で明日の帰国を告げるとぼくたちは自然と握手とハグをかわした。これから部屋に帰り、荷造りをして数時間寝たらもう出発だ。

 日本の人口は何人ですか。

 1億2千万、いや、3千万人かな。

 先生様と会って、日本と日本人のイメージが変わった気がします。先生様みたいな面白い人が日本にはきっといっぱいいるのですね。

 こんな日本人がいっぱいいたら、日本はすぐに滅亡だよ。

 ああおかしい。本当に先生様は面白い。

 これが女性接待員、ヒョニとかわした最後の会話だった。数年後同じホテルを訪れた時に彼女はどこかに異動していた。

 北朝鮮において日本人と日本のイメージが透明化しているということを長々と書いてきた。何色かは今や判然としないが、ながく打ち捨てられたキャンバスはすっかり油絵の具がはげ落ちている。

 日本のイメージが無くなってしまうことを危惧しつつも、では自分が色の落ちたキャンバスにどんな色を重ねていくかを考えてわくわくする自分に気付いた。

 キャンバスは真っ白なのだ。

 北朝鮮ということばをニュースや新聞で見聞きする(それは大概、ネガティブなイメージと共にだ)度に、ぼくはヒョニを始めとする現地で会った案内員や接待員の顔や声、表情を思い浮かべる。ヒョニも今もどこかで、何かのきっかけで日本と日本を思い浮かべる時に、騒々しいぼくのことを思い出してくれるだろう。

 翌朝。訪朝団がロビーに集まる。ちょっとトイレにと言って、ぼくはこっそりバー「銀河水」を見に行った。まるで封印でもするかのようにしっかりチェーン状の鍵がかかっていた。そのせいでバーの扉は何か宝箱のように見えて、ぼくはなぜかぺこりと頭を下げると、ロビーに向かって長い廊下をゆっくり歩いて行った。交代した選手がゆっくりと時間を稼ぎつつ、フィールドに戻ることをイメージしながら。 

■ 北のHow to その20
 北朝鮮のホテルのバーには世界から人が集まって来る。わざわざ北朝鮮に来るというだけでも魅力を持った面白い人たちばかり。そこに日本代表として加わってみて欲しい。そして平壌で友だちになった外国人とは帰国後も連絡を取り続けることをお勧めする。北朝鮮に対する新鮮な視点を得るためにも。

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サポートいただけたら、また現地に行って面白い小ネタを拾ってこようと思います。よろしくお願いいたします。