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【亜久津歩→俳句】榮猿丸句集『点滅』の話をさせて

少し前、「歌集と句集を一冊ずつ、枕元の抽斗に入れ眠っている」と出てくる詩を書いた。その句集・榮猿丸『点滅』(ふらんす堂)について今日は話したい。『点滅』の好きなところを書き出したら小指の脇が黒くなった。どこから始めてよいかわからないが、いくつかのフックから取り掛かってみよう。

▶︎声に出して読みたい

みのはちのすせんまいぎあら春愁
マタイマルコルカヨハネユダ黍嵐
ゴダール黒縁眼鏡クロサワ黒眼鏡

とにかく、口ずさんでみてほしい。

1句目、ホルモン句(!)。焼肉へ行きたくなる度に唱えている。牛には胃が4つあり口に近い方からミノ→ハチノス→センマイ→ギアラだ。ゆっくりとした反芻と、わけもなくこみ上げる「春愁」が合う。徐々に消化されていくゆるやかな遅さと鈍さを、ひらがなのまるみが際立てている。

2句目。4名の福音書記者の名を連ね「ユダ」からの「黍嵐」。内容と句のスピード感と強風がぴたりと合う。これが俳句になるのかと驚いた。なお1、2句目ともに6音7音+5音の季語。いずれも次へ次へと連なる内容なので少し早口が丁度よく、初句6音は必然と感じる。

3句目はさらに早口言葉めいて愉しい。「黒/クロ/黒」の畳み掛けが先だろうか、映画監督縛りでも数多いる「黒縁眼鏡」から「ゴダール」を選ぶのが、なんともオシャレだ(「ゴッホ鬱ゴーギャン躁や枯木に月」という句もあるので「ゴ」がお好きなのかも)。

愛唱性の高さも『点滅』の魅力の一つである。初句7音の句やリフレインを用いた句も多く、心地よい〝歌〟を感じる。いくつか書き出してみよう。

▶︎初句7(8)音

白木蓮の花びら拾う火鋏に
欄干摑めば指輪ひびきぬ夏の河
指の肉照る箱庭に灯を入れて
前向駐車満天星躑躅保護のため

1句目、775。「白木蓮の花びら拾う」という77の優美な滑らかさ、それを軽く流さず受ける「火鋏に」の深い重み。ha-ha-hi-hiと重なるh音に、はらりと零れ落ちる花びらの動きと儚さを、「火」の字から揺らめきを想起する。この句に火自体はないが、「火鋏」と「白木蓮」とが響き合うことで火が生まれる。白木蓮の花はよく鳥に例えられるが、「火鋏」によって掌ほどのほむらになるのだ。燃え落ちたそれを「火鋏」で拾うことにより、花びらの肉厚さやひやりとした存在感をより感じる。咲き誇る白木蓮は熱いのかもしれない。

2句目、875(「ラン/カン」は1.5音ずつくらいで775に近く感じる)。真夏の熱い欄干だろうに、涼しげな金属音が響き渡る。「川」でなく「河」であることから、音が線よりも面となりやがて空間に染みていく。
「欄干に指輪ひびきぬ」ではダメ、87だからこそそっと手を置くのではなく指輪が鳴るほどの勢いがつくのだし、余韻も広がる。

3句目、755。「指の肉/照る箱庭に」と切れば575だが「指の肉照る」と一息に読む。クローズアップされた艶めく肉感こそがこの句の魅力だからだ。対照的な「箱庭に灯」という無人の景色がまさに人を照らし、生命を立ち上がらせている。

4句目、775。「のため」以前がすべて漢字であることが重要だ。一見長くいかめしい熟語のようなその実、ささやかな思いが微笑ましい。満天星躑躅の小花が胸の暗がりにほの白い光を散らす。
ちょっぴりいかめしい表情で軽みが愉快な句は他にもある。「間違ふな枝豆の笊莢の笊」「受話器冷たしピザの生地薄くせよ」など。

さて、そんなわけで。俳句も短歌も「初句7音」の優美さやドライブ感を愛好する者としては実に贅沢な一冊なのだ。「鍵ハアリマスアネモネノ鉢ノ下」「ダウンジャケット継目に羽毛吹かれをり」「モザイクタイルの聖母と天使夏了る」も堪らない。カタカナと漢字の配合も絶妙だ。初句8音のリズムにも改めて惹かれた、これらは「余り」ではない。

雪の教室壁一面に習字の雪

776、型いっぱいの雪である。校舎を覆う雪、壁を覆う半紙、窓の雪と墨の雪。埋め尽くされる白と黒のコントラストがあざやかだ。そして『点滅』におけるリフレインはこの「雪」のように、1度目と2度目が異質のものであることを指摘しておきたい。1つ1つ、1度ごとの尊さを感じる。

▶︎リフレイン

ビニル傘ビニル失せたり春の浜
秋の灯の紐こそよけれ紐引ける
水撒いてホースよりみづ飲みにけり
蟻払ひ蟻の頭残る腕なる

1句目。「ビニル」を喪失し、銀色の骨だけになった「ビニル傘」。役目を終え、人の手を離れ、春の光に包まれながら穏やかな浜辺にそっと横たわる様が微かに寂しくあまりにも眩い。この「ビニル傘」は幸運だ。こんな風に見つけてくれる目のなかで壊れてみたい。

2句目。秋の夜の中心から垂れるように、照明の「紐」がある。いいなぁと眺めた紐と、今手の中にある紐。いいなぁと眺めた何かを実際に摑めることはそう多くない。その瞬間を握りこみ、灯を落とす瞬間のカツンという音と手応え。暗転する寝室。月のきれいな、長い夜が訪れる。

3句目。ホースで撒く水は何の変哲もない、〝ふつう〟の使い方をした水だ。では屋外の、往々にして付けっぱなしの青や緑のホースからそのまま飲んだ水は? この差異が表記の別に表れているように思う。あるいは直に触れ、体内へ入れることで「みづ」を感じるのかもしれない。暑い暑い夏の日、大胆さが爽やかだ。

4句目。よじ登って来る「蟻」を払った瞬間、それは「蟻」だったものになった。同じ体験をしたとして、わたしはこれを書くだろうか。書けるだろうか? きっと目をそらし忘れるだろう、軽軽と命を奪っておいて。

『点滅』には愛がある。例えばこの、すべてに向けるまなざしである。わたしは潰した蟻を記憶したくない。そう考えたとき、自分が「死」さえ選別していると気付いて暗い気持ちになった。「これは詩にもならない死だ」と。

秋の蟬ひろふや尻を撫づれば鳴く

これもショックだった。わたしは秋の蟬が大の苦手で、道端やベランダの片隅にひっくり返っているのを見るとぞっとして目をそらしてきた。死んでいても明るい気持ちでは見られないし、不意にジジッ! と動いた日にはぎえっと跳び退いた。それに手を伸ばし「ひろふ」。拾って、尻を、撫でて。そうしたらまた、まだ、鳴けたという。この行為が何を意味するのか正確にはわからない。ただ初めて読んだとき、わたしは自然と「蟬」の方に心を重ねた。ビニル傘を淡く羨んだように。

この俳句に出会ってから、自分にとっての「秋の蟬」が、蟬のいる風景が一変した。『点滅』は、そういう世界の変え方をする。

竹馬に乗りたる父や何処まで行く」「青田風田舎くさしとさけびあふ」「愛かなしつめたき目玉舐めたれば」……人を見つめ人に慕われ、続く関係があり、楽しそうだ。しかし、人の中にありながら――あるからこその影もまた描かれる。

トイレの水流して泣くや春の宵
冬至湯に頭まで浸かりぬくよくよするな

幸せそうな誰も、人知れず何かを堪えているのかもしれない。

『点滅』は、愛の句集だ。恋の句が充実している点はしばしば指摘される通りだが、数としてはイメージほど多くない。積極的に恋を書いたというより、恋を包括したのではないか。恋も大きな愛の一種、一部に過ぎないのである。それは汝や君に、父に友に、死にかけの蟬に壊れたビニル傘にビールの空壜に、ごみ箱を覗く鴉の子に鳥の糞を浴びた枯木に、靴の下の花びらに人の途絶えた場所に、滔滔と注がれる。

そしてそれは側面に、オフの部分に注がれる。それぞれが宿命的に負う機能や要請される役目ではないところへ、外的な意味や価値と関係なく、花を添えるように。

秒針の跳ねて震へや春隣
ガーベラ挿すコロナビールの空壜に

『点滅』にはかわしまよう子氏の写真が3点載っている。1枚目大扉・粉末洗剤に付属しているプラスティック製のスプーン、2枚目81ページ・白い湯呑み、3枚目145ページ・お弁当のおかずを仕切る紙カップ。そしてそのすべてに植物が活けられている。緑の葉と小さな花と、さらに小さな蕾。

これがとても可愛らしく、愛しいのだ。派手な花を贈るのではない。さりげなく添えるとき、スプーンも湯呑みも紙カップも、普段とは違う表情を見せる。『点滅』の俳句そのもののような写真だと思う。

『点滅』には正木ゆう子・髙柳克弘・藤本美和子三氏による栞解説文が付いている。中でも髙柳克弘「信じるに足る愛」に首肯するところが大きかった。ただ一つ、異なる印象を持った部分がある。髙柳氏は「ビニル傘ビニル失せたり春の浜」のビニル傘を「美しいオブジェ」と、「ガーベラ挿すコロナビールの空壜に」の空壜を「美しい調度品」と表している。そして、

榮猿丸の描くものたちは、どれもまぎれもなく美しい。雪月花をはじめとする季語の美しさもまた、幻想に過ぎなくなった現代において。雪月花に匹敵する美を身辺に求めようと奮闘する、その切なさゆえに美しいのだ。

――とある。髙柳氏にとって「美しい」が大切な、心からの賛辞であることがわかる(同時に「なぜ榮猿丸は使い捨てられるつまらないものに固執するのか。そのような疑問を抱く者」の「美しさの固定概念」を払うため、敢えて強い言い方をしているのかもしれない)。ただ、『点滅』は何かに光をあてて「美しいもの」に〝格上げ〟したり昇華したり、「美」を探そうと目を凝らしているようには思えなかった。わたしが俳人の奮闘の外にいるから抱く違和感かもしれない。いや、何を「美しい」と呼ぶかの違いで、同じことかもしれない、けれど……。

美化せずに。美しくも、役に立つこともないまま花を添えてくれる。それが『点滅』から感じたもので。だから、愛だと思った。

話は尽きないが、このあたりにしておこう。終わりに一つ。『点滅』の名は、この句から来ているのだろうか。

くちなしの花カーソルの点滅す

755。くちなしは常緑の低木で、白く大きな花を咲かせる。熟しても果実が割れないことから「口無し」という和名がついた(他説あり)。口を開くことも葉を落とすこともなく、ただ強い香りを放ち佇む――そこへ「カーソル」が重なる。脈打つように点滅しながら、カーソルは「口無し」だ。「I」の形で次の操作を待ちつつ、己のための言葉を持たない。
常に現在にあり、言葉と空白の間に直立する。しなやかに今を記録し、透徹した目で更新するこの句集に、猿丸さんに、よく似合うと思うのだ。

もしよければ、いつか続きを聞いてほしい。今日は本当にありがとう。

榮猿丸句集『点滅』
四六判・188ページ・2013年12月27日刊

帯・題箋:小澤實
栞:正木ゆう子・藤本美和子・高柳克弘
装丁:山口信博 写真:かわしまよう子
ふらんす堂オンラインショップより)

#俳句 #句集 #エッセイ #感想

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