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0323「肉体の門」

今週から長男のサタデースクール、つまり日本人学校がない。そもそも先週がその週末日本人学校補修校の小学校の卒業式だったので、中学に上がるタイミングだったのだが、いくつか理由もあって、日本語での勉強はオンライン家庭教師的なものに切り替えた。毎週土曜の朝から起きてユニオンスクエア(うちから45分くらい)の校舎に行って、家に戻って二度寝したりいろいろしてまた1:30くらいになったら45分掛けて学校に行って長男をピックアップして帰ったらもう夕方、みたいな土曜をずっと過ごしていたので、忙しくなくてとても良い。

昨日まで、重要な来客があって、合宿的にいろいろご一緒していて、これはとても学ぶところが多かったし、ここに書くと良さそうなこともいろいろあったが、土曜日なので仕事のことをあまり考えたくないし、今度にする。

そういえば、ニューヨークに住んでいるのに頑なに行ったことがなかった「スリープ・ノー・モア」にお客さんと初めて行った。有名なオフ・ブロードウェイの劇、というか1つの建物全体を使った劇で、建物の中を自由に歩き回ると、いろんな場所でいろんな人たちがそのときどきの場面を演じている、というとても面白いものだ。役者が部屋から部屋へと動き回ったりするので、お客さんみんなで追いかけて動向を追ったりする。建物の中には様々な部屋があって、いろんな空間演出が施されている。ので、歩いて回っているだけでも楽しいのと、結構恐ろしい装飾なんかもあったりして怖かったりもする。

あんまり書くとネタバレになってしまうので書かないが、以前からたまにここに書いているように、みんながみんな見に行くようなものだと、「ここで見に行かないという選択肢をとることで、他の人たちとつくるものが変わったりして良いのではないか」病を発症する傾向があり、たとえば昨年末も深圳にいたのに年末の街全体のビルイルミネーションのやつとか見なかった。そんなもんだから移住この方「スリープ・ノー・モア」には行くものかと思っていたが、行ってみるとこれは完全に素晴らしいものだ。世の中には行ってみたり見てみたりするととても素晴らしいものがたくさんある。

今日も義務感で書き始めているが、もうほぼ完全にこの日記を書くことに飽き始めていて、超面倒くさい。こんなものは書いていても全く意味がない。決めたことを途中で止めないという傾向があって、これは良いこともあるし、柔軟性の無さにもなってくるので悪いこともあるが、せっかくの土曜の夜で気の休まる時間なのだからわざわざこんなものを書こうとしなくても良いのに、慣性がついてしまっているので、どうしても書いてしまう。

テレビジャパンで、たぶん日本ではNHKでやっていたであろう「最後の講義『みうらじゅん』」を流し見していた。これはとても面白くて、特に印象に残ったのが、「人はなぜ怒るのかというと、それは『自分がある』からなのであって、自分などというものが無ければ怒らなくて済む」みたいな趣旨のことを言っていた。あと、人と比較することの無意味さとかそういうの。

これは確かにそうで、さらに言うと「自分がある」ということは自分の内と外というものに線を引いているということだな、と思った。自分、と自分ではないものに線を引いているから「自分」というものが発生してしまう。自分が自分でなく、特に他者とか世界との線を引かなければ「自分」などということを考える必要はない。

ただ、肉体というものは存在していて、自分の肉体の内と外というものはあって、食欲も性欲も睡眠欲もその肉体に振り回されるので、肉体的な要請で内と外に線を引きたくなる。「おいしい」とか「気持ちいい」とか「眠い」とかを感じるのは自分の肉体だから、それは代替できないし、そういうのは自分の肉体で独占するほかない。

じゃあしかし、たとえば私は自分の会社を代表して何かを言うことがあって、それはやはり内と外の線引をすることで「これがうちの会社です」という会社としての「自意識」をつくっていることにもなる。しかし実は自分がやっている会社と自分の肉体はあんまり関係なくって、自分の会社がなんかすごく良いことをしても別に肉体的に気持ちいいとかそういうことではない。それなのになぜか線引をする。

もっと言うと、信条とか宗教とかもそうで、内と外を規定するからこそ自意識が生まれているようなものだ。

例えば私は、昨日もそこそこ酒が入った状態で、広告業界の一部で起こっていることに対してとても辛辣なことを言ったりして、「広告の仕事を愛している者」とか「業界に対する責任を負っている者」という立場でそういう意見を言っているのだが、それはそれで、「広告の仕事を愛している者」とか「業界に対する責任を負っている者」である(と思っている)自分と、そうではない人との間に、肉体的なメリットが何もないのに線引をしているから怒りたくなってしまう。

こういうのは自分の肉体と本当に関係がないのか? というと、限りなくないような気がする。

トランプ派と反トランプ派、みたいのはもしかしたらちょっと肉体的だ。トランプに政治を任せたら自分の生活が豊かになると信じている人がトランプを支持する。トランプに任せると自分が銃撃されるリスクがあるから支持しない、なんていうのもちょっと肉体的かも知れない。

自分は自分の肉体のために会社をやっているのか? 自分は自分の肉体のために何かを信じているのか?

そこを突き詰めると、会社というのはやはり営利を追求しなければいけないものなのではないかと思えてくる。「会社」なんていう線引されて囲われたものを他と差別化して競争させることで営利を得て、良いものを食って良いクルマに乗るなりしていろいろ良い思いをする。肉体の要請を満たすためになにかやるというのはそういうことだろう。

では自分がやっている会社が営利を追求しているかというと、なるべく内と外を線引せずに利他的にやることで良いことが起こるはずだと信じて動いているようなところもあるが、それだと肉体的なリワードが遠ざかっていく。しかしそれはいわゆるオープンソースという考え方に近いかもしてなくて、そういう考え方でやっていけば社会全体が肉体的により良いものになる、ということになるのかもしれない。そのときに大きな問題になるのは、「囲わない」自分たちに対して「囲う」他者が出てくることで、そうするとまたそこに線引が生まれて、「囲わない派」という自意識が生まれてしまう。

通常、ここまで考えすぎずに寝てしまったりして忘れて、線引して怒っていくのだが、こうやって文字にしてどんどん自分の矛盾を追い詰めていくと、だんだん出家したくなってくる。そうか、出家するってこういう感じなのだな、と思う。

4月頭から世界ツアー気味に出張に出る。日本とか台湾とか確実に太るので、その前に出家する方向に自分を持っていきたいと思う。

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