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チャレンジストーリーVol 2:「コンサートで感じた、見えることで広がる世界への気づき」

「レーザの力で、「できない」を「できる」に変える。」をミッションに掲げ企業活動を行っているQDレーザですが、我々のミッションと同じく、「できない」を「できる」に変える、そんなチャレンジをしている見えづらさのある方をチャレンジストーリーという形でお伝えし応援しています。チャレンジストーリーVol 2はピアノ調律師として活動をしているゆめさんです。

ピアノ調律師としては駆け出しですが夢に向きひたむきに調律に励んでいます

(ゆめさんが感じていること、生の感想をゆめさんの言葉で紹介できればと思い、ここからの文章は、ゆめさんが記載してくれた内容をもとに作成しています)

「音楽」と「わたし」と「見えづらさ」

私は先天的な色素の疾患があり、その影響で生まれてからずっとロービジョンです。矯正視力が0.1程度、遠視と乱視、眼振と斜視と羞明(眩しさを感じやすく見えづらさが生じます)があり、メガネでは矯正が難しく、治療法もありません。普段の見え方は、晴眼者にとっては、全体的にぼんやりとした視界なのだと思います。

小さなころから周りの人はみんな優しくて気軽に声をかけてもらっていました

私が小さなころから音楽を好きなことに気づいてくれた両親のおかげか、視覚が難しくても聴覚を伸ばしていってほしいと感じていたのか、両親の想いかは分かりませんが、物心ついた時には音楽教室に通い始めていて、そこから私の身近にはずっと音楽がありました。
音楽高校でトランペットを専攻し、音大では作曲を専攻するなど、今思い返しても、ずっと音楽中心の生活だったなと思います笑。見えづらさのある人は私の周りにはあまりいなかったけれど、特に見える、見えないの区別もなく、音楽でつながる人たちが自分にとっては居心地がよかったのかもしれません。
大学卒業後はいったんは音楽とは少し離れた会社に就職し、仕事をしてましたが、自分が好きなこと、したいことにやっぱりチャレンジしようと思い、ピアノ調律の専門学校に行きなおし、今はピアノの調律師として活動をしています。
ピアノの調律学校では、やはり目の力を使って細かな部分を確認しなければいけない場面も多々ありました。何か見たいものをしっかりと見る時、私は見たいものに直接近づいて目を凝らして見るか、携帯電話で写真を撮り拡大して見るか、といった方法で見てきました。しかし張弦などの細かな作業をする時に、このような見方ではなかなか思うように作業ができず、難しさを感じていました。
そんな時にQDレーザの網膜投影視覚支援機器レティッサに出会うことができ、今まで見えづらかった細かなものも自分の目で見ることができる、少し離れたところからでも、目視することができるようになったのです。レティッサは細かな作業に慣れるための大きな力になってくれました。
(今では感覚をつかむことができ、レティッサを使わなくても作業ができます!)

細かな作業を練習する時に、眼鏡型のレティッサを使い手元を確認することができました

今までとっくに諦めていた、「はっきり見える」という感覚を、レティッサは実現してくれました。レティッサに出会ってから、動物や植物、景色、人の顔、文字の読み書きなど、色々な「見える」を生まれて初めて体験することができ、私にとってさまざまな新しい世界を教えてくれたのです。
それと同時に、今まで知らない事が多すぎたことにも気がつきました。
そのひとつが音楽鑑賞です。仕事でもプライベートでも、普段からコンサートやライブに行く機会が多いのですが、音楽だけは、ロービジョンであっても晴眼者と何も変わらず楽しめていると思っていました。耳さえ聞こえていれば、音楽を聴いて味わうことができれば、それが音楽鑑賞だと思っていたからです。

東京文化会館「リラックス・パフォーマンス」

先日、東京文化会館主催の「リラックス・パフォーマンス~世代、障害をこえて楽しめるコンサート~」を鑑賞しました。
※レティッサオンハンドでリラックス・パフォーマンスのモニター会を実施

このコンサートはいつものクラシック音楽コンサートとは少し違って、演奏中に少し音をたてても、身体が動いても全く問題なく、発達障害や自閉症などで普段ホールでの音楽鑑賞に不安がある方も、安心して一緒に音楽を楽しめる公演です。

リラックス・パフォーマンスには白杖をついている方、手話でコミュニケーションを取る方、
車いすに乗っている方、発達障害のある方や小さなお子様など、
本当にたくさんの方が楽しそうに参加していました

一般的なクラシックのコンサートであれば、特に本番中は咳払いをするだけで顰蹙を買ってしまうくらい、観客の立場でも緊張してしまうものですが、今回のコンサートは障害のあるなしにかかわらず、みんながリラックスして音楽に集中できる、そんな会場の雰囲気でした。
そのような雰囲気の中にいると、私は大学時代、ある教授が「音楽を鑑賞する時は、きちんとお行儀よい姿勢で聴いても、身体を硬直させてしまっていては意味がない。身体をリラックスさせて大きく呼吸をして背もたれや肘掛けにフワっと寄り掛かり、体全体で音楽を吸収する位のつもりで鑑賞するのが一番いいのだ。」と言っていた事を思い出しました。その教授曰く、いわゆる一般的なクラシックコンサートのような緊張した会場の雰囲気は日本独特のものなのだといいます。
そういった意味でも今回のコンサートは、みんなが純粋に音楽を楽しめる場だったのではないかと、とても素敵な企画だなと思いました。
ロービジョンの自分にとっても、大きく文字が拡大されたプログラムが用意されていたり、必要であれば座席まで案内してくださったり、公演中は司会進行の方が言葉で細かく会場の様子を説明してくださる場面があり、安心して楽しむことができました。

レティッサオンハンドの動作確認のため、リラックス・パフォーマンスのゲネプロを鑑賞させていただきましたが、ここからステージの指揮者がタクトを振っている姿が見えるのです!

音楽の感動を、聴きながら、見ながら。

そして何より、初めてオーケストラを「見て楽しむ」事が出来たことに一番感動しました!「見ている」ことと「見えている」ことは全然違う。学生時代からずっとそう思ってきました。コンサートではいつも舞台の方へ視線を向けています。でも見えてはいません。音が出ているから、皆んながそっちを見ているから私も見ているのです。その舞台の風景は絵でも現わせないようなもので、言葉にするともやもやとした塊。それをただ眺めながら、はっきりと聴こえてくるオケの音が1音ずつ譜面となって頭に上書きされていきます。そのように音楽鑑賞を楽しんできました。(この私なりの音楽の楽しみ方は、音楽を耳から全身で感じ楽しむことができる、私の中では最高の音楽の楽しみ方であることもひとつの事実です)
でも今回レティッサを使ってみて、「見えるってこんなに楽しいんだ」と、本当にそう思いました。今まで私が知らなかった世界が、そこには広がっていました。指揮者の的確な動き、演奏者の顔、楽器の編成、コンサートマスターが皆んなを率先して誘導している様子、自分のパートが休みの時に手話通訳の方の手話を真似しているオケ団員、弦楽器のストローク、打楽器隊が何人いて、どんな楽器をどんな奏法で演奏しているか、不思議と視覚情報があることで、いつもより音もはっきり聴こえてきます!
今まで知った気でいたけれど、その光景は全然知らない世界でした。(もし学生の頃にレティッサがあり、「見えるという感覚」を知っていたら、また何かが違っていたかなとも少し感じてしまいます)
ずっと見ていたくて、ずっと同じ姿勢で見ていたらグリップを握っている方の腕が痛くなってしまいました。。。笑、それでも、それくらい私にとっては凄い事で、見えることに感動しました。コンサートだけでなく、日常生活でも、沢山の見える世界を知っていくことで、きっとレティッサが私に色々な新しい世界を教えてくれるのだと思います。

私の他にもそれぞれ違った見えづらさのある参加者さんがレティッサを使いながら、
いつもよりも離れた場所からステージを見てオーケストラを楽しむことができました!

「見えること」の「本当の気持ち」

目からも情報を得ながら、耳で聴くオーケストラは、私にとって今までには味わったことがない感動がありました。同時に、実は心の中には色々な感情が芽生えていました。見えるという事がとても嬉しく、音楽をいつもとは違った角度から楽しむことができるという感動と同時に、私の心の中には、「見えている人はこんなにも見えているのか。。。」と悔しさも感じていました。
ぼんやりとではなく、はっきりと見えていれば、もっといろんなことを簡単に知ることができる、もっといろんなことが簡単にできるようになる、そんな気がして、見える喜びを感じながらも、表現しづらい感情がこみ上げてきました。
私のような弱視、ロービジョン者は、障害者手帳を持っている人で約30万人、障害者手帳を持っていなくても、眼鏡やコンタクトレンズで視力が上がらない人は130万人ほどいると言われています。私も、弱視やロービジョン者とひとくくりに紹介される時がありますが、ひとくくりにはできないくらい見え方にはグラデーションがあります。そして、見えづらさを感じている全ての弱視、ロービジョン者はそれぞれの見え方に合わせ、工夫しながら、様々な見え方で人生を楽しもうとしていると思います。この、それぞれの見え方の中で工夫をしながら何かを感じ、楽しみを増やしていることは、私はとても素晴らしいと感じていますが、一方で今、レティッサの様に見えづらかった世界を見えやすくする機器や技術が、世の中に出てきたことによって、今までとは違う世界を体験できるようにもなったことも実感しています。もし私がもっと小さい時に自分の目で見えるという体験をしていたら、もっといろいろな情報を簡単に得ることができて、知識を増やしやすかったり、得られる体験の数をもっと増やすことができたのではと感じてしまいます。なので、レティッサはあらゆる世代にとって使えるものですが、特に小さなお子さんなど、今からいろいろな経験をしていく子供たちにとって、もっと気軽に使うことができ、新しい感覚や世界を広げるような、そんなものになってほしいと強く感じています。

美術館、コンサートホール、水族館、動物園、図書館、
もっといろいろなところでレティッサの貸出しがあれば、
今までよりも楽しむことができる人は沢山いると思います

今回東京文化会館のリラックス・パフォーマンスという特別な機会でレティッサを使いオーケストラを鑑賞することができましたが、今回の様にレティッサを使って見えづらさを感じている人が、自分の目で見ることができるような楽しみ方が、一般的なことになったらいいなと思います。いつか私が調律したピアノのコンサートに、見えづらさを感じている小さな子供たちが来て、普通にレティッサを使って見て・聴いて、音楽を楽しんでくれる、そんな世の中になっていて欲しいです。自分が音楽と一緒に歩んできた世界が、また誰かの世界を広げられる力になる事ができれば、とても嬉しいなと思いながら、これからもピアノ調律師として頑張っていきたいです。

道はまだまだ長いけれど、夢に一歩でも近づけるように頑張っていきます

以上、ゆめさんのチャレンジストーリーいかがでしたでしょうか。つい我々は見えるという価値を中心に発信してしまいますが、見えるという事の中には、様々な思いがあることに改めて気づかされます。ゆめさんが調律をしたピアノが増えていくことも、レティッサが広まりあらゆる場所で使えるようになることも、誰かの世界を広げることだと感じています。
ゆめさんが頑張っているように、レティッサがより多くの場所で使うことができるような社会になるまで頑張っていきます!