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看书:『香港と日本 - 記憶・表象・アイデンティティ』(#9)

これはある講演会での一幕である。
プロジェクターで映し出された写真。
それは香港のとあるベンチで寝そべる中国大陸出身者を撮ったものだった。
「あなたはどう思いますか?」
その問い掛けに聴講者の意見はこうだ。

「醜い」
「一人でベンチを占めて他人が使えなくなる」
「中港矛盾(中国本土と香港との交流が活発になるにつれ、様々なトラブルが起こること)を思い出した」

次に、同じベンチで寝そべる金髪の西洋人が映し出される。
「あなたはどう思いますか?」
同じように訊く講演者に対し、嵌められたような思いがした。

「快適そう」
「パブリックスペースを生かしてストレスを発散出来ていて、都市の新しい文化も作られそう」

素直な意見を訊き出すと、聴講者の多くが好印象の回答だった。

中国の複雑な事情―言語文化

冒頭は、本書からの簡略抜粋である。
中国事情はとても複雑だ。帝国主義時代前後の歴史的時間軸と中国本土の急速な経済発展、それらが元来ある多文化に歪に交わった印象がある。

たとえば言葉。
中国語にはいくつも方言があり、そのニュアンスが日本語の”方言”より隔たりがある。
一般的な中国人が使う言葉は“中文”と表現される。ただ捉える人によって意味が変わる。
たとえば北京界隈の人が指す“中文”は北京語(北京話)である。
上海界隈の人が指す“中文”は上海語(上海話)だったりする。
同じように香港住民が指す“中文”は広東語(広東話)となる。
それゆえ、所謂日本語の標準語に属するものがあり、普通話と分けて呼ばれる。
しかし香港での公用語(中国本土は普通話)は“広東語”である。
(※尚、中国国内語においては一般的に“○○語”とせず“話”を宛がう)

それらの一番大きな違いは読み方(音)である。
ちなみに中国本土では若者のほとんどが地域の方言と普通話のバイリンガルである。この点は日本の若者の方言がマイルドになったように近しい部分があるかもしれない。

では漢字が同じかというとそれも異なる。
先に挙げた歴史軸というのがまさにそれを指し、第二次大戦後作られた“簡体字”と呼ばれる“繁体字をより簡素にしたもの”が中国本土で採用され、使われている。
尚、繁体字が使われているのは香港、そして台湾である。

ただ台湾は漢字こそ“繁体字”を採用し続けているが、“拼音(ピンイン)”と呼ばれる日本のルビに相当するものは中国本土の普通話と同じである(台湾では”台湾国語”と呼ばれる)。

余談だが、英語でChinese=中国語だが、
広東語=Cantonese、普通話=Mandarinである。

これも歴史の影響である。Mandarinの”Man”とは少数民族の満州族の”まん”を指す。
そう、清の人(官僚)の言葉という語源なのである。

こういった意味でも帝国主義時代は様々なことを歪にした気がする。
言語一つ取り上げてみても“一つの国”の持つ事情は中々複雑だ。
そして言葉とは分かりやすい文化の一指標でもある。

返還時と返還後20年での中国本土の経済成長

1997年7月1日にイギリスから香港島および新界・九龍半島の返還されて、
中国での一国二制度が開始された。
1997年と2020年、香港と中国本土との一番大きな変化は経済的優勢である。
返還時香港は中国のGDP20%相当を占めていたが、2018年時点で3%未満まで下がっている。

しかし中国本土より香港の方が安心という“香港ブランド”があり、香港における投機目的の不動産売買や生活用品の爆買・転売・密売が横行した。
気づけば、住民より本土客が主流となった。
そして街が一変し、香港は住み難くなったという。
それはこれまで香港が、香港で生まれ育った人々が中国本土において保っていた優位性、“矜持”のようなものが瓦解していく瞬間だったのかもしれない。
以前は香港住民が自らを”中国人”と称すこともあったそうだ。
それが今は“あいつらとは違う、俺たちは香港人だ”というアイデンティに目覚めていったらしい。
それら市民感情が権力、経済の“巨人”に抵うかたちで結び付いていったようだ。
時に“ヘイト”的発言も見受けられるようだが、先ずはそうした背景を理解する必要はあるだろう。

本書を読み終えて…

そして本書は“香港と日本”という歴史・文化的の対比、互換、融合によって論を終える。
大日本帝国前後の文脈と宗主国の変更、中国の経済発展の狭間で香港という場所で、各々が複雑な感情を豊穣させている。
「分かっている、でもどうなるかわからない」
一国二制度は2047年、正式に終わる。
分からない、だけど懸命に生きようとしている。まさに今。

でも、一つ言えるのはそうして育まれた文化はなくならない、または廃れず残り続けたものこそ真の文化だろう。
そしてあなたはあなたが“嫌いな人”をただ嫌いなだけであって、“〇〇人”だから嫌いとか好きという発想こそ厳に慎まれるべきだろう。
冒頭ベンチで寝そべる人に対して、抱いているのがまさに今の香港人の感情でもある。しかし不快に思わせるのは“西洋人”だからでも“中国本土人”だからでもない、ベンチに寝そべるその“行為”に対してである。もし理由が“〇〇人”というならば、そもそも理由など何でもよいということだ。
そういう意味でイジメもヘイトも支離滅裂である。

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