見出し画像

振り返ったら人生にめっちゃ影響してた本たち

このFR0M SCRATCHのこっち側マガジンは、FR0M SCRATCHの中の人達が当番制で好きに書いてます! そんな個性豊かなチームでのやり取りは基本Discordで、メンバーの1人から

リレーコラムでもいいけど例えば「あなたの人生を変えた本は何?」っていうお題でNote書くとか

という提案があったので、便乗して書いてみることにしました。

ただ、何かを「変える」という表現は好きじゃないので、「めっちゃ影響してた」にしました(ごめんね!)。
よくソフトウェアで「世界を変える」とか「デザインで世界を変える」とかインド旅行で「自分を変える」とか聞きますけど、きっと私にはできないし、せいぜい変わって価値観かなと(これも他人の価値観に干渉する意味でだと変えるとは書きたくないです)思っております!

+ + +

ミヒャエル・エンデ「ジム・ボタン シリーズ」「モモ」

モモは、時間どろぼうに奪われた時間の花を、みんなに返すお話です。

私は初めてモモを読んだときのことをよく覚えています。小学3年生だったと思います。
私は本当に恵まれていました。田舎の小学校でしたが、図書館にミヒャエル・エンデの本が3冊、「ジムボタンの機関車大旅行」「ジムボタンと13人の海賊」、そして「モモ」が、文庫版ではなくきちんと単行本サイズの、立派なものがあったのです。

当時、気になった本をひたすら図書館で読み漁っていた自分は、ジムボタンの機関車大旅行をみたとき、本がすっと、ひとりでに出てくる感じがしました。

私はこのジムボタンシリーズを読んで、永久機関という存在を知りました。馬の鼻先に人参をぶら下げるみたいに、機関車の先に磁石をくくりつけて、これでどこまでも飛んでいける、そんな話だった気がします。当時大変に感銘を受けて、実際に家にあったおもちゃでやってみましたが、全然動きません(すっごいわくわくして家に帰ったのを覚えています)。
調べて調べて、それは張力としてくくりつけている棒に働いているだけだから、みたいな説明にたどり着きました。同時に、永久機関がこの世には存在し得ないことも知りました。
もしかすると、あれが私の、科学への入り口だったのかも知れません。エンデ先生、量子情報学の基本を紹介できるくらいには、なんとか成長できました。感謝しかありません。

そして、2冊おもしろく読んだら、3冊目も読みたくなります。これがモモとの出会いでした。
読んで、私は一発で、この世界観の虜になってしまいました。崩れたコロッセオ、そこに住む女の子、想像・空想力、具体的な遊び方を規定されたおもちゃ、床屋、時間どろぼう、時間貯蓄銀行、友達、亀、マイスター・ホラ、どこにもない家、チョコレートドリンクとはちみつとパン、時間の花、再開、眠り、冷蔵庫、解放…「これは未来の話でもあるんです」。

これは成長して知ったのですが、モモはとても有名な作品で、いろんな活動、私の大好きなクルミドコーヒーだったりでよく使われる作品らしくて、そういうことを知ってたいへんびっくりしたのを覚えています。

多くは語りたくないので、簡潔に。この3冊は、私の生き方に、特になにかを決定するときに、大きな影響を、今でも与えてくれていると感じてます。

+ + +

影山知明「ゆっくりいそげ」

この本は、くにたちにあるPAPER WALL CAFÉで見つけました。
これも、不思議と吸い寄せられるような感覚がして、手にとったものでした。

中をパラパラっと読んでいたら、前述した「モモ」が出てきてたいへん驚いて(それまでモモがそれほど有名な本とは知らなかった)、衝動買いした本です。

この本を読んで3ヶ月後くらいに、隣の西国分寺駅にあるクルミドコーヒーに入ってみて、それ以来ずっと通い続けている、私のお気に入り空間になりました。高校1年生の終わりくらいだった気がします。

なんででしょうね、自分の今の生き方は、モモとかゆっくり急げとかとはまったく逆方向に進んでいる気するのに、こういう本に出会えたこと、そういう“時間”を知れたことは、真に幸せなことだと思っています。

この本が私に影響している、というより、クルミドコーヒー含めた生態系として、私に強く影響している気がします。
もしクルミドコーヒーがなかったら、なくなってしまったら、私のギリギリで保たれている心のバランスが崩れてしまって、ひどい方向に突き進んでしまうと思うのです。
そしてあの空間は、私にとって大事な人とのつながりを意識する、大切な場所なのです。私は普段、人のことを忘れてしまったり、時には手段としてさえ見てしまうことがあります(影山さんの一番キライなやつです)。

でも、クルミドコーヒーを、もちろん普通のカフェとしても1人や友達同士で使いますが、私は、大事な友だちや彼女との思い出の時間、空間、それを忘れないための場所としても使っています。そして、1人で行ったときは、パソコンを閉じて、スマホを消して、ゆっくりちゃんと、思い出1つ1つを拾って人と向き合うことに使うようにしています(もちろんたまには追い込まれた課題をこなす場所にも笑)。

そういうものの大切さに、気づかされた、いや、向き合いたくなくて目をそらしていたものと向き合うよう仕向けてくれたこの本は、私にとって大切だし、それを実現する場所としても大切なのです。

+ + +

茂市 久美子「アンソニー はまなす写真館の物語」

小学生くらいのときに読みました。

きっと黒井健さんの絵の素晴らしさもあるのですが、この物語の空気感が大好きです。自分のデザイナーとしての感覚とか、空気感とかは、この本が原点かもしれません。

写真を撮ることに興味をもったのも、このあたりかもしれないです。

+ + +

那須田 淳「星磨きウサギ」「一億百万光年先に住むウサギ」

たぶんこれを読んだのは小学高学年か、中学生あがってすぐのときだったような気がします。読みやすい物語が読みたくなって、「一億百万光年先に住むウサギ」を市の図書館で見つけて読んでいた記憶があります。これ自体も、とってもきれいな恋愛物で、「ケ・セ・ラ・セラ」を始め音楽に触れたのはこれがきっかけでした。

ただ、この本はこの本だけで世界が閉じてなくて、もう一冊「星磨きウサギ」という、短編集みたいな本があって、こっちにはほんとに、そういうウサギが出てきます。もしできることなら、これをずっと小さい頃に読んでおきたかった…。
私はこういう、子供のときの空想と、おとなになってからも生き続ける世界観のはざま、みたいな感覚が得も言われぬほど好きで。自分自身だけで世界観が発達するのって、きっと小学生くらいまでなんですよね。少なくとも、私はそう感じています。それ以降は、誰かのおすすめや、外的要因によってずっとずっと成長していく。この頃までに何かを好きだった感覚で、私はデザイン然り、ものを考える基準然り、「感覚」はこのとき止まりな気がしています。これに多少肉付けされたり、アップデートされることはあっても、もう大きくは変わらないのです。

+ + +

ウィリアムギブスン「あいどる」

これは私、読むのにちょっと時間かかった本でした。
たしか中学おわり〜高校生くらいで、ちょうどプログラミングとかデザインとかに足を突っ込み始めた時期です。
こんな世界があるんだ、っていうのを、今でも強く、あの衝撃を覚えています。読んだことがなければ、ぜひ読んでほしいです。

今はがっつり離れてしまいましたが、もしARやロボットの分野にもう一度帰ることがあるなら、きっともう一度読み返すことでしょう。

+ + +

昔、私の先生が言っていたことを思い出しました。
「夢中で、続きが気になって気になって読み進めてしまう本は、いい本ではない。途中で読むのをやめられるのが、いい本だ。」

これは私なりの解釈なのですが。本当に、自分にとって「新しい本」を読むときは、脳に強い負荷がかかるはずです。そしてそういう本こそ、自分にとっての世界を押し広げてくれます。ゆっくり咀嚼しなければ、複雑すぎて一度には飲み込めないような、でも読むのをやめられない不思議な魅力を持つ本です。自分の中に、アリの巣のように、新しい考えが構築されていくのです。
今思い返すと、小学生の私にとっては「はてしない物語」「鏡の中の鏡」がそういう本でした。「罪と罰」もそうかもしれません。

「モモ」は違いましたが、「ゆっくりいそげ」は、私にとっては世界を広げる本でした。

あと、M・クマールの「量子革命」という本があり、これも私にとっては負荷の高い本でした。そして同時に、量子情報学に覚悟を決めて足を踏み入れる一冊でした。
私は伝記というのが大の嫌いで、それはいままでファンタジーが好きだからだと思っていたんですけど、実はノンフィクションめちゃくちゃおもしろい(伝記は相変わらずだめなので、どうやら伝記だけが合わないらしい)というのに気がついた、衝撃的な1冊です。

最後、「檸檬」は、単純に好きで、1年に1度は読んでいる気がします。忘れたくない感覚の疑似体験。経験できない思いや感覚を、追体験するための、「未来の話」が本を読むことなのかもしれませんね。人間の頭というのは本当にすごくて頭が下がります。

ここで紹介した本はどれも、静かで、当たり前の日常の延長線上にあるものです。派手な戦闘や勝ち負けだけじゃない、わたしたちの世界になんかあと1つ、大事な概念が追加されたらすぐそこにある、まさに四次元空間かもしれません。あるいはモモの話をしてくれたおじいさんの言うように、時間の発達、みらいのお話かもしれません。もしかしたらあなただってボーアになるかもしれないんですよっ。
きっと私は、小さい頃からそういうものに触れていたので、そういう日常に敏感な感覚を身に着けることになってしまったのでしょう(家族はぜんぜん違う性格なので家庭環境ではなさそうです笑)。

人や本と向き合うことは、実は自分を見ることだと、私は考えています。それなのに、最近は自分の狭い世界の本を読むことに時間を追われて、世界を開拓できてないかもしれません。
本が出てくる、本に吸い寄せられる感覚を、大学以降一度も感じたことがないことに、静かに恐怖を覚えている今日このごろです。

おわり

サムネイル: 2018.5 クルミドコーヒーにて

この記事が参加している募集

読書感想文

サポートして頂けたらお礼にウルトラハイパーデラックスミラクルキラッキラな笑顔で感謝します