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井筒俊彦『意味の深みへ』にて

今回の記事は、前回と前々回の記事に触発されて書きました。

『意味の深みへ』は2年前に読んでいたのだが、なぜか、記事にすることを忘れていました。第七章「意味分節理論と空海」から抜粋したい。

 本論の表題そのものによって明示されているとおり、私がここで理論的にと言うのは、より具体的には、意味分節理論の観点から、ということである。すなわち、真言密教の言語哲学を、現代的な思惟の次元に移して展開するために、私はそれを意味分節理論的に基礎づけることから始める。そして、この目的のために、その第一歩として、先ずコトバに関する真言密教の思想の中核を、「存在はコトバである」という一つの根源命題に還元する。
 「存在はコトバである」。あらゆる存在者、あらゆるものがコトバである、つまり存在は存在性そのものにおいて根源的にコトバ的である、ということをこの命題は意味する。一見して明らかなように、こういう命題の形に還元された真言密教は、もはや密教的ではない。宗教的ですらない。「真言」という観念を、一切の密教的、宗教的色づけを離れて、純粋に哲学的、あるいは存在論的な一般命題として提示するにすぎない。そのような純粋に哲学的な思惟のレベルに移置しておいて、その上で「真言」(まことのコトバ)ということの意味を考えなおしてみようというのである。

――p.269

「真言のコトバ」と「普通の言葉」を、それぞれ「素粒子」と「原子核」に喩えたい。素粒子は、原子核を満たしているだけでなく、何もないかのように見える宇宙空間も満たしています。コトバはそのようにある。

異次元のコトバ――それの第一の特徴は、これまで日常的言語に関連して述べてきた意味の存在喚起エネルギーが、人間的生の地盤を離れて、雄大な宇宙的スケールで考えられるということである。コトバは、ここでは、宇宙に遍満し、全宇宙を貫流して脈動する永遠の創造的エネルギーとして現れる。常識的人間にとっては、これはたんなる想像、あるいは空想にすぎないかもしれない。しかし、ある種の人々にとっては、これはまさしく生きた実在感覚なのである。異次元のコトバの哲学を真剣に提唱する人々には、その哲学的思惟の根柢に、こういう一種の異常な実在感覚がある。その実在感覚の圧倒的な力が、この人たちに、宇宙的スケールの創造力、全宇宙にひろがる存在エネルギーのようなものを、どうしても構想させずにはおかないのだ。

――p.289

 この宇宙的「声」、宇宙的コトバの巨大なエネルギー、は一瞬の休みもなく働いている。それなのに、その響は我々の耳には聞えてこない。なぜ聞えないのか。宇宙的存在エネルギーとしてのコトバは、それ自体では、まだ絶対無分節の状態にあるからである。絶対無分節のコトバは、そのままではコトバとして認知されない。だが、他面、この無分節のコトバは、時々刻々、自己分節を続けているのだ。自己分節して、いわゆる自然界に拡散し、あらゆる自然物の声として自己顕現し、さらにこの宇宙的意味分節過程の末端的領域において、人間の言語意識を通り、そこで人間の声、人間のコトバとなる。
 このように自己分節の過程を経て「耳に聞える」万物の声となり、人間のコトバとなる以前の、絶対無分節態における宇宙的コトバ、「コトバ以前のコトバ」、は、前述した分節理論の見地からすれば、当然、あらゆる声、あらゆるコトバの究極的源泉であり、従ってまたあらゆる存在者の存在性の根源でなければならない。こういう意味での存在の絶対的根源としてのコトバを、真言密教は大日如来あるいは法身という形で表象する。「法身説法」とは法身説法ことばを意味するが、しかしそれ以前に、むしろ、法身説法ことばである、ことを意味するのだ。

――p.292

以上、言語学的制約から自由になるために。