*Chai Teapot

2021.07/25〜 お茶だよ〜 記事未満、エッセイ未満を書きます。

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最近の記事

 雑記20240428

◇珠洲市での話 ボランティアに行ってきた。この年になるまでボランティアという行為は身近にあるものではなかった。チャリティー自体は手慣れたものではある。 現在4月27日。地震があったのが、1月1日なのでほぼ5ヶ月が経とうとしてた。これは振り返って思うことだったが、まだボランティアの募集をしていたということになる。 ボランティア自体は難なく終えることができたが、町の家屋は依然として倒壊したままであった。5ヶ月になるにも関わらず。珠洲市はたぶん孤立している。 現地の人の聞き取り

    • 雑記

      設計者というか、構造に限らずそういう趨勢というか、情勢というかそういう話を4つ上の先輩から色々とご教授いただいた。結果を言えば結局私はそういうことに全くの興味を持たなかったというのが事実として残った。そしてそういう動きに敏感になるということ、情報を求めることに固執することは大雑把な設計業や建設業という立場に立ってみれば、非常に重要であることをお教えいただいたわけなのだ。その世間と呼ばれるものが小さいからといって侮ってはいけない、その侮りも結局は東京、ひいては都会という抽象的な

      • 20240223〜雑記

         推し活なるものを初めてみたいなと、ふと思ったわけではないけれど、そういうのを初めてみた。聞けば、毎日の生活が楽しくなるんだとかそうでないとか。まだ、初めて2週間も経ってないけれど、あんまり面白くはないというか、推していくというか、彼らはやはり遠い雲のようってわけではないけれど、身近にはいない人たちだよねっていうのがチラついてどうも自分には推していけないようだった。暖簾に腕押し。あとね、コミュニティの熱量というか圧というのか、そういうのがSNSでは顕著でそれをみてグッと冷めて

        • 夢のこだわり

          私には大きな夢がある、というのも嘘ではないけれど、それは叶わない夢のようであるがゆえにそれをおおきく口に出して言いたい訳ではないけれど、それなりに夢みたいなものがある.ただ、それはいつ放棄されるべきなのか、あるいはそれは持ち続けることができるのか、その代償はあったりするのだろうか.それは持ち続けて経過を見てみないとわからないものかもしれない.私の上司は「夢は叶わない.けれど何者かにはなれる」とよく口をこぼして私にこの先の行く末を教えてくれているような気がしている。今の所その夢

          わたしに近づいてきた人たちには、もれなくニンマリの刑に処され、関わった人全員が笑顔をこぼしながらニンマリ帰っていくのだ!!! 何これ

          わたしに近づいてきた人たちには、もれなくニンマリの刑に処され、関わった人全員が笑顔をこぼしながらニンマリ帰っていくのだ!!! 何これ

          20240106_雑記

          あけましておめでとうございます。 本年もどうぞご贔屓によろしくお願いいたします。 新年のご挨拶をこんなnoteの片隅に書いていいものだろうかとも思うが、こぢんまりと見てくれている人に向けたほうがいいような気がしてるので、まぁ良いか。 せっかくなので、去年(去年したほうが良かったな)の振り返りからでもしようかしら。去年の一大イベントはお引越しだったように思います。徐々に自分の方向性を決めていくというかそういうような流れの中で、少しでも環境を変えようと決心して決め込んだお引越し

          20240106_雑記

          イラストはたとえば、映画のカットシーンの連続のように劇的であることがのぞましい。場合によってはそれが明示的でないといけない。庵野秀明の作品群のように瞬時に切り替わるシーンのようであることが、あるいは簡単に消費されていくことが、イラストにとって「価値がある」ということだと思う。

          イラストはたとえば、映画のカットシーンの連続のように劇的であることがのぞましい。場合によってはそれが明示的でないといけない。庵野秀明の作品群のように瞬時に切り替わるシーンのようであることが、あるいは簡単に消費されていくことが、イラストにとって「価値がある」ということだと思う。

          行ってきた感想。

          アニメ背景に描かれる都市を通して、これからの都市のあり方を考えてみようとする展示会ということで、石川は金沢市谷口吉生吉郎記念館に足を運ぶことにしてみた、なかなか行く機会に恵まれなかったけれど、この日この展覧会のクロージングトークのような映画上映会があって、合わせていくことでようやく重い腰をあげることが出来た。この展覧会の参考図書のような書籍である、「アニメ建築ー傑作背景美術の制作プロセスー」という本を元々持っていたものあってそれも行けなかった原因でもある。 さて、

          行ってきた感想。

          建築批評とは小説であった。

          西倉美祝さんのNoteを見て、建築批評の話は確かに分かるところがあると思いつつもこれまでの建築批評について擁護したい部分も出てきたので、ついでに記事を書いておこうと思った次第です。詳しくはこちら。 ここで書かれる建築批評とは私は日本語で書かれた日本の建築に関する批評のことと受け取りました。なので以降、批評について問うているところは日本人によって、あるいは日本語で書かれたものを指すことにします。 ◇🔶◇  そも、批評というのは外来語であって、私たちにとってなじみのなかった

          建築批評とは小説であった。

          日記

          ◇◆◇ 実家を離れて3週間は経ったけど、親との関係は変わらず、なんなら実家を使う事も結局ある訳だ。しかも一人暮らしをする訳でもなく、おじいちゃんの2階に転がり込んだだけなんだけど。それでも少なくとも生活がというか、考え方が変わってきたのかもと思う瞬間は出てきているような気がする。行動には変化は見られないけれど、家事が本格的に入り込んで、先回りをするようになったなと思う。 お金の回り方は基本変わらないけれどあえて言うなら、ガソリン代が増えて、食費が増えた。それ以外はあまり変わ

          引っ越しました。

          一人暮らしを始めた。時期は微妙にも10月から。なんてことの無い月初め、予め計画していたお引越しが人手不足にて1ヶ月かかってしまったことが起因している。新居は父方の祖父の2階。かつて我が父母が結婚したての頃、あるいは私が産まれるタイミングに寝床としていた場所らしかった。私はこの部屋に荷物を下ろしながらも、網戸を替える祖父の話を聞いていた。どうやら築年数は私と同じくらいの年数らしい。この家を設計した人間の情報を前から仕入れていたために特定するのに時間はかからなかった。その設計士は

          引っ越しました。

          スカートを穿いた

           スカートはいいな。なんかヒラヒラしててすごく目につく。可愛いな。でも女性のものなんでしょう。だからいいなと思っても手が出ないなぁ。 …  友達とスカートの魅力を共有して、穿いてみたいなという気持ちが強くなり、古着屋に言って相談した。そうすると彼らはかなり乗り気で、似合いそうなスカートを2着ほど用意してきた。モード系(カッコイイ系みたいな意味らしい)の黒と西欧の古い丈夫な赤のもの。店員さんの前でそれを披露する。似合っているともてはやされて、若干勇気がわいた。あ、案外似合って

          スカートを穿いた

          望郷

          202308某日 中学校の同窓会があった。 同窓会と言っても、ただ集まってお酒を飲んで騒ぐだけの、さらに言うと集まった人数も全クラスの人数の三分の一程度の小さな飲み会だった。私は彼らとのコンタクトを本当に取らなかったために、共通の中学の時からあったグループに連絡を入れて参加を希望した。結果、久しぶりに会う友人…今のところ知り合いが良いな…と3人で昼から麻雀をすることになった。私は夜の19時開始とかいう少し微妙な時間設定に、予定を決めあぐねていたので、面白そうだと思い彼らの提案

          壊されたカラオケ屋にて

          かりそめのリアリティを演出する当事者と消費に慣れてしまった私たち。 与えられた本当の姿あるいはその裏側をひっくり返し、夢のリアリティを演出する。これが破壊だ、これが裏側だ。本当の混沌とした汚泥の上澄みを救ったような異常さが私たちに襲いかかる。 構成されたものは私たちの生活には馴染みのないものだったと思う。破壊された壁、引き剥がされた天井、綺麗に処理されていない下地材や鉄骨の後。唯一身近なものはカラオケボックス。ヌードや元々がカラオケだっただけ、その属性が分かりやすく映る。

          壊されたカラオケ屋にて

          奈義町にて

          奈義町現代美術館で議論した、感動の行方についての議論。 空間芸術は、その床や音響の響きの特異さに違った感動を引き起こすけれど、それは建築と芸術作品の垣根の特定が難しく、いったいどれに私たちは感動したのだろうかという問いは建築を考えるうえで重要なのではないだろうかというお話があった。奈義町にあった芸術作品はどれも巨大で、ある意味で作品を通して特異な領域を展開させているように感じた。感情を揺さぶる作品が収められている美術館がとるべき建築物のスタンスはどのようなものがいいだろうか。

          奈義町にて

          20230903の日記

           たとえば、聞きなじみのある音楽を聴いているとき、カゲロウプロジェクトの音源を聞いているときこれを初めて聞いた時の感動と当時の記憶を無意識に辿っていく。たくさん読んだ化物語を読み返しているとき、つらかった中学の時苦し紛れに入った図書館で初めて読んで面白かった時のことを合わせて思い出してしまう。自分の住んだ街を改めて眺めているとき、散歩しながらこんなに擁壁や公園は小さかったかなとか考える。 記憶を思い出すときあるいは世の中のあらゆる行為に対して、記憶が積層して感じられるとき、

          20230903の日記