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今年のベスト本:「家を失う人々 最貧困地区で生活した社会学者、1年余の記録」



はじめに

ずっと読みたいと思っていた” Evicted: Poverty and Profit in the American City”という本を読んだ。読んだ後に調べてみたところ、偶然にも先月日本語版が出ていた。


 
この本はマシュー・デスモンドという社会学者がアメリカウィスコンシン州ミルウォーキーという街の最貧困地域に1年半ほど住みこみ、8人の住民の生活を丁寧に追った話である。2016年に出版されたこの本はピュリッツァー賞をはじめ多くの賞を取り大きな話題になった。
 
読む機会がなく忘れていたが、最近Amazonのおすすめに出てきたので読んでみた。評判通り「すごい本」だった。それは知的な刺激をくれただけでなく、感情的にも深い印象を残した本だからだ。

以下、本書を紹介しながら、強制退去とトラウマの関係について考察し、なぜベスト本に選んだかについて書いていきたい。日本語版は読んでいないため、訳語が日本語版と違っているところがあることをご了承いただきたい。

Evictedとは


さて原書の題名、”Evicted”とは日本語で「強制退去させられること」という意味だ。アメリカでは州によって違いはあるが、たった1ヶ月の滞納や些細な迷惑行為などで、比較的簡単に大家が借り手を強制退去させることができる。この本が出るまでアメリカで強制退去の問題はあまり注目されてこなかったが、実はかなり頻繁に行われていることだそうだ。例えば舞台となったミルウォーキーでは、2009年から2011年の間に、なんと家を借りている人の8人に1人は賃貸から退去させられているという。
 
この本では著者が追った8名の人々の物語を通じて、ミルウォーキーの最貧困地域で強制退去が簡単に行われる様子と、それが退去させられた人にどれほどネガティブな影響があるかが描かれる。そしてその背後にある格差社会の弊害、人種差別、特に黒人女性への差別、子供への差別、福祉政策の失敗、貧困ビジネスの存在が露わになってくる。

ビジネスモデルに組み込まれる強制退去


驚くべきことに最貧困地域にある賃貸物件の家賃が必ずしも安くはない。家賃はもっと良い地域の同じサイズの物件と変わらない上に、手入れがされていないので状態はひどいのだ。
 
なぜそれでも借りる人がいるのだろうか?強制退去歴や犯罪歴があると賃貸物件を貸すことを嫌がる大家が多い。しかし最貧困地域にはそれを承知で貸してくれる大家がいて、そうした経歴のある人は多少割高で状態が悪くても借りてしまうからだ。
 
その結果でただでさえ少ない収入の70%以上、時には90%を家賃に持っていかれる。当然ながら予想外の出費があればすぐに家賃が払えなくなりまた強制退去させられ、次の賃貸がさらに見つけにくくなるという悪循環に陥る。
 
そのためこの悪循環にいる人に対して、ボロいままのアパートを高額で貸し、少しでも問題が出れば強制退去させて次の借り手を見つけるという貧困ビジネスが成立するのだ。そしてこの悪循環に入り貧困ビジネスの餌食となってしまうと貧困から抜け出すのが非常に難しくなる。強制退去歴があるため普通の賃貸は借りられないからだ。著者が言うように「貧困だから強制退去させられるのではなく、強制退去のせいで貧困になる」のだ。

強制退去はトラウマ


こうした社会的な問題、構造的な問題に加えて、トラウマを専門としているカウンセラーとして特に興味があったのは強制退去の与える心理的な影響である。
 
例えば著者が追った住人の一人、アーリーンという黒人女性は生活保護を受けながら2人の男の子を育てている。ある日上の子のわるふざけのせいでアパートのドアが壊れてしまい、即刻大家から強制退去を宣告されたことから悪循環にハマってしまった。
 
詳しい経緯は本書を読んでいただきたいが、ホームレスシェルターやボロアパートを点々とした末に、やっと新しいアパートを確保する。しかしそこは窓ガラスは割れたまま放置されカーペットも古くて不潔なものが敷かれたままの不良物件であった。しかし家賃は標準のアパートと変わらずアーリーンの収入のなんと88%を占める。まさにギリギリの生活である。
 
この生活が持続可能なわけはなくあるきっかけで家賃を滞納してしまう。身を寄せられるところを必死に探すが見つからず、結局アーリーンたちはまた強制退去させられてしまうのだ。
 
強制退去の当日は記録的な寒さの日であった。それでも引越し業者がきてアパートから荷物を手早く歩道に移動させる。アーリーンは一時預かりをしてくれる倉庫まで運搬してもらう料金を支払えないために、歩道に荷物を放置してもらうと言う選択肢しかなかったのだ。
 
想像して欲しい。今までボロ屋とはいえ自分たちを守ってくる家があったのに、急に極寒の中に放り出されることがどれほどショックとなることか?
 
著者が強制退去とは”a traumatic rejection(深く心を傷つける拒絶体験)”と述べているように、強制退去自体がトラウマとなりうる。強制退去後にうつ病になったり自殺をする人の率は高いという。
 
さらに子供の立場から考えると、強制退去によって家を失うだけでなく、自分たちの庇護者である母親がショックとストレスで機能しなくなるために、庇護者を失うという恐怖の体験をするのではないかと想像する。その時、多くの子どもがいわゆるアダルトチルドレンと言われるような自分のニーズを諦め、子供であることを諦めるような状態になってしまう。アーリーンの長男のジョリも大人びた子供として記述されている。
 
これはちょうどアーリーンが88%を家賃に持っていかれるのと同じように、小さな子どもたちの心的なエネルギーのほとんどが生存のために使われ余裕のない状態になっていると言えるだろう。経済的なリソースがないと些細なきっかけが強制退去を招くように、心理的なリソースが枯渇すると些細なきっかけが問題行動や依存のきっかけとなってしまうのは、私も日々の臨床の中で見てきたことだ。
 
実際ジョリも3回目の強制退去の後、些細なことから憤慨して学校の先生の脛を蹴って警察沙汰になる。さまざまなリソースを欠き、学校を休み転校の多いジョリがこの貧困の輪から抜け出るのは至難の業であろう。
 
こうして貧困とトラウマが次の世代に受け継がれてしまうのだ。
 

なぜ今年のベスト本?


冒頭にこの本は「すごい本」と書いたが、何がすごいかというと、人種も社会階級も文化も違う人たちの物語に読者をのめり込ませる力があるからだ。登場人物のあまりに悲惨な状況に読み進めるのが辛くなることもあった。しかしページを繰り続けたのは、私が登場人物たちに深く共感したからである。彼らがどうなるか見届けずにおられなかった。
 
福祉政策の問題や社会の差別は変えていかなければならないが、それは政府や行政の政策だけでは難しい。社会は人で作られている以上、人の心が動かないと制度も変わっていかないからだ。そのためにこの本が果たした役割は大きい。強制退去の頻度やその影響などについて数字で示しつつ、登場人物の物語を通じて読者の心を動かしたからである。私のかつて住んでいた街で、賃貸についての規則が改正されてずいぶん借り手に有利なものになったのも、この本の出版と無関係ではないと思う。
 
この本の登場人物の中にある優しさ、愛、悲しみ、傷つき、無力感、苦しみ、愚かさ、欲深さ、弱さ、ずるさ、そして強さは私の中にもあるものだ。だから生まれた環境や運によって私も強制退去させられる得る。貧困やホームレス、強制退去の問題が抽象的な問題からより具体的で血の通った、痛みの伴う体験として理解できるようになったという意味で私も変容させられた。
 
今年、最も私の心を最も動かした本書をベスト本に選んだ。


追記

この記事を投稿した後に能登半島地震が起きました。亡くなった方のご冥福を心より祈り致します。また身近な人を亡くした方の悲しみの深さや無念さを思うと言葉も出ません。

そして命は助かったものの家を失った方のことにも思いを馳せます。この方々はある意味で自然災害によって強制退去されられたわけです。避難所暮らしをされている方のご苦労をよりリアルに想像できるようになったのはこの本を読んだおかげです。

マシュー・デスモンドは本書で次のように述べています。

Decent. affordable housing should be a basic right for everybody in this country. The reason is simple: without stable shelter, everything else falls apart. p. 300

「まともで手頃な価格の家に住めることは、この国の誰にとっても基本的権利であるべきだ。理由は単純だ。安定した住まいがなければ全てはバラバラになってしまうからだ。」(リリコイ訳)

今不自由な避難所暮らしを余儀なくされている方たちは大変な不安、ストレス、喪失感、苛立ち、無力感の中にいることと想像します。安心できる住居に越すことで全てが解決するわけではありませんが、少しでも落ち着き回復していくことに欠かせない第一歩だと思います。私が少しでもできることはないか考えていきたいと思います。


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