見出し画像

「配慮のお願い」という言葉の苦しさに、誰か気づいて

今学期もやってまいりました(というかもうほぼ終わりました)、配慮交渉シーズン。
別名、年2回メンタル激病みシーズン。

私は現在大学で精神疾患の障害者として配慮を受けながら授業を受けている身です。病名としてはADHDと抑うつ、症状としてはプラスで不眠症/過眠症やパニック障害など。

この配慮がどういうシステムになっているかというと、大学は高校と違って担任とかがいないので、ある程度教務課やバリアフリー支援室と相談しつつ自分で授業を受け持っている教授の方々とやりとりをしながら進めていくことになる。
まあ、その辺り詳しく知りたければぜひこの記事を読んでほしい↓

のだけど。これがまあまあしんどい。

いや、わかってる。多くの方がいろいろ力を尽くしてくれていることは。わかっているんだけど、しんどいものはしんどい。というか、こうやって「みなさんがお力を貸してくださっているのもわかっています」みたいなスタンスでいなくてはいけないこともしんどい。

このブログを書きながら、ああどうせまた恩知らずみたいな非難が殺到するのだろうな〜と陰鬱とした気持ちになっています(昔それで何度かTwitter燃えてるしね……)
が、多分誰かがまとめて書かないといけないと思うから、やっぱり書く。

「配慮のお願い」という言葉の苦しさに、誰か気づいて。

0.前提となる価値観/考え方

前提として、これを読んでいるみなさんは、いろんな考え方や価値観、いろんな立場からの意見があると思うんです。そういうみなさんの視点でもって私の意見について考えるのは大切なことだと思う。
ただ、それはさておいて、私の主張の本旨を理解するために、一回ちょっと私と同じ視点になってみてほしい。

詳しくはこの記事にも書いたけれど↓、

基本的に、社会はマジョリティを想定してできている、と思います。
まあそれはそう。普通に一番人数が多いところに合わせる方が効率が良い。そのこと自体はとても自然なことだと思う。

同時に、「特定の生き方を想定して社会が設計されている」ということは、「その生き方をしない/できない人にとって、社会は結構ハードルが多い」こと、「別にそれは生き方の善悪によって生まれている問題ではなく、『社会のシステムがそうなっている』ことが生み出している問題」ということも言えると思います(この価値観に基づいているのが前述の「社会モデル」)。

たとえば、私は昔、不慮の事故で足を痛めて松葉杖生活だったことがあるのですが……
松葉杖だと、マジで狭い道と階段に苦労させられる。狭い階段はもう最悪。後ろつまってるのはもちろんわかってる。わかってるんだけど、健常者と同じような速度で歩けるわけがない。
これ、別に私が悪意を持って狭い階段を塞いでいるのではなく、駅の設計が「スタスタ歩けて階段が昇り降りできる人間しか通行しないこと」を想定して設計されており、当時の私がその設計から漏れているところが問題の本質なわけですよね。そもそも階段が必要ない平地だったり、エレベーターがあったり、百歩譲って階段が広くて後ろの人が私を追い抜けるような状態だったらあんな行列は起きていないわけで。

私は「スタスタ歩いている人」に比べて「劣った人類」なわけではないし、「責められるような罪を背負っている」わけでもない。スタスタ歩いている人も、松葉杖をついている私も、この世で生きる必要がある人間という点で何も差異はないし、どちらかが優遇されるべき理由も(効率という観点以外では、特には)ない。
というわけで、本来ならどちらも想定したシステムを設計するべきなのだけど、ただまあ当然物理的制約もあるし、万人にとって完璧な設計など存在しない。もちろんそれを目指していくのは非常に大切だけど、どうしても現場の運用でどうにかしなきゃいけないときもあるよね。そういうときはお互い臨機応変に頑張っていこうね。

……というのが、障害支援に関する私の価値観なのですが……

1.現状の障害支援における「しんどいポイント」

1-0.一覧

先ほどの価値観に照らし合わせて、私が現状の障害支援(少なくとも私が受けている支援)に関して、問題であると思う点を一旦列挙します。

1.障害者側が「配慮のお願い」をして、先生側が「検討し許可する」という構成
2.↑の中にある圧倒的な立場差、の割に配慮交渉は障害者個人でやらないといけないシステム
3.精神疾患に関しての理解/スタンスに個人差がかなりあること
4.1〜3の流れの中で、自分自身も自分の立場を卑下してしまうこと

要するに、圧倒的にパワーバランスが悪すぎる……。

詳しく見ていきましょう。

1-1.「配慮のお願い」という構成

基本的に、東大の障害支援は「障害者側が自分の障害を元に先生に配慮のお願いをし、先生が自分の授業計画と照らし合わせて判断する」という形をとっています。
だから、基本的な構造としては、なんというか、「お願いされたからしょうがないな〜」みたいな感じになる。

0.を読んでくれた人は、どうしてそれがしんどいのかなんとなくわかってくれるんじゃないかと期待してる。
別に私は好きで強い発達特性を持って生まれてきたんじゃないし、好きで不眠症なわけでもない。望んで抑うつ状態になったわけでもない。ただ目の前の人生を歩んでいたらこうなっただけなんだけど、毎回いろんな先生に「お願い」をし、「しょうがないな〜」と言われないといけない。

当然、先生方もお忙しい。のため、イライラをぶつけられることもある。「そんなわがまま聞くわけないでしょ」という返答をされることもある。
もちろんお忙しい中で「あなたが勉強できる環境を整えます」と言い切ってくれる人もいるのだけど、はっきり言えば稀だ。

でも、私が授業を受けられないのは、「発達特性の強い人」「抑うつがひどい人」「不眠症/過眠症がひどい人」が学校に通ってくる想定がなされていないのがその原因なのであって、
たとえば極端な話、生徒の9割が多動だったら、誰も「みんなが大人しく椅子に座ること」を想定しないわけじゃないですか。むしろ動き回るのが当たり前の授業になって、大人しく座っている人の方がレアだねって扱いになるわけだと思うの。
ってことはそれって、やっぱり設計の問題であって……

もちろん難しいと思うよ。万人が納得いく設計って難しいよねってのは私もわかっている。物理的・時間的・技術的制約ってたくさんあるし。
だけど、「想定から外れた」=「わがまま」ってなるのは流石に違うと思う。設計には限界があることをお互い認めた上で、まあいい感じの落とし所が見つかったらいいよねってする必要があるはずだ。これはどっちかが悪いわけじゃない。

だから私は別に配慮してもらえないことがあることに悲しんでいるわけじゃない。実際に、たとえば語学の先生から「私もいろいろ考えたいけど、この授業はリアルタイムでの会話が見られないと授業進められないんだよね〜」と言われたときは「まあそうですよね〜」となったし、いい先生だなって思った。設計上の限界を把握した上で、対等な個人として議論をしてくれている、と思う。
でも、「こんだけ配慮してあげてるじゃん」みたいな感じで来られると、いくらある程度は配慮してくれていても、ちょっと「えっ……」となる。いやまあ、現金で臆病な人間なので、単位取れそうなら飲み込んでしまうことも多いのですが……。

というかここまで「お願い」というワーディングに突っかかってきたけれども、そもそも配慮って何。授業設計の再検討って言いたいわ。授業資料が一箇所にまとまってないのとか、どう考えても情報アクセスへの精神的負担を軽んじている設計側のミスでしょ。

1-2.圧倒的な立場差があり、是正措置が少ないこと

ここであえて「先生-生徒間の」と書かなかったのは、
①先生-生徒間の立場差
②マジョリティ-マイノリティの立場差

の2つが隠れているからです。

①に関しては、まあ言うまでもないと思う。何をどう足掻いても、先生が単位を認めてくれなければ単位は出ないので、必然的に生徒側は基本先生の機嫌を伺わざるを得ない。

しかし、②に関してはまあまあ無自覚な人が多いんじゃないかな。
先生が「これくらい余裕でしょ」と言うそれは、完全にマジョリティの感覚であることも少なくない。「頑張れば起きられるでしょ」とか。一回過眠症なってみたら多分世界変わるぞ。

この二重の立場差があるにも関わらず、配慮交渉は基本、個人単位だ。もちろん教務課やバリアフリー支援室が助けてくれる部分もたくさんあるけれど、最終的に先生とやりとりするのは生徒個人。

いや、わかる。これに関しても、設計上の限界があることはよくわかる。特に精神疾患なんて必要な支援は人それぞれであって、間に誰か入ってもらっても調整が難しいことはよくあるし。
その設計的な限界の中で、教務課やバリアフリー支援室の皆さんはとても助けてくれている。なるべく間に入ってくれたり、書類を先に確認して先生方に伝わりやすい言い回しにしてくれたり、可能な限り口添えをしてくれたりする。先生方も私が萎縮しちゃわないようにとても心を砕いてくれる人も少なくなくて、そのことについては本当に恵まれていると思う。
……とは思うのだけど、やっぱり立場差はえぐい。

この立場差のえぐさがどう影響するかは、1-4で補足したい。

1-3.精神疾患に関する理解度の差

1-1、1-2をさらにしんどくさせているのが、これ。

先生「起きられないとか何甘えたこと言ってるの」
私「そっからか〜🤦」

みたいなことがよくある。
考えてもみてほしい。丸一日腹が減っても喉が乾いても目が覚めずにぶっ続けで眠って、起きてから脱水と貧血で倒れたような人間が、そうそう簡単に起きられるわけないだろ。生存本能すらぶちのめす勢いの眠気なのよ……

ちなみに、他にもあったびっくり会話一覧を紹介したいのだけど

先生「その希死念慮はいつ治るんですか?」
→知らん!!!!!私が知りたい。
先生「薬飲んだら?」
→それで治るなら苦労してないんだってば。
先生「リアペくらい出せないの?それだけで単位来るんだから」
→そう言っとるやないけ。

こんな……こんな具合なんですよ……

これね、衝撃なんですが、精神疾患の授業をしてる人でも割と研究テーマ外のことについてはこんな感じだったりして、エーそんなことある……?

なお、かつては支援面談もこんな感じだったので、当時幾度となく自殺未遂を起こしていた私は「障害支援の専門家じゃないの!?」とかなりびっくりしたんですが、ある年から精神科医が面談に入るようになってすげーーー楽になったし、支援室のみなさんも詳しくなってくださっていて、そういうのはとても嬉しい。

1-4.……を通じて、自分でも自分を卑下していく

結局のところ、MAXでしんどいのはこれやと思う。

毎学期毎学期「配慮のお願い」を送って、
「仕方ないからここまでは譲歩してあげる」って言われたり、
「甘えだ」って言われたりして、
でも先生が納得しなければ結局単位は来ないから、言いたいこと何度も飲み込んで、折れて、心にもない謝罪文を書いて、
そんなことを、毎学期、毎学期、毎学期、毎学期……

すると、だんだんメンタルがこうなってくるんですね。

「私が悪かったです。ごめんなさい。すみませんでした。まともに生きられない私が悪いんです。
突発的に眠ってしまう私が、授業でじっとできない私が、課題の提出を忘れる私が、教室を間違える私が悪いのであって、これは全部甘えであって、配慮願いなんて出すべきではありませんでした。
というか、そんな私が東大に通おうと思ったのが、生きようと思ったのがまず悪いので、自分で自分の選択の責任を取れない私を先生が責めるのは正当であって、
私はここにいる資格のない人間です

……もちろん、そこまで明言してくる先生はレアだ(なお、たまにいるのが最悪すぎる)。
でも、降り積もる「仕方ないな〜」「めんどくさいな〜」感がどんどん私を追い詰める。
寄り添ってくれる先生もたくさんいる。助けてくれる先生も、配慮が難しくてもそのことをきちんと書いてくれる先生もいる。でも、1/4の先生はメールの返事すらくれないし、1/4の先生は厳しい一言を書き添えてくる。
それに反発すれば私は「恩知らず」「甘えた障害者」だ。

1/2の確率で爆弾を引くとわかっているガチャを引けますか。
ハズレを引くだけじゃない。傷つけられる。明確な悪意を押し付けられる。1/2の確率で。そんなガチャを1セメスターにつき15回も回さないといけない(余談だけれど、先生の障害への無理解によって単位が絶対取れなさそうな授業もまあまああるので、私は必ず多めに授業を取ることにしている)。
それをやらないと私は大学を卒業できない。

研究意欲だって勉強意欲だってある。特定の状況がしんどいだけで、学ぶこと自体はとても好きだ。抑うつとADHDと過眠のせいで意欲がなさそうに見えるかもしれないけれど、自分のできる限りのことはしている。

でも、私が悪いのかもしれない。適応できない私が。みんなができていることができない私が。
配慮交渉が長引くと、ほんの少し自分に非があるだけで、自分には価値がないなんて思う。
たとえば朝起きられなかった日。本当は起きられたはずなのにあのとき目を閉じたから眠ってしまった。私のせいだ。
たとえば課題が出せなかったとき。あのとき出すところまでやらなかった私のせいだ。他のことに気をとられた私のせいだ。
たとえば授業に出られなかったとき。自分の死にたいって気持ちに飲まれた私のせいだ。私が悪い。私が。

私は今この言葉たちを、自分で明確に否定できない。
自分で明確に否定できないことが、何よりも怖い。

2.かといって、先生が全て悪いわけでもない

……でも、もう一つ言いたいのは、これ。

先生も、ある面ではシステムの被害者だ。
たとえばITC-LMSが使いやすかったら難なく授業資料を蓄積してくれるかもしれない。文科省の規定、教室の設備、単位認定の基準、いろんなものにいろんな先生が縛られていることも、私はよく知っている。

さらには、先生だって本当は研究に専念したいかもしれない。授業なんてやるつもりはなかったのに、ポストの都合上授業せざるを得なかったかもしれない。自分の研究が佳境なのに、よくわからん一人の生徒に構っている場合ではないのかもしれない。

だからこそ、苦しい。先生の視点から見たとき、自分がどう映るかを想像してしまう。

3.じゃあどうなったらいいのか?

……ずっとこの問いに私は答えを出せなかったのだけど、最近いろんな授業でインクルーシブ授業についてのレポートを書いているうちに、

「自分たちは、システムの限界を一緒に乗り越えようとしている仲間であるという共通認識をみんなで持てたらいいな」

と思うようになった。

当然、システムを作った側も悪いわけじゃないんだよ。制約の中で、できる限りみんなが幸せになれるような形を探そうとした結果なのだと思う。
でもシステムに限界があるのは確かであり、その不都合を誰か一人の「敵」に背負わせる考え方は、やっぱり不合理だ。

「成績を出さないといけないから、○日までしか待てないんだよね、課題」
「内容的に対面でのグループワークができないと単位認定厳しいかも」

そういう事情を、お互いに(話せる範囲で)フラットに話せたらいい。甘えてるとか誰かが悪いとかそういうんじゃなくて、「すまん〜ちょっと厳しい〜涙」「あ、大丈夫です!じゃあ頑張ります!」「お、ここは譲れる!いいよ!」「あーそれありがたいです〜」みたいな感じでありたい。

ちなみに、障害学系の先生は結構そういう先生が多い気がする。それに幾度となく助けられている。

4.終わりに

今まで長らくただ苦しいだけだったけど、このブログ書いているうちに「ああここが課題なのかな」「こういう社会が理想だな」っていうことを少しずつ考えられるようになっていて、計らずも教育の効果を実感しました。

大学入って以降、無限に障害学や心理学、社会学の授業を受けていて、毎回いろんな人・いろんな立場の人の言葉を聞いていて、
まあ当然内容としては知っていることも実感していることも被っている部分もたくさんあるのだけど、気がつかないうちにいろんな考え方が骨身に染み付いていることに驚いた。教育ってすげえ。

本当に大学入って6年間ずっと自分を責める以外の出口が見つかっていなかった課題だったのに、「こういう社会でありたい」というところまで考えが深まっているの、すごい。なんかほんと、すごい。
今自分が囚われている迷路にももしかしたらいつか出口が見えるのかもしれない。だとしたら嬉しい。

同時に、誰かの出口になれたらもっと嬉しい。

だから、「嫌だな」って思ったことも、ちゃんと言葉にしたい。
それで傷つくのは怖いし、私が悪いと思ってしまうこともある。でも言葉にしたい。多分、見えないシステムに囚われているだけだから。


そして毎回恒例の関連記事紹介コーナー↓

★東大の発達障害支援について

★社会モデルについて

★イライラの連鎖を止めるために、私が大切だと思うこと

★リアぺが出せなくてしんどい話


この記事が参加している募集

最近の学び

多様性を考える

ADHDのこと、ジェンダーのこと、その他いろいろ書いていきます!よろしければサポートお願いします🙌