本は孤独なメディア

紙がいいか、電子がいいか。これはずーっと言われてきている話だ。現代では、スマホでものを読んだり見るようになったりした子供たちが増えたから、この問題設定も古びてきたかなと思ったりもするが、そういう子たちも教科書は紙だから、この雰囲気はまあ後五〇年くらいは残るだろう。

僕は「本はやっぱり紙がいい」的なことを書こうとしていたのだが、そのとき、急に深夜の駅チカでしゃがみこんでスマホを見ている女の子とかの姿が想起された。トー横にいそうな居場所なさげな女子を想起されたいが、そういう子がスマホで電子的な文字を読んでいるとして、そういうものよりも「紙がいい」と果たして言えるのか、と思った。

いい・悪いとは別にその人にとって身近だったり切実だったりするメディア形式がある。彼女が見てるのがLINEなのかXなのかTikTokなのかは知らないが、もしそこに文字が表示されているなら、どうしてそれが「詩」たりえないのだろうと思うのだ。

とはいえそこで思うのは、「電話」をベースにした端末であるスマホが提供するのは、コミュニケーションを地盤とする情報であって、そこでは時差が極限までなくされたところで情報がやり取りされる。既読がつくとかつかないとかはその最たるもので、電波が悪いとか、通信時差があって既読がつかないと思っている人はほとんどいなくて、相手がこちらを軽視しているか、都合が悪いから既読がつかないとみんな思っている。電車で六時間かかる場所にいる人のところにすぐに行けないからといって、それで「こちらを軽視している」とは普通ならない。LINEはすぐに見れる。見ないのはその人の意思。時差というか、距離が無化された世界。だからここでは、繋がらないことで孤独が強調される。

それと比べると本は健全な意味で孤独だな、と思う。電子書籍じゃなくて、紙の本だね。それは通信というインフラに乗っかっていないから、始めから既読がついたり、既読をつけたりするようなものじゃない。でも自分はそれを「既読」や「未読」の状態にすることができる。

本は書いた人との対話だ、なんと言われたりすることもあるが、生きている人間が対面でカウンセリングしてくれるわけでもないから、その言い方は擬制だ。なんだけれども、不思議なことに作者はこちらに向けて語りかけていて、読者はそちらに注意を傾けて話を聞き、そして何かを思ったりする。擬制なんだけれども、形式的にはコミュニケーションらしきものが起きている。これは比喩的に言えば、時差が極大化した状況だと思う。通信に凄く時間がかかる状況。

もちろん、実際には本を読んでじっくり考えたとしても、作者本体に自分の考えがテレパシーで伝わるとかそういうこともないし、なんなら作者は死んでいるかもしれないから、根本的には伝わらない。けれども比喩的に言えば、時差が極大化された状況で、距離が無限に開いた状態、みたいな感じだと思う。

だけどそれは安心なことでもある。なぜなら相手に伝わってしまうということは恐ろしいことだから。多くの人はわざわざ「鈍感力」がほしくなるくらい繊細だから、それがいらないのは気が楽だ。

そういうことがあってなのだろうか。コミュニケーションインフラから解放された紙という媒体に載った言葉は、沁みる感じがする。別に詩集とかに限ったことではなくて、よく売れているビジネス書にだって同じことは言える。

喫茶店や雑踏の中で本を読んだらうるさいかもしれないが、意外とそれが落ち着くという人は多いだろう。なぜなら、これは読書の状況に似ているからだ。スマホはいつ誰から連絡が来るかわからない。コミュニケーションインフラに乗っているというのはそういうことで、もちろん他者がいる喫茶店のような空間でも誰かに話しかけられる危険性はあるけれど(たとえば店員は話しかけてくる)、でもそれが前提的な状況ではない。

こういう意味では本は音楽に似ている。といっても、みんなで同じ音楽に浸るコンサートやライブとかではなくて、複製技術時代の芸術作品としての音楽だ。それはみんなイヤホンで聞くものだろう。音楽を聞くとき人は孤独になれる。スマホがそのベースになっているところは気になるが、聴覚に依存することでその問題を少し回避できる。

だから、孤独になれるメディアとして、僕は紙の本がおすすめだ。たとえば電子書籍でマンガが売れているけれど、あれは続きを読むためのメディアだから、とにかく速度が出てしまう。紙の本はもっとじっくりしたものだ。でも、別にスローリーディングがいいよ、と言いたいわけではない。文字が沁みる体験がいいものだよ、と言いたいのだ。

文字が沁みる体験を与えてくれるものとしての紙の本の読書。それは多分、孤独の効用で、そういう言葉は、卑近に言えば、「豊かさ」そのものだと思う。

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