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例の集団自決発言について

自決とは自律

こんにちは。

タイトルの通り、先日経済学者であり起業家の成田悠輔氏の発言が炎上、物議を醸しておりまして。
細かいことはどうかお調べになって。とりあえずめちゃくちゃ簡潔に言うと
高齢者はコミュニケーションもまともにとれなくなって迷惑かけるだけの老害になる前に自分たちで集団自決するべきだ、という内容の発言をされたと。

当たり前だけどめちゃくちゃ叩かれて、契約しているCMも打ち切られる事態になってる。そりゃまあそうなるよね。

ただ私は長く高齢者介護ビジネスに携わってきた身としても、普段いわゆる"マイノリティ"として社会で生きている身としても、この発言簡単に「酷い!」という切り捨てができないものがある。だってある意味これは真理なのよ。

なぜ高齢者や年長者を敬う必要があるのか問題

についてまずは書いとこう。これは一言で片がつく。
『人間は、同じ過ちを繰り返すから』
これです。

人は過ちを繰り返す、喉元過ぎればなんとやら、それは「忘れる」という人間の特技によるものでもあるし、「知らない」ことを「考えない」という愚かしさからくるものでもある。

人は過ちを繰り返す、だから過ちを「知る人間」が「知らない人間」に教え伝えていく、こうやって人は歴史を紡いで繁栄し社会を強くし他の種と渡り合ってきた。だから高齢者や年長者は「ただ先人である」だけで、その点に関しては敬意を払うべきだし、存在としては「守るべきもの」であるというのは、時代が移り変わっても動かない不変の事実なんですね。

一方で古くから良く言われる「姥捨山」なんてな言葉もあるように、役に立てなくなった・働けなくなった老人を切り捨てる、などと言う考えも昔から存在していた。これは要するに動物:ヒトとしては大分本能に則った考え方で、群れについて来れなくなったらおいていくぞ!だって群れが全滅したら困るからね!!!という理屈による考え方。これもまた動物としては不変のもの(余談だけど、人間社会においてひとつの閉鎖的コミュニティの中でいじめや虐待が起こる理由もこれです。この辺についてもそのうちまた語りたい)。

つまり人は、動物としての本能に逆らいながらも他の種と渡り合う強さを手に入れるために社会を形成せざるを得ず、その社会を維持発展する為には「同じ轍を踏まないよう」先人を担ぎあげ教えを請いながら学び続ける必要がある、ちゅーわけ。

もっといえば、相手に心からの敬意を持てるかどうかはこの際関係なく、受け入れ教えを請い大切にするということを生き物としての「不変で暗黙のルール」にしてしまう必要があった、といったところでしょうか。だってほっといたら切り捨てちゃうわけだし。

だからこその「年功序列」だったりしたんでしょうね。

だから動物としては寧ろ真っ当

な発言ではある、とも言えるかと。

だってね、皆さんだって1度は思ったことあると思うんですよね、この老害が!!って。ないです? 

先述したように、同じ過ちを繰り返してしまうという性質上、それをなるべく防ぐためには先人を守りながら、できるだけ多くの先人から多くの情報を得る、それも出し惜しみなく引き出したい、そうすることでリスクを回避したり新たな知恵を生んだりできる。その為には理不尽であたまでっかちで言うこと聞かない老人だからって「この老害が!」なんて言うやつが居ると困るわけですよね、なんというかそういう高齢者は尊ぶべきという「風潮」というか「風土」を守ることで先人たちは気持ちよく語り部であってくれるので。

とは言え、そういう風潮をいい事に、まるで先人だから偉い、権力があるんだ!と履き違える輩も多く。そこは本質からズレてるよ!!ということもあるし、昨今は立場や年齢に拘わらず土俵は同じ、同じ土俵で競っているんだぞ!というのがコミュニケーションの基準になっている気がします。贔屓なしに、出来るやつは出来る、クズはクズ、等身大の評価が求められているというかね。そこで大切になってくるのは他者の評価以上に厳しく冷静な自己評価、己を知る、という作業かと。

自己覚知は毎年更新が必要な厳しい資格試験

だと思うんですよ。自分の考えは本当に正しいのか?自分は思い込んでやしないか?相手を考えたコミュニケーションができているのか?自分は老害になってやしないか?っていうさ。
人の脳は多かれ少なかれ加齢とともに萎縮したりしてくわけで、認知症を発症しないまでも、感情のコントロールがうまくできなくなっていくとか判断力が鈍るとかあるわけで。だからこそ年々「自分は老害になってはいないか」という更新試験を受けるべきだと思うの。それが私の中での自決=自律なんだよね。

老害なんだに限らず、自分自身様々な体験や気づきの中で当然成長もするし、逆に衰えたり著しく変わる何かもあるわけで。その都度自分情報をダウンロード更新する必要あるんだと思うんです。自己覚知をし続けて、常に最新の自分を確認して、だからこそ現代の「平等至上主義」の土俵の中で、正しいことを声に出して言えるし、他人の意見にも素直に耳を傾けることができるようになるんじゃないかなと。

つまりは自分で腹を切るべき場面は必ずある

1番わかりやすいのは運転免許問題かな。
私は「70で全面返納」とかでいいんじゃない??とまで思っちゃってるけど、家庭環境や諸般の事情でなかなか車が手放せない生活の方も多いと思うし、難しいんだろうな。

だからそれこそ毎年厳しい「更新試験」を受けるようにして、自分の判断力や運動能力なんかについて定期的な自己覚知を促すべきなんでは?と。
そして出来ることなら自分を知った上で「これは老害になりかねない」と思ったら自主的な返納をする、これこそ成田氏の言うところの「HARAKIRI」だと思うんですよ。

若い世代に、同じ失敗をしないように先人として教えていくということは「未来をより良く」という意味でのことであって、
つまり若い世代たちにとっての「生きやすさ」「暮らしやすさ」なによりさらに下の世代へ「未来を繋ぎやすくする」ということが目的なのではないかと思うので。
だからこそスムーズな世代間交流やスムーズな世代交代がなせるよう、引くべきところは引く、任せるべきところは任せる、自分たちの立場や役割が年齢とともに変わっていくことを恐れず、自律し自戒し
、いくつになっても成長を目指しながら若い世代と交流していく、そのための「切腹」「自決」は積極的にしていくべきなのではないかと思う次第です。

そうすることで初めて「いくつになっても人として衰えない」尊敬すべき老人として、本当の意味で大事にされ守られる存在になれるのでは、というのが本件で私がかんじたこと。

私は長く高齢者介護や介護ビジネスに携わっていく中で、
「何故虐待は起きるのか」
「何故高齢者を守らないといけないのか」
「何故人が人を殺すのはいけないのか」

について説き続けてきました。
この話もそのひとつにあたるなあと思っての投稿です。

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