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倫理資本主義の必要性と限界

ドイツの哲学者であるマルクス・ガブリエルは、倫理資本主義の必要性を説く。

倫理資本主義とは

倫理資本主義とは何か?

ガブリエルは、倫理を普遍的な価値と定義する。倫理は文化圏によって異なることのない普遍的な価値であるから、人類を結びつけることができるという。

人類の結びつきは、経済的な結びつきによって達成しているように思える。しかしながら、経済的な利害関係のみが人類の結びつきを表すのではないし、剥き出しの欲望に基づくビジネスモデルは実現されるべきではない。

ガブリエルが求めるのは、「経済的価値体系を、倫理的価値体系と一致」させるという「善の収益化」である。それは「人類の相互尊重に基づいたビジネスモデル」と言い換えることができ、これが倫理資本主義の意味内容となる。倫理資本主義は、「倫理的でなおかつ利益を上げられる資本主義」なのだ。

倫理資本主義の条件

倫理資本主義にとっては倫理的であることが前提となる。

ガブリエルは言う。

私はお金や富には反対しません。ただし、倫理的に良いことをしなければお金を稼いで富を生み出せないようであるべきです。
マルクス・ガブリエル『わかりあえない他者と生きる 差異と分断を乗り越える哲学』PHP新書、2022年

利益を生み出さない資本主義は資本主義たり得ない。だから資本主義にとって利益は必要条件だ。

倫理的に良いことをしなければ、利益は生み出せない仕組みを作ることは簡単なことではない。

果たして倫理的に良いことが多くの人びとに共有され得るのか?

例えば、一家に一台自家用車を持つことを考えてみよう。

自家用車を所有することは、環境には負荷がかかるというデメリットがある一方で、育児や介護には移動手段としてのメリットがある場合がある。この場合、環境への責任と育児や介護への責任を両立させていかなければならない。この二つの責任は倫理的に両立が求められるべきものである。

そこでまずは環境負荷だけに着目してみると、所有する自家用車はより環境負荷が少ないものへと改良されていくべきであることは一致する可能性が非常に高い。自分が生きている間に、世界を終わらせようとあらゆるリソースを蕩尽し尽くすと考えているものを除いては、である。

育児や介護についても、種の持続やそれを包摂する共同体の維持が必要という前提に立つ限り、共同体の成員が果たすべき責任として捉えられる。

すると倫理は持続可能性を前提にしていることが理解できる。

倫理教育の秘訣

ガブリエルは言う。

私たちは戦後世代が戦中を見るように、将来世代の身になって、今自分たちが犯している過ちを正すべきです。これが倫理教育の秘訣です。
同上

将来世代を措定し、その地点からレトロスペクティブに現代を見つめ続けることが、倫理的な振る舞いを身につける秘訣なのだ。

自家用車の例に話を戻そう。

倫理的な振る舞いが将来世代を措定しているならば、環境への責任と育児や介護への責任の両立は追求されなければならない。

倫理と不自由さ

とは言え、倫理や責任は資本主義社会にとっては足かせであるように思える。事実、倫理と責任が要請される仕事であればあるほど、社会的な評価は上がりにくい。保育や介護はその一例だ。

文筆家で起業家の平川克美は、次のように述べている。

昨今隆盛の市場主義の精神とは、まさに個人の功利的な欲望を全面的に肯定するというところから出発した経済思想なのである。人間は利己的に生きてもよいのだ。確かにそうだ。人間を因習やしがらみから解放するには、利己心というものを認める必要があった。しかし、利己的に生きてもよいという言葉を、利己的に生きなければならないと誰かが読み替えた。それが、現代というものを特徴付けている一つの風潮である。
平川克美『株式会社の世界史 「病理」と「戦争」の500年』東洋経済新報社、2020年

ガブリエルはこうした現代の風潮を不健全なものとみなし、利己的に生きているばかりでは利益を生み出せないようにしようと言うのだ。

だが、倫理や責任といえば、不自由さのイメージがまとわりつく。

しかしながら、漫画『鋼の錬金術師』で、人体錬成によって身体を失なったアルフォンス・エルリックが言ったように、「不自由である事と不幸である事はイコールじゃない」。

他者との関係にある倫理や責任という問題を、外から与えられたタガであると捉えるのではなく、自らの主体的・自律的なルールへと捉え直すことが必要なのだ。

倫理的に良いことが幸福と利益を生み出す仕組みを作ることに大賛成だ。

ガブリエルの語らない資本主義の矛盾

ところが、である。

大企業をはじめとする数々の会社の不祥事を見た平川克美は、数々の会社の不正が「会社そのものの性格の中に潜んでいる」と見て、「会社は、自らの経済合理性によって不正を犯す」と喝破する。

平川によれば、株式会社は魔術を持っている。「資本と経営の分離」と「株主の有限責任」がその錬成陣を描く。

株主の有限責任制とそれに伴う株式の自由売買は、会社には資金を、生産者には先物取引による収入の確定というリスクヘッジをもたらし、なおかつ投機家には絶好の金儲けの機会を生み出すというほとんど魔術とでも言えるほどの効力を持っていたのであった。
同上
主権者でありながら、有限責任しか負わない株主によって支えられているのが株式会社というものである。
しかし、それはある意味では、誰も責任を取らないシステムである。いや、責任を取りたくとも、取れない仕組みこそが、株式会社の生命線だったのだ。
同上

企業に倫理や責任を織り込もうとすればするほど、資本主義の否定につながってしまうのではないか。

いま企業各社はこぞってSDGsに取り組み始めている。すべての企業がそうであるとは言わないが、多くの企業は新時代の新たな市場獲得のための形式的なアピールに終わっているのが現状だ。

SDGsの取り組みのデメリットが象徴するように、倫理や責任を形式上付け加える修正資本主義であれば、多くの人びとに受け入れられるだろう。

だが資本主義は真面目には倫理観を持たないし、責任を負わない。自らを否定し続けながら生存し続けることは極めて困難である。

だから倫理資本主義は、資本主義の延命措置に終わってしまう。やらないよりは、やった方がマシというレベルの話で終わってしまう。

資本主義に倫理や責任を負わせるには、強い強制力が必要だ。その主体は国家ではなく、ぼくたち一人ひとりでなければならない。

なぜならば、平川が指摘しているように、「株式会社というシステムは、会社という幻想共同体の自然の発展の末に生まれたものではな」く、「それはむしろ、国家的な軍備調達システムの一環として考案されたものであり、その発生の当初より戦争が生み出した鬼っ子的な存在」だからだ。

ガブリエルはこの矛盾について語っていない。

資本主義が矛盾を孕んでいることに多くの賢明な人は気づき始めている。しかし同時に、気づいているにもかかわらず資本主義を延命させたいという期待と欲望を抱いてしまう。

こうした人びとに対して、倫理的であれとか、責任を持てなどと批判したところで事態は改善しない。外から与えられた倫理や責任は形式主義を生む。

必要なのは、自らの内から倫理や責任が湧き上がるのを促し、それを受け止め、自らのものとすることである。

やはり一人ひとりが、将来世代の身になって向き合うしかないのだ。

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