伝説の日本刀:(三)『童子斬り安綱』

本エントリーは『河井正博氏』よりご寄稿いただきました。
河合正博氏プロフィール:随筆家、歴史と刀剣の愛好者
本編は以下からどうぞ。

 余りにも有名すぎて書きにくい名刀が幾つか世の中には存在するが、『童子斬り安綱』も、その中のトップクラスの有名刀の一つである。

 書きにくい原因の第一が、余りにも名刀過ぎて素人には表現しにくい『日本刀独特の名品解説』の難しさにある。

 そして、書きにくい原因の二番目が余りにも古い平安時代中期の事件の為もあって、後世での付会(多くの尾ひれが)が多く『童子斬り』伝説の内容の詳細が模糊として不明な点にある。

 そうは言っても、この名刀に附随する『童子斬り』の逸話は広く世に知られていて、内容的にも皆さんが良くご存知だとは思うが、取り敢えず、この傑作刀にまつわる伝説に付いて一通りご案内をしてみたい。

 不思議なことに、この名刀も前述した「髭切」、「膝丸(薄緑)」の逸話と同様、清和源氏の三代目の源頼光が関わっている。しかも、髭切や薄緑以上に室町時代以降は有名になり、足利将軍家から豊臣家、徳川家と伝わり、江戸時代は結城秀康の嫡流津山松平家に秘蔵されて、現在は上野の東京国立博物館所蔵となっているという、はっきりした伝来のある国宝中の国宝である。

 伝説は頼光の時代に始まる。当時、大江山に住んで周辺を荒らす夷賊追討の勅命により、頼光が武勇に優れた配下の四天王と友人の知恵者保昌の6人で追討に無事成功した逸話である。
 頼光四天王とは、若いながらも勇猛な渡辺綱、年長者の碓井貞光、大力で有名な坂田金時、弓の名手で糸の先の下げ針をも射当てる卜部季武である。

 6人は知恵と力を合わせて大江山に向かい夷賊を追討、帰京の上、頼光が経過を奏聞しているが、征伐に向かった先の大江山に関しては丹波の大江山と伊吹山の二つの説が古くから存在しているようだ。

 この逸話は、時代と共に人気が出たようで、後世に成立した「今昔物語」や「御伽草子」、「大江山絵巻」等では、益々詳細な英雄譚に成長している。
 古い時代には不明だった夷賊の名前も、やがて、丹波国の大江山に住む『酒呑童子と称する鬼』となり、鬼が度々都に出て略奪乱暴の限りを尽した為、勇猛な四天王以下を率いて討伐に向かったとなっている。

 凶暴な酒呑童子に対等では戦えない頼光達だったが、神仏のご加護により酒呑童子に毒酒を飲ませて弱るところを、安綱の太刀を用いて酒呑童子の首を切り落としている。

 しかし、凶暴な酒呑童子は首になっても頼光の兜にかぶりつき、危ういところで頼光はかみ殺される寸前まで追い詰められている姿が、「大江山絵巻」に生き生きと描かれている。
 その折に使用した名刀ということで、『童子斬り安綱』の名も世間に広く知られるようになったのである。

 『童子斬り安綱』の頼光といい、部下の渡辺綱といい、よくよく妖怪退治に縁のある武将だった気もするが、現代と違って夜になると暗闇が都を支配していた時代は、それ程多くの妖怪がウヨウヨしていた時代だったのかも知れない。

 さて、前述したこの名刀の書きにくい点の一つである大名刀故の表現の難しさであるが、取り敢えず、その道の専門家の文章にご登場頂く事としよう。

 刀剣界独特の専門用語が多いため、読解に苦労されるとは思うが、故佐藤寒山先生の「寒山押形」のこの太刀の解説から一部抜粋してご紹介するので、ご参考にして頂きたい。

『長さ2尺6寸4分、反り約8分9厘、元幅9分6厘(中略) 鎬造り、庵棟、平肉豊につき、腰反り高く踏ん張りのある堂々たる太刀姿である。鍛は小板目、地沸厚く、地斑交じり、地景頻りに入る。刃文は小乱、足よく入り、匂深く沸よくつき、表腰に打のけごころを交え、砂流し、金筋頻りに掛かり、焼落しの風となる。帽子は小丸ごころに浅く反り、強く掃かけ、ここにも金筋かかる(後略)』

とある。

 念の為、最近、名刀が好きになった若い女性に読んで貰ったところ、残念なことに、その分野の専門家の記述の為、素人の私達には半分くらいしか解らないとの回答だった。

 そこで、勉強不足の刀剣愛好者が数人集まって、この太刀から感じた印象を率直に話した結果を箇条書きにしてみたので、ご参考にして頂きたい。

(一) 何と言っても貴重なのは、『日本刀誕生時に近い時代の代表作』の一つである年代の古さと刀身の健全さであろう。平安時代中期のその時代は、大同(806年頃)との説もあるが、近年では、もう少し後の「三条宗近」等と同時代の作者ではないかと推定されている。
(二) もし、そうだとすれば、約千年以上前に造られた武器が、当時そのままの輝きを失うことなく現存する日本ならではの伝統と文化に対して、民族の一員として大きな誇りを感じずには居られない。
(三) 次ぎに感じるのが、この太刀の地金が表現する多様な複雑さである。板目が肌立った中に地景や地斑を交えた地金は、何処か後代の古備前や正宗に通じる所があるとの専門家のご意見である。
(四) そして、姿、地金の良さに加えて、複雑で変化に富んだ刃紋が観る人々を魅了する。全体的には「小乱」主調に小互の目や小湾が混じる変化に富んだ刃紋に、刃中金筋(きんすじ)や砂流が良く働き、刀身各所で、その変化する様が一定では無く、奔放で自在な印象を受けるのである。

 特に、刃紋や帽子に沸が線状に輝いて見える『金筋(きんすじ)』が煌めいているのも名刀ならではの奥深い変化として魅了される愛刀家も多いのではないだろうか!

 最後に江戸時代の逸話を付け加えて終わりにしたい。それは、この名刀による試し斬りの記録である。当時、戦乱の時代が終ったため、刀剣の斬れ味の良否を試すために用いた手法が、刑死人の死体を土壇の上に重ねて斬れ味を試す方法だった。

 通常、我々が拝見する試し銘は「二つ胴」、「三つ胴」程度で、「四つ胴」以上を見る機会は殆ど無い。
所が、である!
 この『童子切り安綱』には、驚異的な「六つ胴敷き腕、土壇払い」の記録があるという。
 「六つ胴」それも敷き腕、土壇払いとなると、その斬れ味は神がかりしているとしか思えない。刀も優秀なら、これを試した斬り手の町田長大夫の力量もきっと抜群だった故の相乗効果による斬れ味と考えたい。

(参考文献)
1.『寒山押形』佐藤貫一(寒山):大塚工藝社S.44年
2.『日本刀おもしろ話』福永酔剣:雄山閣1998年
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