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【映画「七人の侍」】 神様と雑魚寝はできない


   最近すっかり映画を観ていなかったから200分耐えられるかな……とおもったけど余裕だった。めちゃくちゃおもしろかったです。

   わたしはギャップ萌えをこじらせて久しいので、身分違いや歳の違いとか、双方の間にあるものを超えての繋がりに友情恋情問わずめちゃくちゃ燃えるし大好き!ってなる。でも、それとは真逆に、どれだけの言葉や時間を尽くしても「絶対にわかりあえないもの」をちゃんと無視していない作品は、そうおもえる作品に出会えたことはわたしにとってすごく大事なことで、もう、ほんと、すごかった……と膝を抱えて拝むような気持ちになる。この映画は、わかりあえたような瞬間から共闘、別離の流れの描かれ方が凄まじかった。以下ザックリあらすじ。それより以下はネタバレ有りの感想。


   戦国時代、貧しい村の百姓たちは村を野武士から守るため、侍を集めることで対抗しようとする。前半は武士集め、休憩を挟んで後半は対野武士戦。



   わたしはっていうか、大概の人間の立場は百姓だよ、母数を「人間」にした場合の確率的に言うなら。ひもじいのは嫌だし家族や友人と幸せに暮らしたいよ、それを脅かす野武士は憎いし村に絶対に来ないでほしいしできれば死んでほしいっていうかだれかに殺してほしいし助けてほしい自分らよりも強くて自分の身内以外のだれかに、っておもうよ。わかる。わたしもそうおもう。

   めちゃくちゃ嫌な言い方をすると、物語の中での貧困や哀れさっていうのは弱者のもつピカイチのステータスで、だから武士たちも、町のチンピラたちすらも百姓をたすけてやらないとっておもってしまう。自分ら以外の強者にたすけをもとめている時点でけっこう強かなはずなんだけど、それが霞むくらいに、泥まみれで泣く百姓がかわいそうで、かわいそうっていうのはそれだけで尊いもののように感じるから。

   だからその搾取される側であるはずの百姓たちの強かさが、実は落武者狩りをしてましたっていう落武者たちから殺して奪った山ほどの武具って形で露呈するとドン引きする。かつての仲間たちか、下手したら自分が狩られていたかもしれない落武者たちの最期をおもって「百姓たちのほうを斬りたくなった」って武士が吐き捨てるのもわかる。むかつくよな、他人の強さをあてにしたくせにやってることが陰惨で。この時点で、たぶん鑑賞者っていうかわたしも百姓のことがちょっと嫌になる。でもそれを繋ぎ止めてくれるのが菊千代なんだよ。

   菊千代は百姓の出で、たぶん百姓の弱さがめちゃくちゃ嫌いで、腕っぷしの強さだけで生まれた村を飛びだして、でも武士にはなれず、かと言って百姓にも戻れない戻る気もない菊千代が「百姓のこと仏かなにかとでもおもってたのか、百姓ほど悪ズレした生きものはない、でもそうさせたのはおまえら侍だ」と泣いて怒鳴ってくれる。菊千代がみんな繋げてくれるんだよ。みんなっていうのは百姓もだし武士もだし鑑賞者もだし、菊千代がいなかったら物語が成立しない。
   わたしが好きな場面で、武士たちを村に寝泊りさせるために自分の家を明け渡して厩で休む利吉の隣にきて「おまえの家だろ、なんであいつらの面倒見てるおまえはこんなとこで寝てんだ」的なことを言いながら自分も厩で寝る菊千代の場面があって、そこが百姓側でも武士側でもない菊千代の象徴のようでいいんだよ。


   おもえば菊千代ってけっこう合理的なんだよな、やり方はめちゃくちゃ粗暴だけど。武士にびびって隠れる百姓を表に引っ張りだすために危険を知らせる合図的な木の音鳴らすし、百姓が蓄え込んでた武具を持ってこさせたのも戦いのための備えとして必要だと判断したからだろうし。考えるよりも先に動いてるっぽくても、要所要所の言動は理に叶ってる。まあ持ち場を離れて単身で野武士に襲撃しに行っちゃったりもするから理性的ではまったくないんだけど。尊敬はされなくても愛されるキャラだよね。わたしは菊千代大好き。でも菊千代は死にます。

   野武士壊滅後、百姓たちは生き生きと田植えをしていて、生き残った3人の武士たちは死んだ4人の墓を見上げながら「わしたちには負け戦だった。勝ったのは百姓たちだ」とつぶやいて終わる。
   武士たちにいちばん近かったのは利吉だけど、自分を止めようとしたせいで武士のひとりが死んだとき、墓にすがりついて泣いていたその利吉も笑顔で田植えの唄を歌ってる。武士の若造と好い仲だった百姓の娘も、なんの言葉も交わさずに前をとおりすぎていって田植えの輪にくわわる。
   野武士戦前の麦刈りのときは百姓の働きっぷりを笑顔で見つめていたのに、生き残った3人の武士の表情は固く、その頭上の土煙の中に4人の墓がある。


   生きる世界がちがうっていうのはこういうことなんだとおもった。いっしょに笑って戦って酒を飲んだ時間は絶対にあったのに、村というフィールドにおいては百姓たちからすると「守られた暮らしと未来」であって、武士たちは過ぎ去っていく存在。武士たちにしても、刀を捨てて百姓に混じるなんてあり得ない。麦刈りのときも見ているだけで、手伝っていたのは(村の女にいいとこ見せたいって下心はあるものの)菊千代だけだった。菊千代が生きてたらすこしは違ったのかもしれない。また武士たちに奴らは仏みたいに慈悲深くねえんだぞって言ってやったか、あるいは勝って浮かれる百姓たちをもっと口汚く罵ってくれたか、でも菊千代はいない。繋ぎ目を失ったらあとはバラバラになるだけ。拠り所がどこにもないような気持ちで観終わっておもいだしたのは、野武士に親を殺され孤児になった子供のこと、こいつは俺だと泣く菊千代に抱き抱えられていたあの子がどうか菊千代みたいになりませんようにという願い、でもそれとおなじくらい、菊千代みたいになりますようにとも願う。


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