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人間は詩的生物である

ここ数年間のとある感覚や考えに、いまやっと簡潔にして包括的な言葉が見つかったような気がした。果てしなき迷宮へと続く一枚の扉みたいな言葉だ。出口ではなく入り口。迷宮の全体像は分からなくても、ここから入りさえすれば地道な探索の先に出口があるかもしれないと、あるいはもし迷ってもここに戻りさえすればまた一から辿り直せると思えるような、そういう入り口。そこにはシンプルな一枚板の扉が取りつけられていた。扉にはこう書かれている。

「人間は詩的生物である」

これが僕の見つけた言葉である。

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「人間は詩的生物である」という言葉には引用元があるので、それについてまず書いておく。いろんなことの説明のためにもそれが近道だと思う。

その引用元とは『熊から王へ』という本だ。中沢新一が旧石器人類の思考を解き明かそうとした本である(正確には講義録だが)。

本の中でカナダに住むアタパスカン族に伝わる熊神話が引かれている。その神話では、グリズリー熊が半分人間である理由が物語られる。熊が半分人間でもある。こういう類のものごとって、それだけ言われても脳みそのなかを無害な風として通りすぎてしまうだけだろうけど、この場所ではいちいち神話の内容は書かない。エウレカと叫んでシラクサを全裸で駆け抜けたアルキメデスのごとき発見の風速をあまり減じたくはない。気になる方は本を読んでみてください。

ちなみに、熊は半分人間でもあるという考えは中沢氏の言うところの「自然と文化の対称的な関係」として現れる。つまり人間と熊はつりあう関係にあるということだ。現代に生きる我々は、人間は熊より優れていると考えがちだ(実のところ、現代どころではなく、国家という虚構の機構が誕生した時代まで遡れるようだが)。でもそうではない。人間は熊と同等の存在である。すくなくともアタパスカン族はそのような関係性を信じていた。なぜ信じていたのかといえば、熊は半分人間でもあるからだ。つまり、熊は人間と大きな同質性を持つと考えていたのだ。

話を元に戻す。原初のホモサピエンスのある種族は「熊は半分人間でもある」と考えていた。さらに言えば、人間は熊になることができ、逆に熊は人間になることができると考えていた。これは文化人類学的事実として揺り動かせない。

ではなぜ原初のホモサピエンスはそのように考えるのだろう。そのワケは、彼らが原初的であるがゆえに、ホモサピエンスの本質と重なってくる。中沢氏いわく、その本質とは「人間は詩的生物である」ということである。冒頭で引いた言葉だ。

詩とは言葉と言葉の自由恋愛みたいなものだ。言葉同士がその辞書的な意味の次元に縛られることなく、豊かなイメージの次元で結ばれる。そして優れた芸術は純粋な魂の表現であるのだから、言葉は本来的にイメージの次元で自由に恋をする存在なのである。ちなみに、その恋の技法が隠喩(メタファー)とか換喩(メトニミー)と呼ばれるものである。

すべての言葉を含む体系としての言語、そして言語を用いて行われる思考もまた、イメージとイメージを行き交うことができる。僕たちは、ある物事を考え、そこから繋げて一見まるで似通っていない物事を考えることができる。ボードレールが詠うように「人間は象徴の森を通る L’homme y passe à travers des forêts de symboles」のである。このことがつまり「人間は詩的生物である」の言わんとするところだろう。

熊を見て、熊と思わず、人間と思う。逆に、人間を熊とも思う。まるで混ぜ合わせた絵の具のように境界が溶け去ったその思考は、まさに象徴の森に息づいている。

ここで改めて強調したい―自分にとっても肝心なところなのだ—のだけれど、勘違いしてはいけないのは、熊と人間の象徴的な繋がりは「そういう考え方もできるね」という話には留まらないかもしれないということである。単なる想像上の思考遊戯に留まらないかもしれないということである。

僕が言いたいのは、「本当に」熊は人間でもあるかもしれないということだ。

もちろん僕自身は熊は動物園でしか見たことがなくて、袖すら振り合ったことがない縁だから、実感が湧かない。けれど、何かしら似たような感覚を抱いたことがないとは言えない。旅をしていた頃、日本のとある街に自らが溶けこむような一体感を覚えたことがある。あるいは、子どもの頃に育ったとある空間からいまだに眼に見えない地脈で繋がっている感覚がある。より一般的にありそうな例を挙げれば、山深い古道を歩いていたときに体の外だけではなく内に自然なるものを感じたこともある。これらが適切な例なのかどうかはよく分からない。でもここで僕が言いたいのは、自分の境界線が風に吹かれた砂絵のようにかき消え、存在の中身が煙のように漂い出し、外界の空気のなかへ希釈されて溶けこんでいくような感覚は、誰しもが多かれ少なかれ経験しているのではないだろうかということだ。

これは自分なりにはフラットな姿勢として思うのだけれど、感覚したことが現実に起きていないと言うことはどのようにして可能なのだろうか(こみいった哲学の話をしたいわけではないからこの疑問はいまは棚に上げておく)。

要するに僕が言いたいのは、また中沢氏の言葉を借りるわけだけれど、現実には現実的な層だけでなく「詩的な層」もあるんじゃなかろうかということである。そのような層が地底の奥底に太古の記憶を潜ませて存在するのではないだろうか。そこにおいては本当に熊が人間になってしまうような層が。

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個人的に思うのだけれど、僕は「熊は半分人間でもある」的な考えが好きだ。おもわずニヤリとしてしまう。なぜだろう。

第一にいまとなってはナンセンスとならざるを得ないその響きに現代文明社会(こういう巨大で曖昧な言葉はあまり使いたくないのだけど)への粘っこい反骨心を感じるのだ。正しい例えではないかもしれないけど、街でごっりごりに腰パンしている学生を見かけると少し嬉しくなりませんか。でもナンセンスさの裏に透けて見える反骨心が好きだからといって、その抵抗が功を奏すと信じているとは限らないと思う。もしかしたら決してうまくはいかないと感じているからこそ、安心して笑っているだけかもしれない。ここの態度は正直なところ自分でもはっきりとは分かっていない。

しかし第二のワケは、それなりに態度が固まっている(少なくともそのつもりでいる)。「熊は半分人間でもある」的な考えが秘めている原初性にニヤリとしてしまうのだ。僕はこの原初性というものを大切に考えている。原初性は未開性とも文明以前性とも言えるし、ひとりの人間の生になぞらえれば幼児性とも非社会性とも言えるかもしれない。原初の段階において、僕らには底なしの想像力があったし、それがゆえにある意味では自由があった。でもそれらはいまや失われてしまった、かもしれない。しかし「熊は半分人間でもある」という考えにはそれらがそっくりそのまま保存されているように思うのだ。だから惹かれてしまう。まるで『1984年』でウィンストンがプロールに人間らしさを見出すように。

最後に第三のワケは、呪術的な世界観への憧れがある。とはいえこれは単なる趣向の話なので長々と書くこともない。

反骨性、原初性、呪術性。これら三つが重なり合って、僕はおもわずニヤリとしてしまうのだ。

僕のここ数年間は、このニヤつきを生じさせるものを追いかけてきた時間だったとも言える(追いかけていることを明確に意識し始めたのはこの1年に過ぎないけど)。結果として、そういう街と出会い、そういう店と出会い、そういう小説と出会った。神話に惹かれ、無意識に惹かれ、言語に惹かれた。

迷宮の適当な地点にいきなり降ろされたせいで、道筋も全体像も何もかも闇の中だった。それでも手探りで進んでいたら、ようやく外へと繋がる扉らしきものが見えた。近づいて、よくよく覗き返してみたら、それは入り口だった。入り口に戻ってきてしまったのだ。でもそのおかげで、自分がどのようなテーマの迷宮に放り込まれたのかがはっきりとした。それは「詩的生物としての人間」という迷宮だった。いま、あらためて再スタートを切る。

詩的な層の実証的な有無はさておいて、そういった層は直感としてあるはずだと感じているし、期待としてあってほしいと願っている。


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