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燕の職人たち ーADDressLifeエッセイー

紀行エッセイ「漂々」
2021.9 - 2022.12 都内広告代理店に勤めるサラリーマン1年生が、日本のローカルをめぐる旅のエッセイ。生活の拠点としては住まいのサブスクサービスADDressを活用しています。なお、このエッセイは20代半ばの一人間の精神史のスケッチを第一義として書かれています。あらかじめご了承ください。

※本記事は「2022年に印象に残ったADDressLife」への応募のために過去の記事をひとつにまとめたものです。

ある秋の暮れ、僕は東京から新潟に向かう新幹線の中にいた。車内の乗客はまばらで、景色が流れていくはずの車窓は、しかし延々と続くトンネルの暗闇に塗りつぶされたままだった。

定まった住まいをもたない暮らしを始めて、ひと月以上が経っていた。いわゆる多拠点生活と呼ばれるものだ。僕は住まいのサブスクサービスADDressの会員となり、彼らが提供する家々を利用していた。すでに三、四カ所の家を周った。いずれも横浜の実家に近い首都圏の拠点だった。首都圏外の拠点に向かうのは、今日が初めてだった。



なぜ多拠点で暮らすことにしたのか。

ひとつ象徴的に覚えている会話がある。それは大学四年の冬。就活も終わり、あとは卒論を仕上げるだけという単調な日々に飽きて、厳冬の函館に短期の移住をしていた頃のこと。初めて立ち寄ったカフェの若い店員との、なにげない会話の一節だった。

「函館はもうだいぶ周られましたか?」

僕がつい数週間前に函館に来たと伝えると、彼女はそう訊ねてきた。

「ええ。ただ、函館山の夜景はこれからです」

函館といえば、函館山の頂上から眺める夜景が、誰が言い出したか「世界三大夜景」の一つとして名を馳せている。昔一度函館に旅行した際、実際に見たことがあった。眼下に広がる世界は想像以上に煌びやかで、「宝石箱をひっくり返したよう」という謳い文句も言い得て妙だと感心した記憶がある。そのことを話すと、彼女は、綺麗ですよねと頷き、そして、ふと思い出したようにこう続けた。

「だけど、私の祖父に言わせれば、函館の夜景は暗いんですって」

「暗い?」

「はい。昔はもっと明るかったみたいなんです。いまは空き家も多いですからね」

百万ドルの夜景を、暗いと感じる人がいる。そういう人もいるさと済ませることもできたであろうその事実が、しかし僕を激しく揺すぶった。そういう人がいるということをまったく知らず、いや想像すらしたことのなかった自分が、やけにくだらない存在に思えた。

函館にいる間、似た経験が他にもいくつかあった。それらが合わさって、迸る奔流となり、僕の足をすくい身体を飲みこんでいった。流れ着いた先は、複雑さを増した世界だった。三カ月の滞在期間は、函館山の頂上から見える宝石の一粒一粒が、この街で生きる人々の労働であり晩餐であったことを僕に悟らせるには十分だった。

函館では、人々が暮らしている。それは東京や神奈川となんら変わらないことだった。

そして、羽田空港への帰路、雲間に日本の大地を感じながら、僕はある殊勝な使命感に駆られていた。もっと日本の地域をこの眼で見なければならない。見たい、という以上に、見なければならない。それはきっと、都会暮らしが長かった反動で地方での暮らしの魅了された、というだけではなかった。何よりも、見ようとしていなかったものを見るという態度こそが取られなければならなかった。その対象としての地域、特に地方の地域だった。

サン・テグジュペリの言葉を借りれば、山野のあいだに、ぽつりぽつりと光っているあのともしびたちと、心を通じあわせなければならなかった。そのための手段として、多拠点生活という暮らし方は実に自然に浮かび上がってきたのである。


時を同じくして、僕は都内の広告代理店に就職をした。デジタル広告を主戦場とするその会社で、僕はその運用を担うことになった。運用とは、株のトレーダーに似ている。毎日の広告配信の実績を分析し、一層効率を高める調整を行う。パソコンが一台あれば完結する類の仕事だった。

社会人生活への期待や抱負がなかったといえば嘘になる。しかし何より強い決意は、会社と一定の距離を保とう、というものだった。都内の大企業で働くことが、冬以来抱いていた使命感と矛盾するように思われたのだ。

いま思えば、過ぎた二項対立だったのかもしれない。けれど、僕は僕なりに必死だった。だって、使命感はまだうぶだったから。枯葉に灯ったばかりの火種のように、ふとしたことでかき消えてしまうのではないかと不安だったから。対して、仕事にもまれる日々はめまぐるしかった。もちろんある意味では望んだ日々だ。しかし、そのめまぐるしさは、暴風となって精神に吹きつけてきた。だから、小さな炎を守ろうと、両の手のひらで堅く囲んだ。僕は僕なりに必死だった。

入社から半年間は横浜の実家にて在宅で働いた。ごくまれに出社もした。そして、どうやら多拠点型の暮らしでも仕事に支障がなさそうだと分かった。ADDressを始めたのは九月だった。

その頃までに、広告代理店に勤める生活はすっかり日常になりかけていた。ともに働く人々の、価値観や目つきやライフスタイルや言葉じり、そういったものすべてから抽象されたもの、いわば抽象された空気とでも呼ぶべきものが、僕を外から包み、あるいは内から満たしていった。僕は、ときどき、精神において、会社と一定の距離を保ち続けることを難しく思った。

だから、物理的にも距離をとることにした。東京から離れたところに身を置こう、と。



今日が、その第一歩だった。長いトンネルはいつの間にか通り過ぎていた。すっかり夜は更けている。しばらくして車内アナウンスがかかった。

「次は燕三条駅に停まります」

僕は新潟県燕市へ向かっていた。

燕三条駅で新幹線から在来線に乗り換えて、ほどなく。僕は吉田駅という小さな駅に降り立った。

状況は芳しくはなかった。時刻はすでに二十一時を廻り、あたりはすっかり真っ暗である。在来線に乗っているあたりから、激しい雨が降り出してもいた。くわえて、いつの間にやらスマホの充電が尽きている。これでは燕の家までの道のりが調べられない……。ただ一方、いつもの癖で、この窮地を乗り越えずして何が旅か、と笑顔で武者震いしている自分もいるから厄介である。

とはいえ、今回は窮地というほどでもなかった。家の住所はかろうじて充電があるうちに記憶していた。しかも、駅舎を出ると、人気のないロータリーにタクシーが一台停まっていたのだ。僕はそれに乗り込み、次第にうろ覚えになりつつあった行き先の住所を告げた。

「燕市吉田ⅩⅩⅩまで」

口に出してみて、ふとしたことが気になった。

「燕市、なんですね。てっきり燕三条市なのかとばかり思ってました」

僕が訊ねるともなく訊ねると、人のよさそうな運転手のおじさんは、ああそれね、と小さく笑い、教えてくれた。

「燕市と三条市は別。平成の大合併のときに一緒になる話もあったんですけど、お互い仲が悪くて……。燕三条駅の名前を決める時なんかは、燕と三条のどっちが先かで結構揉めたんです」

早慶戦か慶早戦かみたいな話である。ということは、燕市も三条市もパワーバランスでは拮抗しているのだろう。それでいて、互いを分かつ特徴をそれぞれに持つ。燕三条は金物の街として知られているが、燕市と三条市とでは造られるものも異なるのだろうか。これから向かう家の家守は燕鎚起銅器の職人だという。燕の一文字を冠しているからこれは燕市の工芸なのだろう。しかしそもそも鎚起銅器とはなんだろうか……。

雨脚は強まっていた。針のような雨がタクシーの窓にぶつかって丸く潰れては、瞬く間に後ろへずり下がっていった。タクシーは、大通り沿いに三分ほど進み、左の路地に入ったところで停まった。

「着きましたよ」

雨粒の合間から覗くと、一軒の日本家屋がぼんやりと見えた。どうやらこれが目的の家らしい。支払いを済ませ、車を降りる。タクシーが走り去ると、暗闇だけが残った。街灯は一本もなく、周りの民家はすでに寝静まっているようだった。家の鍵はキーボックスに入れて扉のあたりに置いてあるとのことだったが、うまく見つけられない。聞こえるのは地を打つ雨音のみ。家の軒先まで来て、僕はふと心細くなった。

扉はガラスの引き戸で、広い土間と、奥へと続く細い廊下がうっすらと見えた。誰かまだ起きている人がいないだろうか……。

ちょうどそのとき、ぽっと玄関口の電灯が点いた。温かい橙の明かりだった。そして奥からひとりの若い男性が出てきた。彼は扉を内から開けてくれた。どれほどほっとしたことか知れない。礼を言い、服や荷物に付いた水滴を払いながら扉をくぐった。

「今日から一週間お世話になります」

僕が告げると、彼は軽く微笑みながら頷き、
「家守の田中です」
と名乗った。物静かで落ち着いた印象を受ける男性だった。と同時に、表情、特に眼元に柔らかさやあどけなさが残っているようだった。そのときばかりは、夜も遅く、眠たげではあったが。

意外だったのは、彼がまだ青年と言いたくなるほどに若々しく見えたことだ。実際には三十歳を数年過ぎたあたりの年齢であるらしいが、それでも意外な若さであった。というのも、職人と聞いて、僕は実に勝手かつ短絡的に、額や手先の皺から老巧さを漂わす高齢の人物を思い描いていたから。

さて、僕が泊まる部屋は二階だった。階段は、僕がいままで見たどの階段よりも急勾配だった。ギシギシと言わせながら階段を慎重に上り、案内されたのは八畳程度の和室だった。部屋には、小さな座卓と座椅子とテーブルランプ、それにハンガーラックや姿見、そして布団が一式置いてあった。家の利用に際しての諸々を説明してくれたのち、田中さんは自分の部屋に戻っていった。

部屋の中はひんやりとしていた。雨はまだ降り続いている。明かりを消し、布団に入ると、雨音は一層大きくなった。ダダダダダと、屋根に叩きつける音ばかりが響いてくる。

雨は上から降るんだなあ。そんなことに妙に感心した。

北陸の秋夜、雨への畏れのなかで、僕はいつしか眠りに落ちていた。

翌朝、雨は降り続いていた。田中さんは既に出かけているようで、家には僕ひとりだった。雨音に加え、家の軋みや空気の冷たさが、静けさを浮き彫りにしていた。

始業時間の九時半を迎え、パソコンを開いた。この一台さえあれば場所を問わず仕事ができることを、しみじみと実感する。前日の連絡に返信したり、今日するべきことを確認しているうちは順調だった。一時間ほど経って、次第に仕事が進まなくなってきた。手の指がかじかんできたのだ。足先も寒さに固まってきている。嘘だろう、まだ十一月も始まったばかりだというのに。

一階に降りると、共用部となっている和室にこたつを見つけた。迷わずこたつにもぐり込む。見回せば、その部屋には本があり、漫画があり、ゲーム機がある。気分は一気に正月の帰省だ。それこそまだ十一月も始まったばかりだというのに。

本棚から適当に数冊を取り出し、こたつの卓上に積む。それらの本を拾い読みし、思い出したように仕事をし、集中が切れたら寝転んでまた本を読む。そんなことを繰り返しているうちに、時間はいつのまにか過ぎていった。


夕方になり、雨がやんだ。この時を待っていたのだ。僕は周辺の散策に出かけた。

空は灰色で、またいつ降り出すともわからない気配だった。

道をいくつか曲がると、商店街の通りに出た。アーケードが遠く向こうまで伸びている。

買い物客が増えてもおかしくない時間帯のはずであるが、通りはひどく閑散としていた。幼い娘の手を引く母親、シルバーカーを押す老女、自転車で駆け抜ける青年。そういった人々と、時折出くわす程度だった。

そもそも大抵の店がシャッターを下ろしていた。どれもえらく錆びついている。錆びつき具合はさまざまある。まるで赤錆のストリートアートだ。

いくつか営業している店も相当に年季が入っている。定食屋の食品サンプルはくすみ、扉に貼られた「PayPay支払い可」のシールは赤くなかった。衣料品屋の店内は薄暗く、ラックに掛かるのは服というよりも布だった。

そこにあったのは、寂れたシャッター街の姿だった。



しかし、そういった一辺倒な認識は、あてどない散歩によって崩されることもある。

しばらくメインの通りを進み、十字路で左に曲がったところで、シャッターの列の間に、温かげな明かりが灯る店を見つけた。近づくと、それはカフェであるようだった。通りに面した部分は全面ガラス張りになっており、店内が覗けた。客は誰もいないようである。ちょうど寒さが身に応えてきていたこともあり、少し寄っていくことにした。奥から出てきた店主は、四十代ほどの男性だった。眼に力があり、明朗な印象を受ける。

「ホットコーヒーをひとつ」

そう注文をし、抽出を待ちながら立ち話になった。

店主の男性は、設計士を本業としているとのことだった。この町で育ち、一度は町を出て、そして戻ってきた。かつては賑わっていて、そしていまも実は個性豊かな人々が詰まっている吉田いちび通り商店街を、ひいてはこの町全体を、もう一度盛り上げたい。そのために、地域の人を繋ぐ場として、このカフェを営んでいるという。

彼の口から愛をもって語られる商店街は、自分が一見したばかりの商店街とは、まるで違うもののようだった。

ところで、町おこしの主導者には、建築設計の経験を持つ人が多いように思う。きっと偶然ではないのだろう。増え続ける空き家や商店街という空間をどう使うか。そこには建築設計の経験が活きるに違いない。

店主のことを知り、次は自分の番だった。

「吉田には何をされに来たんですか?」

店主がそう訊いてくる。

実は、多拠点で暮らしている中で困ることの一つが、この質問である。仮に「仕事」と返すとする。もちろん実際に仕事はしているわけだが、その仕事と滞在している町には繋がりはない。一方で「観光」と返すとする。おそらく観光もするだろうし、この場合は町との繋がりはあるのだが、観光目的と主張するにしては普段通りの生活をしている時間が長すぎる。

ではその「暮らし」と返せばいいのだろうか。要するに「この町ならではの暮らし」が目的です、と。この答えは前の二つよりも、真意に沿っている。しかしそれを、「この町の人」に面と向かって言うのは、どこか鬱陶しい行為のように思われる。

結局はたいていこう答える。

「いろんな場所で暮らしてみたいんです」

店主は、僕の真意を知ってか知らずか、そういえば、と言ってこう続けた。

「向かいの豆腐屋、めっちゃ美味しいんです。紹介しますよ」

僕はその豆腐屋に滞在中に二度通うことになる。

家に着いたときは、すでに夜だった。しかし、今日はよく歩いた。おかげで吉田駅周辺の地理が徐々に把握されてきた。また一つ、これまで知らなかった町の地図を描けていることがどこか誇らしい。帰り道で見つけた中華料理屋で食べた鶏肉とカシューナッツ炒めの味が舌の上で後を引き、一日の幸福な締めくくりを演出していた。

ガラス戸を引き、土間へ入る。昨晩と同じ景色が、まるで違うようである。廊下を進み階段を登ると自分の部屋があること、この家には家守としてあの顔あの声の田中さんが住んでいることを知っているから。勝手知ったる気分の僕は、靴を脱ぎ、家に上がった。 

と、畳部屋のこたつに見知らぬ先客がいるではないか。恰幅の良い初老の男性が本を読みながらくつろいでいる。

この家が僕のみの家であれば非常事態であるわけだが、ここはADDressの家。勝手知ったる気分がはやりすぎたせいか思わずぎょっとしたが、なんのことはない、空いていた一部屋に泊まる会員さんであろう。

本を置いた彼と眼が合った。彼はなぜかはにかんだような笑みを一瞬浮かべる。そして、どちらからともなく、こんばんは、と口を開く。礼儀正しい人に悪人はいるまい。挨拶が縮める距離は、思っているよりも長いのだ。

「こたつ、使います?」

座布団に坐り、ありがたくこたつに足先を突っ込んだ。

それを待って、彼は、星野です、と名乗った。メーカー系の会社を辞し、日本を周る生活を初めて一カ月ほど経つという。

「早期リタイアしちゃったんです」

星野さんはそう言って、もうだいぶ働きましたから、と笑う。

新卒から途切れず勤続三十年以上。その時間は、生まれて二十四年、働きはじめて半年の僕にとって、未知の巨大生物のような得体の知れなさがあった。数量としては理解できても、それがいったいどういうことなのかを捉えられない。彼が発した「勤続三十年」という五文字は、自分の内側にとりこみようがなくて、二人の間の中空をぷかぷか漂っていた。

彼がもっとも饒舌になるのは、二人の息子と一人の娘のことだった。特に、いま大学生で、自分と同じ車という趣味を持つ三男については、話が尽きない。ずっとダラダラ過ごしているくらいなら旅にでも出たらいい、だとか。好みの車の系統が似ているがまだまだアイツは分かってない、だとか。すべてが、裏返せば愛だった。いや、愛はまったく表にあふれ出していた。

しかし、それを子供と同世代の僕(長男と長女の間の年齢のようだった)、しかもつい先ほど会ったばかりの僕にここまで話してくれるのは、どういうわけなのだろうか。星野さんと僕のあいだに生じているこの奇妙な繋がりは、いったいなんなのだろうか。それは、妻に話すのとも、自分の親に話すのとも、同世代の子供がいる同僚に話すのとも、きっと違う。現実的な相談でも、蓄積した愚痴でも、子煩悩な自慢でも、きっとない。

当然、同様の繋がりは僕の視点から見ても生じている。この繋がりは、星野さんとの間に限らず、親世代の人とじっくり話す機会にときおり見られる。そういった機会は、多拠点での生活をしていると実に多い。なぜ、僕は、親にしか思っていないが親だけには言わないような思いを、素直にさらけ出すことになるのだろうか。

素直に。なるほどそうだ、これは素直な繋がりなのだ。

僕たちは、誰かに面することで、何かを思う。しかし、それをその誰かに素直に言えないことがある。素直に口に出すには、その誰かに似て、その誰かではない、別の誰かが必要なときもあるに違いない。

星野さんにとって、僕は当然息子ではない。しかしそれと同時に、この場においては、息子なのかもしれない。星野さんは、僕に映る息子に面しているのだ。その意味で、僕はいわばスクリーンである。それも、投影される映像に似たスクリーンである。

「いまはね、下見も兼ねてるんです」

ふと星野さんがそう切り出した。なんのです?と訊ねる。

「あと数年したら子育ても終わりでしょう。そしたら妻と日本を周ろうかなって」

愛はまったく表にあふれ出している。僕は、まったく距離感をつかめない三十年後の、理想の在り方のひとつを見たような思いになった。

翌朝、星野さんは旅立っていった。出発の前、土間に設置されていた卓球台で卓球をした(なぜか卓球台があったのだ。ラケットも数本、玉もたくさん)。彼はテニスが趣味だからか、筋が良かった。学生時代に卓球部だった僕としては、負けるわけにはいかない。時折、大人げないサーブを出して、点を稼いだ。父親と過ごす朝というのはこういう感じなのかもしれない、と思った。

それから数日は、僕以外の宿泊者はいなかったこともあり、静かに過ぎていった。仕事をして、たまに町に出ては商店街をぶらつき、夜はこたつに入って本を読んだ。この生活にも、しだいに慣れてきた自分がいた。

見慣れてきたもののひとつに、道や壁の色があった。それらの多くが赤茶けた色をしているのだ。夕暮れどきの閑散とした商店街ではひときわ目立つ。どうやら地下水に含まれた鉄分によるものらしい。地下水が消雪に使われたのち、鉄分が酸化するということである。

これも世界に誇る金属産業の町ならではということなのだろうか。特にここ燕は、江戸時代は元禄の頃、西部に広がる弥彦山で銅が採掘されて以来、銅器生産で名を馳せた町である。そして、その技術の粋こそが、田中さんがつくるという燕鎚起銅器ということになる。

実物はいくつか拠点に置いてあった。台所にはビールグラスが数個、和室の座卓にはやかんが一個。多角形状の鱗をまとったような紋様で、ひとつひとつの鱗はそれぞれの仕方で煌めいている。まるで液晶画面上の映像がピクセルへと崩れ散っていくときのように、幾何学的で儚げである。この紋様は、銅板を鎚で打ち起こすことで浮かび上がらせるのだという。

鎚で打ち起こすのは、紋様だけではない。器の全体の形状が、一枚の銅板から打ち起こされている。銅を叩き、縮めることで、器の形状へと仕上げていくのだ。縁に寄るしわが重ならないようにするところに、高い技術を要するという。

凄まじいのは、やかんである。正確に言えば、やかんの注ぎ口である。というのも、湯を沸かす器部分は、通常の器の工程の延長にあるのかもしれないが、やかん足るためにはその側面に空洞の突起が不可欠だ。鎚起銅器においては、注ぎ口を個別に制作して溶接することはしない。一枚の銅板から打ち起こす。この技は「口打出」と呼ばれ、修めている職人はほんのひと握りだという。

そういったことを、自らが鎚起銅器職人でもある田中さんは丁寧に教えてくれた。その日も相変わらず田中さんの帰りは夜遅かったが、いくらか話す時間があったのだ。

僕は職人という存在に興味があった。縁遠い存在へ向けるもの珍しさも混じっているが、それだけではない積極的な興味があった。憧れているところがあったのだ。

ただし、その憧れははっきりとした像を結んでおらず、漠としたものだった。憧れたきっかけとなる人物や出来事はこれといってない。あるのは、聞きかじった断片のイメージを空想によって繋げたばかりの職人像だった。

その像の人となりを挙げれば、こういう風になる。孔子言うところの知命の域に入り、所作に無駄なく、つくりだすものもまた同じく無駄がない。すべては人生を賭した厳しい修練の成せる業であり、その日々は顔や手に深い皺として刻まれている。

もちろん、ただの虚像に過ぎないかもしれない。しかし、その人物の、ただ一点を極めた先の超然とした様が、僕を惹きつけていた。

そしていま燕にて、実像に初めて面している。田中さんである。彼の三十代前半という年齢や、それ以上に若々しい外見によって、我が貧弱な虚像にはさっそくひびが入っていたわけだが、話を聞くにつれて、それはあっけなく崩れ落ちていった。

例えば、来歴を訊くと、都内にある私立の総合大学を出て、旅行業界で数年間はサラリーマンをしていたという。

例えば、日々の生活を訊くと、先日は工場(「こうじょう」ではなく「こうば」)で職人仲間と鍋をつつき、今夜は近所の中華料理屋でひとりビールを胃に流し込んできたという。

あれ。なんとも身近ではないか。一気に親近感が湧いてくる。

さらに職人になるまでの身の上を訊くと、彼は衒うところなく語ってくれた。その話によれば、深く考えもせずに就職したせいか、前職が苦痛でしかなかった。耐えて忍んだが、ついに二年で退職した。その後、アメリカなどであてどなく旅をした。大学時代に抱いていたものづくりへの興味に素直になることにした彼は、帰国後、鎚起銅器をつくる「玉川堂」の門を叩いた。

すでに三十歳を目前に控えていた。周りに遅れての入門であった。職人歴は今年で二年目という。

「まだ駆け出しも駆け出しですよ」

ふと、時間の流れ方の差を思う。僕が勤めるインターネット広告代理店では、そのベンチャー気質ゆえか二年目というとすでに一人前の扱いである。もちろん分からないことはごまんとあるが、特に僕の属する部署では、二、三年目が現場の主力な感があった。

「帰りが遅いのは、やっぱり残業とかあるんですか?」

ときに夜遅くまで仕事に追われる自らとの比較で、そんなことが気になった。

「残業はあんまり。いまはね、居残って自主制作してるんです」

訊けば、近々「叩き場展」という玉川堂の職人による展覧会があるとのことで、そこへ出品する作品の制作に追われているのだという。

それはぜひとも観たい。しかし、行程の都合で、展覧会に行くことはできなさそうだった。

「土日も何人か工場で自主練してますよ。見学もできます」

自主練。俄然、興味が湧いた。より本物の職人像をつかむための何かがそこにある気がした。

「ぜひ伺います」

もとより週末に予定はなく、迷う余地などあるはずもなかった。


待ち望んだ週末は、やはり曇っていた。ときおり細い雨が降った。

玉川堂の工場は燕駅が近い。吉田駅から、JR弥彦線で二駅進む。窓の外に広がる田んぼは収穫期を迎えて大きくなびいていた。

工場は、格式ある日本家屋だった。立派な迎門を構え、掛けられた看板には流麗な書体で「玉川堂」の屋号が記されている。雨露を吸って濃く佇む庭園をわき目に濡れた石畳を進んだ。

待合用の和室には、眼を瞠るばかりの鎚起銅器がいくつも飾られていた。ビールグラス、花瓶、器、そして口打出の技法でつくられた湯沸かし。吸い寄せられるように近づく。審美眼など持ち合わせていないはずの僕でも、美しい、と嘆じざるを得ない。なんといってもその鎚目だ。その美しさには、まるで言葉が追いつかない。

しばらくして、案内役の方がやってきた。五十歳程度の男性で、この方もここの職人だという。

工場への扉をくぐる。カンカンカン。これまで微かに聞こえていたその音が、直接鼓膜を震わせてくる。そこには、金槌を銅板に打ちつける三人の職人の姿があった。

彼らは、通路から一段高くなった畳敷きの作業場に、欅の木から切り出したという丸太状の台を置き、そこに坐っている。そして、台に差し込んだ、鳥のくちばし状の鉄棒の先端に銅板を押しつけて、金槌をふるっている。ときに勢いよく、ときに細やかに。カンカンカン。カンカンカン。皆、それぞれの場所で、黙々と金槌をふるう。腰を曲げ、顔と手元を近づけて。その横顔から、一点を射抜く眼差しが、こちらに伝わってくる。

「ここが普段私たちが働く工場です」

案内人の解説が入る。

「今日は休日なんですが、このようにときおり自主的に来る者もおります。ちょうど来週に展覧会を控えているのもありまして……」

続く制作工程や歴史についての話に耳を傾けながら、僕は制作に励む彼らの姿を傍観していた。

ここでも僕の心を打ったのは、彼らの若さだった。三人中の二人は、ほぼ僕と変わらない年齢なのではあるまいか。外見から察するに、少なくとも同じ二十代ではあるだろう。

いまや、脳内の職人像における、あの老いた超然氏の存在感は薄まるばかりだった。

代わりに現れたのは、若くとも、一所懸命な横顔だった。文字通り、一つ所に命を懸けるような、その眼差しだった。あるいは、終業後や休日に工場で自主練に打ち込む姿だった。

働く、というのはこういうことなのだろうか。

思えば、誰かが働く、その最中の姿を意識して見たことがあまりない。もちろん、あらゆる店頭で見かける接客員などはまさに働いている瞬間なわけだが、そうと意識して見ることもなかった。そして何より、自分が会社に入ってから、オフィスという空間で、大勢の社員と並んで働くということが両手で数えられるほどしかなかった。

そうなった理由には、僕が就職した二〇二一年は新型コロナウイルス感染症が依然猛威をふるっており、リモートワーク体制下にあったこと、そもそもリモートワークに支障のない業種であり出社解禁以降もほとんど会社へ出向かなかったことが大きいだろう。

働くとき、基本はひとり。チャットやオンライン会議越しに、在るべき働き方らしきものを感じ取ることはあれど、それは常に異国のしきたりを聞いているようだった。始業から終業までパソコンに向きあい働きながらも、そこはかとない浮遊感があったことは確かだ。

働き始めて半年経ったが、働く、という感覚は靄の向こうのままである。ましてや、ここ数カ月は、会社から精神的かつ物理的な距離を保つことをひとつの動機として、多拠点で暮らし始めた。いまの会社に勤め続けるべきか確信を持てず、しかしいまの仕事の対抗馬となるほどに主張するものはまだなかったからだ。そんな自分ができるせめてもの行動は、染まり切らないように距離をとることのみだった。

働くことから遠ざかりつつ、だがしかし働く。その立ち回りは意外と難しく、そもそもうまく対処できたとしてそれが良いこととも思えなかった。

そんな折の、玉川堂の若い職人である。だからこそ僕は、彼らの研ぎ澄まされた横顔に、働く、ということの一片を垣間見た気がしたのである。


詩人で書家の相田みつをは、敬虔な曹洞宗の信者であり、禅僧の武井哲応老師に師事したことが知られている。両者の出会いは或る短歌会だった。相田の歌を聴き、老師はひとりごとのように呟いたという。

「あってもなくてもいいものは、ないほうがいいんだな」

相田の下の句に対して、である。

しかし、まるで僕の働く姿に対して言われているようでもあった。

礼を言って玉川堂を後にしたときには、すでに辺りは暗くなっていた。

実はもうひとつだけ行っておきたい場所があった。通りを真っすぐ進み、川が見えたところで右に曲がる。三階建ての雑居ビルの一階に、目当ての看板が出ていた。「みんなの図書館 ぶくぶく」とある。

端的に言えば、私設図書館である。運営は民営であり、地域住民らが本棚の一角を借りて本を陳列・貸出する一箱本棚オーナー制度を特徴とする。近頃、そういったシステムの本屋はよく目にするが、その図書館版といえば分かりやすい。静岡の焼津にある一店に端を発し、いまは全国で二十数カ所にまで広がっているという。

ここを知ったきっかけは、先日訪れた吉田いちび通り商店街にあるカフェのオーナーだった。このあたりにいい本屋はないか、と訊くと、本屋ではないけれど面白いから、と勧めてくれたのだ。

しかし、今夜ここに来た理由は、私設図書館というものを見たかったからだけではない。

「玉川堂のとこの職人さんがやってるらしいよ」

オーナーのそのひとことが決め手となっていた。つまり、ここに来たことも、職人を知る旅の途上というわけである。

館内には、壁二面に本棚と、中央に大机が二台置いてあった。机を囲んで、二人の男性と一人の女性が談笑している。女性が僕に気づき、明るく声をかけてくれた。

「こんばんはー」

「玉川堂の方がやってるって聞いて」

「あ、私です!」

彼女が館長の白鳥さんだった。若く、人を惹きつける活気がある。

二人の男性は、ひとりは近所の学校教師、もうひとりは燕の煙管職人だった。こちらに気づき、教師氏はにこやかに会釈をし、煙管職人氏は寡黙に一瞥をしてくる。

ここは職人仲間の集会所でもあるのかもしれない。すると、ガラス戸が開いて、男女の一組が入ってきた。手を上げて、白鳥さんと軽い挨拶を交わす。

「同僚です」

彼女がそう教えてくれる。退勤後に遊びに来たのだという。

僕の予感はあながち外れてなかったのかもしれない。すると、再びガラス戸が開いて、少女一人と、腕に抱かれた犬一匹が入ってきた。はじける笑顔で勢いよく喋り出す。

「社長の娘です」

すかさず白鳥さんの解説が入る。社長というのは、玉川堂の、である。

ほー、と声にならぬ声が漏れる。僕の予感は当たって……いや、降参だ。社長令嬢も集うなどと誰が予想できただろうか。

彼女たちと軽く談笑し、おいとまする。こんなにもあたたかい仕事終わりの光景があることを、僕は初めて知ったような気がした。

ふんわりとした明かりが夜の闇にかき消される境界で、僕はふり向き、写真を撮った。


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