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方向感覚という「呪い」

「呪い」というものについて


年始に、友人が「呪い」というものについて考え、語る会を催していた。


その会には参加できなかったのだが、確かに生きる上で、自身に固有の「呪い」の様なものは存在するな、と思う。


人それぞれ、多かれ少なかれ、某かの「呪い」を抱えて生きているのだろうし、それは深刻なモノから笑い飛ばせるものまであると思う。


と言うことで、今回は、さほど深刻ではないが、それなりに自身に影響を及ぼし続けている、私の抱える「呪い」について、少し触れてみたいと思う。

「呪い」としての「狂い」


それの「狂い」に気が付いたのはいつだったか、もう思い出せない。


物心付いたときには、そうなっていた。


それは、一般的には、きっと「方向感覚」と表現されるモノで、私のそれは、端的に言って「狂っている」のだと思う。


私は方向感覚が反転した世界を生きている。「東」を「西」の様に感じ、「南」を「北」の様に感じている。


もう少し具体的に言えば、私は、東京において、以下の様な感覚で日々を暮らしている。


・私が「東」と認識している方角のその先には、山梨県があり、日本アルプスがそびえ、関西地方があり、その先にユーラシア大陸がある。


・私が「西」と認識している方角のその先には、千葉県があり、太平洋が広がり、その先に北アメリカ大陸がある。


・私が「南」と認識している方角のその先には、埼玉県があり、東北地方があり、北海道があり、樺太があり、ロシアがあり、その先に北極がある。


・私が「北」と認識している方角のその先には、神奈川県があり、太平洋が広がり、オーストラリアがあり、その先に南極がある。

・従い、上述の通り、私の感覚的には、太陽は西日本や日本海の方面から昇って来ており、北海道方面の上空を経て、遙か西方の太平洋方面へ沈んで行く。 ーそんな『元祖天才バカボン』のテーマ曲風の世界観が私を取り囲んでいる。

勿論、知識として、太陽は東から昇って、南方上空を通過し、西に沈むのは、理解できているのだが、、、

そして、これは、そんなに複雑なコトではないはずなのに、このことを言語化して、他者へ伝えることが意外と難しいことに、キーボードを叩き始めてから気付く、いまここ。


なので、というか、テキストでの説明が何故か斯様に回りくどくなるのだが許して貰いたい。



方向/方角に対する意識とか



方向感覚が狂っているからと言って、地図が読めない訳ではないし、道に迷いやすい訳でも無い。日常生活に支障を来すことはほぼ無いと言える。旅行で困ったこともないし、なんなら地図やコンパスを読みつつの山行だって可能だ。

ーそう、言えるのだが、しかし、と言うか、やはり、と言うか、我ながら、この感覚の狂いは、人生において奇妙に感じる問題として常に存在している。


他の人はそういうことが無いのだろうか。「日常生活で方向/方角というものを意識するか」という問いを、親族や、友人に投げてみたりすると、大抵「否」という答えが返ってくる。つまり、そんなモノを気にして生活をしていないし、あまり気にすることは無いと言う。


そういうものなのだろうか。私は、常に方向/方角を気にしている。「気にしている」というのか、「意識している」というのか、若しくは「無意識に気にしている」というのか、自分でもよく分からない。だが、頭の片隅に、常に方向/方角のことがあるのは確かである。それが当たり前だと思っていた。


なので、周囲のこの回答は、私にとっては意外に感じた。


もしかすると、私は、人より、方向/方角というモノに興味、関心、ないしは拘りのようなものが強い、ということなのだろうか。

そして、その自分がそこそこ意識を向けている(かも知れない)、その対象であるところの感覚が、自分の中で狂っているというところが、私に課された呪いなのだろうか。


狂いの起源についての考察


私の中でそのような「狂い」が生じてしまった原因を、無理矢理に求めるとすると、生まれ育った環境に思いが至る。それは、実家のテレビ、そして、その設置位置だ。


私の実家は、小売店を営んでおり、客足や配達の都合を鑑みるに、いつも天気を気にしており、頻繁にテレビで天気予報を見ていた。天気予報は、ご存知の晴れマーク、傘マークが「日本地図上」に点描される。そう、日本地図である。


そして、実家のテレビは、やや南向き(概ね南南東方面)に向けられていた。


ワタシは物心つく前から、日常的に、やや南向きに日本地図を眺め続けていたことになる。

つまり、ワタシの中でワタシという世界観が形成される過程で、南向きに見続けた日本地図。地図上部である「北側」を「南方方面に」見立てて見続け、それがワタシの意識の底の方に、それと知らずにビルドインされて行った。ーそういう可能性がある。

ーいや、分からない。これが本当にその理由なのかは分からない。



方向/方角の感覚の回転と固定的イメージについて


そんな訳で、根源的な理由は定かではないものの、基本的に反転している私の方向/方角の感覚なのだが、さらにややこしい問題がある。


建物の中に入ったとき、または、同じ建物の中の部屋に入ったとき、さらには、廊下や階段などの構造物を移動しているとき、不意に方向/方角の感覚が「変化する」コトがある。


それは多くの場合、(もともと狂っていた方向/方角感覚が更に)反時計回りに90度回転する。稀に180度回転することもあるのだが、最早、どういうルールでそうなるのか、分からない。傾向を調べてみたが、「90度、左回転することが、多い気がする」、という程度で、詳細は我ながら不明だ。私は私について分からないことが多いことの一例でもあると思う。


また、部屋や廊下、階段などの構造物に起因する方向感覚の「回転」とは異なり、同じ方角のイメージを固定的に想起させる土地の要素がある。


これは、「浜辺」にまつわるもので、浜辺に面した海の方向は何故か宿命的に「ユーラシア大陸の方」(つまり現実の方角でいう西)のイメージが固定化されている。私の深層心理として、「浜辺はユーラシア方面を向いているべきである」という謎のイメージがあるのだろうか。


関東で言えば、神奈川県の相模湾を南に臨む、例えば江ノ島海岸や、太平洋を東に臨む千葉県の九十九里浜なども、その先にユーラシア大陸があるようなイメージがある。


「90度回転現象」にせよ、「浜辺=ユーラシア方面の固定的イメージ」にせよ、共通して言えることは、ある場を始めて訪れた際、その場所の方角のイメージは私の中で決定され固定化され、以降同じ場所を訪れる度に、基本的に同じイメージが再現されることになる。終着的イメージとして私の中に留まるのである。


その有効圏〜結界のようなもの〜


一方、この呪縛にも、「有効圏」のようなものがあることに気づいたのは、学生時代以降、あちこち比較的広範囲の旅行をするようになってから。


すごく雑駁に言うと、この「呪い」の「有効圏」は「首都圏近郊」の一部に限られることに気づいた。


東京都は基本、全面アウト、つまり「呪い」の有効圏内。埼玉県も概ねアウト。千葉県は房総半島南端部(九十九里浜南端ー富津岬のライン以南)を除いて概ねアウト。神奈川県は三浦半島南端部(三崎口以南)を除いてアウト。だけど茨城県、群馬県、静岡県、山梨県あたりはセーフ(=有効圏外となり解放される)。

そして、少なくとも「浜辺=ユーラシア方面の固定的イメージ」についても有効圏外では発生しなくなる気がする。(「90度回転現象」については定かではない)

これらは、自動車や列車や自転車などで移動していて気づいたこと。ある「一線」を越えると、その呪縛が切れて、方向感覚が、世間一般のそれと一致するようになる。不思議だ。そして、それは心地が良い。逆に首都圏に戻り、それに縛られるようになると、それは「ああ、戻って来ちゃった」という、かったるい重石のように、若しくは重力の様に、私自身に再びのしかかる。


やはり、この呪いには、それが有効な「結界域」があるのだろう。


そして、それはやはり、幻想なんだとも思う


過去に4年間ほど、東京を離れ、北関東で暮らしていたことがある。その期間は、この呪縛から解放されていた。太陽は、きちんとアメリカ方面の東から昇り、オーストラリア方面の南を通り、ユーラシア大陸方面の西の地平線へ沈んでいった。それは、とても自由な、とても気が楽な期間であった。


それを思う度、私は東京、というか、この方向/方角感覚の狂った結界域を離れて暮らした方がよいのではないかと、思う。


でも、一方で、こうとも考える。地球は球状なんだと。もっと言えば、地球は宇宙の中をぐるぐる自転しながら、さらに太陽の回りを公転してんだ、と。それを考えると、方向/方角感覚なんて、あまり意味のない感覚である。それもある種の「幻想」でしかないんだな、と。



呪いと祈り


というわけで、私のちっぽけな「呪い」について書き出してみた。

テキスト化を試みると、少し分かったことと、やっぱり分からなかったこととある。


改めて向き合って考えてみたこともある。その狂いが変容(回転)することがある傾向とか、その有効範囲だとか。そして、そもそもそれが狂っているのかいないのかという、ことそのものだとか。


そして、「呪い」だと思っている、これは、まぁ、地球レベル・宇宙レベルで見たら、独りよがりなのかもしれない、だとか。

尚、「呪い」について、考えるきっかけを与えてくれた、その友人が、「祈り」というものについても考えるきっかけを与えてくれた。


私の「呪い」は多分ほかにもあるのだと思うけれど、併せて今度は「祈り」についても、考えてみたいと思った。

※その友人と、「哲学のお椀」(哲椀)というPodcastを始めてみてます。良かったら聴いてみて下さい。

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