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秀吉の大返し成功を再考してみる

昨日も投稿した「日本史サイエンス」の中で紹介されていた「秀吉の大返し」について今一度考えてみた。

「秀吉の大返し」とは、当時、中国地方で毛利攻めを行っていた秀吉が、本能寺の変を知った後、わずか8日間程で約2万人の軍を従えて京都まで引き返し、明智光秀を討ったという史実だ。

「日本史サイエンス」を書いた播田氏によると、当時の道路状況や、軍の装備、気象条件等からいって、この短期間で2万人もの軍を動かすことは物理的にかなり困難であったろうと分析している。

ただ、事前に何らかの準備を行っていれば、この行軍は何とか実現できたとも言っている。逆に言うと、何の準備もせずに、これを実行することは、ほぼ不可能だったのではないかというのだ。

ここから先は本書には記載されていないので、あくまで以下は私の個人的な推測である。でもこういう想像をするのは本当に楽しい。

もし秀吉が事前に準備を行っていたのだとすると、それには以下3つの要因が考えられるのではないか。

1.事前に光秀の謀反を察知していた。

2.謀反とは関係なく、退路を確保する算段をしていた。

3・信長から万が一の時に備えるよう指示されていた。

いずれも考えられるし、1~3全てが並行していた可能性もある。

毛利攻めをしている最中に、万が一のことが信長あるいは京都にあるかもしれない。その時に備えて、中国地方から京都方面に引き返すための算段をつけておく必要がある。

戦国時代であれば何でもありなので、秀吉に限らず、恐らく当時遠征に出ていた武将の多くは、それくらいのリスク感覚はある程度持っていたのではないだろうか。

ただ、そのリスクへの備えを、どれだけの精度と周到さをもって行えていたかどうかが、成否を分けたということなのだと思う。

そして秀吉はその辺りの準備にかけては人一倍優れていたと考えられる。

それまでにも様々な攻城戦で、ロジスティックスの重要性や、どうすれば合理的に物量調達を行うことができるのか、ということについては、大体頭の中に入っていたはずだ。

なので、本書で指摘されている通り、確かに8日間で2万人の行軍というのは実際には、動いたのは2万人ではなく、そのうちの一部だったかもしれないが、相当程度のことは可能だったのだろう。

秀吉に学ぶべきは、

(1)リスクに備えるインテリジェンス力

(2)リスクへの現実的な対処を可能にするロジスティクス構築力

(3)これらを行うためのコミュニケーション力

の3点に集約されるだろう。

まとまった資源をスピーディーに動かすということ、そして予測困難な事態、リスクに備えるということは、いつの時代でも、そして軍事に限らずビジネスや生きていく上で共通するテーマだ。




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