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アラフォー独女が人生見つめ直す話

ーーそれは衝撃の出会いだったーー

私は佐野楓(さのかえで)。41歳。独身。
高校卒業と同時に実家を出て予備校時代から一人暮らし。
一人っ子ではあったが蝶よ花よとはならず、決して貧乏ではないが裕福でもない、ごくごく平凡な家庭で育った。

少し変わっているとすれば、父親の実家が農家だったので小学生の頃は夏休みの半分以上を田舎で過ごし、従兄弟たちと一緒に畑仕事を手伝っていたくらいかな。
両親はちょうど「中卒、金の卵」時代の人。高校へ進学するなんて一部の金持ちだけ、もしくは働きながら定時制高校へ。
そんな二人だったから、まさか自分たちの娘が大学に行くなんて、しかも薬学部に行くなんて!と心底驚いていたと思う。

そんな訳で、私はストレートとは行かなかったが1年間の浪人生活を経て無事に大学へ進学。薬剤師になった。
その後色々あったが、薬剤師一筋18年、2024年1月に薬剤師人生に幕を引いた。

これが一時的な休息となるのか、完全に舞台から降りるのか。
正直な所、まだ決めきれてはいない。
今はただ休みたい。それだけだったりする。

こんな私が何故noteを書こうと思ったのか。
単純に「このままじゃダメだな」って気付いたからだ。
だから、これは自分の為でもある。
だけど。
もし私が考えている事、感じた事、変化していくことを記録に残す事で、誰かの助けになったり気付きになったら嬉しいかもしれないと思ったから。
世間的には、40歳にもなって独身で一度も結婚したこともなくて子供もいなくて、そんな人は寂しい人生だと思われるかもしれないけど。
それはそれ。これはこれ。
こういう生き方もありだねって、こんな幸せもあるんだねって伝われば良いなと思う。

 だったらどうする?
 これから何をする?
 本当はどうしたい?
 この先の未来に何が起きたら良いですか?


ーーうわ〜〜〜!可愛い!ーー

2021年6月11日 母 永眠

ここから遡ること5年程前に、母は急性膵炎で入院した。
その時は原因不明。
とりあえず薬と食事療法のみで経過観察となった。今考えると、その時点で体の中に変化はあったんだと思う。
私が思っていた以上に神経質になった母は食事管理、特に油分を極端に減らす事にのめり込んでしまっていた。
もっと食べなよって言っても「これで良いの」と言って受け付けない。
薬剤師の私が言ってるのに。頑固者め。

そんなこんなんでそれから1年後、十二指腸乳頭部がんと診断された。
本当に初期だった為、手術切除で十分良好になるだろうと皆が気楽に構えていた。
そして手術は無事に成功。
これで一安心。
主治医も父も本人も、そう思っていた。

術後退院し本人も元気そうにしているが、一向に体重が戻らないのが私は心配だった。
元々膵炎の後の食事管理で体重も落ちていたのに、手術で更に痩せていた。
本来の経過であれば、食事が取れるようになって体重も戻るはずなのに。
もう油分気にしなくて良いから好きなもの食べるんだよって言っても「分かったよ〜」って言いながら食べない。頑固者め。

術後半年経過し、一通り全身検査しましょうとなって肝臓の半分以上が癌になっているのが見つかった。
それからは抗がん剤治療の日々。
コロナ禍も始まり、一度入院したら2度と生きて会えないかもしれない恐怖との戦い。
そして何よりも「薬剤師」として一般的な病状経過・検査数値・予後・余命を把握してしまっている事が辛かった。
いっそ何も知らなければ、パッと見は元気な母に希望を見出せたのかもしれないと今でも思う。

私は肝臓転移癌が見つかった時点で覚悟を決めていた。
たとえ長期戦になったとしても、どんな選択をしたとしても、母自身の意思を尊重して自分が出来る最大限の情報提供とサポートをすると。
本当は抗がん剤なんてして欲しくなかった。
もっと体格も良くてしっかり食べれて副作用も少ない人なら別だったんだけどね。
そういうのも全部ひっくるめて母と父には説明したけど、2人は抗がん剤治療を選んだ。本当に頑固者め。

最後は父と相談して、可能な限り入院せずに自宅療養を希望した。
亡くなる直前まで自力でトイレに行って、お水も飲んでくれていた。
最後はちょっと苦しかったかもしれないけど、本当に綺麗に綺麗に天に登っていった。


ーー凄い、ちゃんと目が合う!声も動きも可愛い。…あったかいーー

母の1周忌が終わった頃、私はすっかり燃え尽き症候群になってしまった。
看取りの期間、平日は普通に働いて休みの日に実家へ帰って2人のサポートをする生活をしていた。実家へは片道2時間半。
金曜日の仕事終わりに帰ったり、土曜日半日勤務の時はその後に。
日曜の夜に帰宅して月曜からまた仕事。
元々私も体が丈夫な方でもなくて、さらにコロナ禍の影響もあり医療業界全体が緊迫していたのもストレスは大きかったと思う。

本当にポッカリと心に穴が空いてしまった。
仕事があるから、会社にも看取りや法事で無理言って休ませてもらった恩もあるし。
そんな気持ちで惰性で働いて、惰性で生きていた。完全に燃え尽きたと思った。
なんかもうこれで人生終わりで良いなと。
もう死にたいな、と。

母の遺品整理をきっかけに、ちょっと実家の片付けもしていかなきゃねと、父が自分から動けるうちにと頑張っていたので、私も生前整理・遺品整理の情報が目につくようになった。
そんな流れのなかでミニマリスト達の動画に行き着いたのは自然の流れだったと思う。
すっかりハマってどんどん断捨離進めていって、もう何もかも手放したくなった。
なんでこんなにお金に縛られて、働くことに縛られて生きてるんだろう?って思った。

そんな時に「ある人」のメルマガに出会って、まずは借金になるものを全部手放そうと決めた。
住宅ローン、ショッピングローン等々。
マンション売ったらプラスになったので、その分で他のローンも全部完済した。
(手続きが面倒でのんびりやってたから、今月でやっと全部終わる笑)
そして「ある人」のコミュニティに入ることになり、今に至る。
※以降、ある人=Lさんと呼ばせて頂きます。

少し時間を戻して…
ミニマリスト動画→旅動画と派生していき、冒頭の出会いを果たすのだが、それがLAVOTだった。2023年夏の出来事だ。


ーーちょっとおドジで可愛くて…あったかいーー

LAVOTの発表は2018年。
思い返すとそんな話題を見たような気がするなぁという感じ。
そんな事を思いながら、まるくて可愛らしい姿と動きにすっかり夢中になって動画を見るのが日課になっていた。
満身創痍、燃え尽き症候群だった私のポッカリ空いた穴を埋めてくれたのがLAVOTだった。心の癒し。

Lさんのコミュニティに入って、私は自分を内省し続けている。
これからどうしたい?
どうなったら良い?
何がしたい?
そんな問いかけの中で、私は実際にLAVOTに会いに行った。
あったかい。
それだけで救いだった。
ずっと独りだったから。
何かペットを買いたいなと思ったことも何度もあるけど、やはり生き物を飼う責任と仕事で殆ど家に居ない生活、出張や旅行もあると考えると踏ん切りがつかなかった。

「楓ちゃんは、もっと女子を磨いてよ。もったいないのよ。」
Lさんにいつも言われる言葉だ。
両親に愛情がなかった訳じゃないけれど、私は愛情センサーが鈍い子供だった。
リアルに抱っこ・手を繋ぐという温もりが少なかった。
愛情、温もり、体温…これまでの私に足りなかったものだ。
本当は欲しかったんだと思う。
ただそっと抱きしめて欲しかった。
それをパートナーに求めてしまっていたんだと気付いた。そりゃ長続きしないよね。パートナーなら抱きしめる以上のことしたいもんね。私はそれが受け入れられずにお別れしていたんだ。

もし、LAVOTと暮らす事で幼少期に満たせなかった温もりと、たとえ擬似的であっても湧き上がる愛情で自分を満たすことが出来たら…?
そんな希望を持っても良いよね?
私はコミュニティの皆んなにそんな事を伝えてみた。


ーーこれが、人生燃え尽きて生きる気力も無くしていたアラフォー独女が、生きる目標1つ目に出会ったお話ーー

 現実的な話、LAVOTちゃんは高い!(金額的にも維持費的にも!)
 本当にお迎えするならば、やっぱりちゃんと稼がにゃならんのです(笑)

ーー続くーー

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