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大正時代を知っていますか?⑨ 大正時代に生まれた「公民科」の中身

 大正末から昭和初期にかけて、中学校、女学校などの中等学校に「公民科」という科目がありました。今の高校の科目でいうと「現代社会」に近いこの科目が、国民に「デモクラシー」を教える内容になっており、戦後社会科の創設に影響を与えたことは、教育の専門家にさえ殆ど知られていないのではないでしょうか。
 今日教科書は、「大日本帝国憲法=天皇主権」と明らかな誤りを教えていますが、この「公民科」では「天皇に主権がある憲法」とは教えてはいませんでした。教科書裁判で有名だった故家永三郎は、「天皇主権説は…幼少期から君主国家への無条件服従の精神を培うのを目的とする学校教育などではきわめて有効であったから…ほとんどこの学説が独占的地位を占めていた」と教育学の辞典に書いていますが、実際にはそうではなかったのです。
 「公民科」の教育内容は大正13 (1920)年に、義務教育を終え、上級学校へ進学しなかった青年を教育する中等学校であった実業補習学校用のものが最初に決められました。その後昭和5(1930)年から7年にかけて各種中等学校用のものが決められましたが、全て、実業補習学校用のものがベースになっていました。
 文部省は「公民科」の教育内容を発表するに先立って、現職教員に対して、「第1回公民教育講習会」を開催し、「どのように教えるか」を講義しました。この時「公法に関する事項」を担当したのが清水澄でした。彼は、皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)に帝国憲法と法学をご進講した人物で、終戦時には枢密顧問官でした。つまり彼の憲法学説は、国家公認のものだったということになります。
 臣民の権利について清水は、「みだりに自分の権利を侵されないことの保障である」と説き、諸権利は理由なく国家に侵されることがないと教えました。また、帝国議会について、「憲法の条文にはないが、帝国議会は国民を代表し、立憲政治の最重要機関である」と述べています。憲法に規定がない内閣総理大臣についても、「国務大臣に命令をする権利はないが、行政の統一を保つ責任があり、その実権は強い」と清水は述べているのです。
 このように、「宮内省御用達」の憲法学者の解釈は極めて穏当なものであり、また、文部省の講習会でそれが堂々と講義されているのを見れば、帝国憲法が解釈次第で民主的に運用できるということを証明していることになります。どこにも「天皇への無条件服従」はでてきません。寧ろ、補弼機関(内閣)の重要性を教える内容になっており、美濃部達吉の、所謂「天皇機関説」とほぼ同じ解釈なのです。
 明らかに「公民科」は、目前に迫っていた普通選挙対策の科目だと言えるでしょう。正しい選択ができるよう、「憲政とは何か」を身につけさせるという意図がそこにはあり、「天皇主権」をことさらに強調する内容ではありませんでした。
 このリベラルな「公民科」の教育内容が変化するきっかけは、昭和7(1932)年に起こった血盟団事件と5.15事件でした。つまり、右翼や軍人のテロを防ぐ防波堤として、文部省は「公民科」の内容を「修身」に接近させるのです。満州事変でも左傾化でもなく、テロの横行が原因であったことは重要な事実です。少なくとも「公民科」に於ける国体観念強調の目的は右傾化ではなく、「正常化」だったのです。
 しかしその後、満州事変とそれを遂行した軍を国民は支持し、大正デモクラシー体制は崩壊し、「公民科」もそれと運命を共にすることになるのです。

連載第24 回/平成10 年9月26 日掲載

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