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【『日本代表とMr.Children』の世界】桜井和寿はあの時「死にたかった」。そしてサッカーとの出会い

『日本代表とMr.Children』まもなく発売となります!

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発売に先立ちまして、「日本代表」と「Mr.Children」が結びついていく一つのきっかけとなった桜井和寿と名波浩に関する話について、ブレイク期~活動休止あたりのミスチルの話、ミスチルおよび桜井和寿のサッカーとの出会いなど含めてまとめました。

書籍で言うと2章の一部のダイジェストになります。ここで触れている記事なども本の中で(すべてではありませんが)都度言及しています。

実際には「対談形式」なので少し印象は変わると思いますが、最初はこういったエビデンス起点の話を中心にしながら、徐々に書き手の考察を大胆に加えていくというような構成になっています。

それではどうぞ。

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ミスチルの「everybody goes」という曲は、そういう自分の気持ちをモロに歌った曲ですね。だから、僕、みんなに言ったんですよ。「これはミスター・チルドレンの『ゴーマニズム宣言』だ!」って。(SPA! 1995年4月26日)

「若き天才メロディ・メーカーと天才マンガ家が、世代を超えて語る90年代的 生 のあり方」と銘打たれた小林よしのりとの対談でこんなふうに話す桜井和寿。自身のヒット曲の誕生秘話を意気揚々と語る言葉からは、時代の追い風を受けまくる勢いがビンビンに伝わってくる。

1993年にリリースした「CROSS ROAD」が年をまたいでミリオンセラーを記録。続く「innocent world」で日本レコード大賞を受賞。アルバム『Atomic Heart』もシングル「Tomorrow never knows」「everybody goes」も爆発的にヒットし、一躍音楽シーンの寵児となったMr.Children。そのフロントマンである桜井和寿は、この対談の約2年後にこんな心情を吐露している。

ほんとにもう、いつも「死にたい、死にたい」っつう感じでしたからね。(ROCKIN'ON JAPAN 1997年6月号 )

ブレイク期の狂騒の中で生み出されたアルバム『深海』を作る過程において、彼はかなり「限界」に近い状況にいた。

97年3月のライブを最後にミスチルは活動休止期間に入る。このJAPANのインタビューでは休止中にやりたいことについても語られているが、ここでの話題の中心は「サーフィン」だった。

あとはバンっていうか、キャンピングカーで日本全国をーーサーフボードを積んで、いろんな海に行きたいなあという。(ROCKIN'ON JAPAN 1997年6月号 )

そして1998年秋、ミスチルは「終わりなき旅」で本格的に活動を再開。その後に行われたインタビューでは、休止期間中に何をしていたかについて語られている。

まあ最初は写真週刊誌をまいたりだとかですね(笑)。(ROCKIN'ON JAPAN 1999年1月号 )

当時桜井和寿のプライベートの問題はかなり大きなスキャンダルとして取り扱われていた。しかしインタビューでこんな話をするのもなんとも無防備というか、時代を感じさせる。そして例によってサーフィンの話になるのだが、そこにこんなコメントが付け加えられる。

あとはバンドのメンバーと野球・サッカーという。(ROCKIN'ON JAPAN 1999年1月号 )

バンドとして積極的に行っていたこれらのスポーツ。彼らのレクリエーションとしてこの2つがこれまでも行われていた様子は、たとえば『es(エス)―Mr.Children in 370 DAYS』の密着日記でもたびたび触れられている。また、サッカーに関しては、桜井個人としてはJリーグ開幕くらいから興味を持っていたという話も各所で語られている。ただ、この休止期間中、サッカーへの情熱が高まる重要な出来事があった。

いよいよ我がJIMIKENにサッカー部ができました。野球の田原監督に続く、サッカーのリーダーは桜井キャプテンです。昨年の秋、日本中に旋風を巻き起こしたワールドカップ日本出場に影響され?桜井さんを筆頭にサッカーチームを結成しました。(ファンクラブ会報 1998年5月)

世の中の空気にがっつり押されて、バンド活動を休んでいる最中にサッカーにより本格的に取り組むようになったミスチル。ここで言う「日本中に旋風を巻き起こした」日本代表チームにおいて背番号10を背負って中盤を仕切っていたのが、名波浩。

友達に頼んで、浜松アリーナでのライブを初めて観に行ったんだけど(中略)オープニングが、大学生のときに初めて聴いて衝撃を受けた「innocent world」で、しかもライトアップがジュビロカラーのブルー。もう運命感じちゃって、オレ、一生この人についていく!って。でも最初は楽屋へのあいさつはしてないんじゃないかな。初対面の会話って、記憶がないなあ。(『夢の中まで左足』2009年 名波浩×桜井和寿対談)

「浜松アリーナで行われたinnocent worldから始まるミスチルのライブ」というと、「REGRESS OR PROGRESS」ツアーの1997年1月末。2015年末に放送されたJ-WAVEでの名波×桜井対談では「もともとお互いにファンだったことから交流が始まって以来、およそ18年」とも説明されており、97年~98年にかけて、つまりミスチルの活動休止中に名波と桜井の関係は深まっていった。

ちなみに、

名波 みんなで飲みに行くチャンスがあったときに、一気に意気投合して、大スパーク。
桜井 大雪の日だよね?
名波 東京に大雪が降った日で、みんなで雪だるま作ろうぜ、って外に出たら、桜井さん酔っ払って、短パン、ユニフォーム姿で出てきて、雪の上でスライディングするんだもん。もう大笑いですよ。(中略)あれで一気に距離が縮まった感じだった。(『夢の中まで左足』2009年 名波浩×桜井和寿対談)

98年1月8日~9日と15日~16日の2回大雪が降っているようなので、おそらくそのどちらかが2人の「馴れ初め」ということになるかと…

98年の夏にはジュビロが出場するナビスコカップ決勝に直電で招待するくらいの仲になっているわけだが(「SWITCH」1998年9月号)、この2人の関係はミスチルのクリエイティブにも影響を及ぼすようになる。

名波君と呑んだ時、試合前に僕の曲を聴くかどうか、訊ねたことがあった。彼が言うには試合前に聴くとその試合は負けると。そこで僕が思ったのは、僕の歌を聴くと調子が悪くなるのは内に内に向かうからアクティブにならないということなのかもしれないって。次のアルバムには彼が聴いてもアクティブになるような曲を一曲くらいは入れたいなと思いますね。(「SWITCH」1998年9月号)

「死にたい」という時期を経てバンドを止め、「人間・桜井和寿」を再起動させようとしていたタイミングで「リスペクトできる異分野の友人」として出会った名波浩の存在は、桜井にとってとても大きなものだったのだと思う。そして、名波が初めて世界の大舞台に立つのと時をほぼ同じくして、桜井もサッカーにのめり込んでいった。

サッカーにはまった人気バンドのボーカルと、そのバンドを愛する日本代表のMF。この2人の相思相愛の関係が、「日本代表とMr.Children」が双方向のベクトルでつながっていくきっかけとなる。

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これはあくまでも一部ではありますが、こんな話をいろんな角度からやっていますので、ご興味持っていただいた方はぜひよろしくお願いいたします。


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