見出し画像

エッセイ:聳え立つビルディングを歌え

パノラマ的な都市とは、「理論的な」(すなわち視覚的な)シュミュラークル、要するに、実践を忘れ無視してはじめて出来上がる一幅の絵なのである。

ミシェル・ド・セルトー 日常的実践のポイエティーク

Reol 第六感 ビルや都市を舞台として”踊り、”歌う。


都市は、街路や住居、橋や電柱、商店や高層ビルなどが一つ一つが集積して

形成されている。

こういった見方に立てば、街路や住居は部分でありー都市全体から見れば

ー、それを構成する部品という位置付けになる。

さて、そういった都市は一体誰のものなのだろうか?

日々、街路を往来し、通勤のために車や電車に乗り、商店で買い物をする、

私たちのものなのだろうか?あるいは、都市計画者や国家、地方自治体、そ

ういったおおやけの機関に属しているのだろうか?

都市は誰のものでもないし、誰かが所有しているわけではない。

が、部分に分け入って見れば、高層ビルの所有者、橋を管理している行政、

道路を整備している地方自治体といったエージェント達がいる。

そう思考してみれば、私たちが自由にできる都市という場所はとても少ない

のかもしれない。

所有という視点から見れば確かにそうなのだろう。

アガンベンは所有することに対して、使用することを格下げしたことが近代

の堕落の始まりだったと述べている。

所有は都市をストックの場として形成する。資産や負債、知識の集積場所と

しての建物や街路。

そして、情報もまた都市にには流入し、集積される。

そういった事象の結果はまるで、イリイチが言っていた、目的と手段の逆転

のようでもある。

都市が集積しストックするのは手段であるはずだが、いつの間にかそれ自体

が目的となっている。

それはつまり、都市というものが、生活者としての場からテクストとしての

場へと変貌してしまっている、と言うことではないだろか?

都市は高層ビルに象徴されるように、”マン・ボックス”思考によってデ

ザインされている。

すなわち、都市という外装は、内部のその思考を表す。外部は内部を表す。

3丁目の夕日のような世界がどんなに美しく感じられ、そこでみられる陰の

部分に照準を合わせたとしても、過去へ戻ることは出来ない。

フェミニストシティは都市の風景を変えるという試みだ。

歩きやすい道路の設計、子供でも安心して歩ける街を設計することは大切な

ことである。

とはいえ、都市そのものを成り立たせている「進歩」という力能がどういっ

た操作支によって動いているのか?と問うことは事象の方向性を見誤らない

上でも大切なことだと思う。

都市はテクストである。そう言ったのは、ミシェルド・セルトーである。

そうであるならば、テクストを作る者ー都市を計画する者ーとそれを読まさ

れるものがいるはずだ。

が、そういった身振りとは一体、どのような振る舞いだろうか?

つまるところ、テクストが目の前にあるのならば、それを読み返し、あるい

はまた翻訳し、本来の意図から離れた方法で生活していくという”やり方”の

ことである。

レヴィ・ストロースのいうブリコラージュ。それは、ハーマンが言うところ

の、「部分」は「全体」を凌駕する。と言う思考方法によって成立する。

都市の道路や家や橋、商店街、民家などは都市を成り立たせる為の「部分」

ではない。

そうではなくて、部分はそれとして何か全体を凌駕する場所性を持つもだ。

都市計画や行政区画によって策定された機能以上のものを、部分は持ってい

る。

街路の豊穣さ、踊り場の過剰さはそれゆえ、それらを舞台として舞い、歌う

こととしてしつらえることだって可能ななずだ。

ビルディングが権力の象徴ならば、聳え立つビルを、成長する生き物として

捉え返す。

都市がどのような思想と思惑で形作られているのかを思考し、あえてその舞

台で思考し返すという身振りがそこを生きる人々が十全に生きる為の足場と

なる。

【都市・街路・建物の多孔性】

人間は複数の根をもつことを欲する。自分が自然なかたちでかかわる複数の環境(ミリュー)を介して・道徳的、知的・霊的な生の全体性なるものをうけとりたいと欲するのである。                  

根をもつこと シモーヌ・ヴェイユ

都市は主にストックとして利用されている。

アガンベンのいうところの、使用が所有によって落とし込められたこと。

そうではなくて、都市を使用するということ。

ビルディングを崇めることよりも、その使用に重きを置くこと。

都市の多機能性というものは、おそらく、学校を教育の現場で利用するのと

同時に災害時の避難場所として利用するということである。

が、多機能とは、都市の空間を所有し利用するという地平からは飛躍できて

いない。

それよりも、多孔性というものに気を配ろうと思うのだ。

ベンヤミンは「都市の肖像」の中でナポリの街の建築物の多孔性について述べている。

多孔性は、南国の職人の怠惰においてだけでなく、とりわけ即興への情熱においてもみられる。即興には空間と機会とがどのような場合にも保たれていなければならない。建物を住民は舞台として利用する。・・中略・・もっとも惨めな人間であろうとも、つぎのことをぼんやりと二重写しに知っていることによって、至上の存在なのだ。つまり、どのように腐敗していようとも、ナポリの街のけっして回帰することのない肖像のひとつに係わっていること、そして貧しさのなかで暇を楽しみ、大いなるパノラマを追いかけること。

都市の肖像(11) ヴァルター・ベンヤミン

かように、都市のビルや街路を舞台として利用する身振りは、いわば街路や

建物を都市全体の部分として捉えるやり方ではなく、一つの街路が都市全体

よりも豊穣であることを意味する。

木は森を構成する部分などではない、木はそれだけで、森全体よりも豊かで

ある。

そのように、都市を捉え直すことは、私たちが普段、部品として取り扱われ

ている身体を取り戻す為のレッスンになる。

そうして、休日の日に街へ出て歩いてみれば、何故我々が街を世界を、地球

という大地を踏みしめて歩くのか?という問いにぶち当たる。

それは、ヴェイユのいう「生の全体性」を受け取る為ではないだろうか?

チャトウィンは有名な著書「ソングライン」でオーストラリアのアボリジニ

ー達が「世界の創生」の時は「歩くこと」から始まったことを示し、放浪の

歩きへと我々を誘った。

そのことは、都市の街路に潜む、語られざる歴史や声を聞くことでもある。

そういった、中央集権的でもなく、実証主義でもない歴史や声を真摯に受け

止める作業を「歴史の再魔術化」としてその可能性を提示している。(ラディ

カル・オーラル・ヒストリー)

かように、都市の街路、建物、橋、階段、それぞれにはベンヤミンが述べる

ように、即興の舞台がまだあるのかもしれない。

最後に、先住民達の知恵から飛んで、日本のアーティストを紹介して終わろ

うと思う。

小林沙織

都市の多孔性とはいわば、自己の多孔性にも気づくと言うことでもある。

彼女の作品は聴いた音を視覚的な情景、色彩や形に「翻訳」して、それを五

線譜に描いていく。

「スコアドローイング」と彼女が呼ぶこの手法の作品「私の中の音の眺め」

は、外から入ってくる音をさまざまな感覚で人は受けとっていることを表現

している。多孔的な都市には多孔的な自己が創造されるのである。


私の中の音の眺め

【参考書籍】

ミシェル・ド・セルトー著:「日常的実践のポイエティーク(ちくま学芸文庫)」

セルトーはイエズス会士である。カルチャルスタディーズの文脈で語られることが多い本書だが、セルトーが何故、”日常的な実践”の中で民衆のやり方に注目したのか?その本当の真意を意識しながらも読むことをお勧めする。


イヴァン・イリイチ著:「コンヴィヴィアリティのための道具 (ちくま学芸文庫)」

同著が書かれたのは1972年。イリイチは産業主義社会のいわゆる「道具」がある一定の水準を超えると、当初目的としていた意図を超えて、手段それ自体に支配されることを解明した。第二の分水嶺である。重要視されるのは、規模の経済である。ある種の「道具」はそれを”誰が”使おうと破壊的である。それに対してイリイチは、今後コンヴィヴィアル(自立共生)な社会を構築するにあたって重要なのは、堕落することのない道具ー道具は常に悪用される運命にあるけれどもー悪用される事によっても堕落することのない基本構造を持った道具が要請されると述べている。すなわちそれは「よわきものとしての普段のことば」のことである。


シモーヌ・ヴェイユ著「根をもつこと(岩波文庫 上・下)」

ヴェイユは人は複数の根を持たねばならないと述べる。根づきと根こぎがある。ナチス・ドイツとフランスが戦争へ突入していく中、フランスへの亡命を深く後悔したヴェイユにとって、根づきと根こぎはまさに自らの人生を通して痛感した思想ではないかと思う。若き命を落とした最晩年に書かれた大著。キリスト教をベースに信仰について述べられているが、仏教・老子なども横断するその思想は深淵である。


ヴァルター・ベンヤミン著:「 都市の肖像(11)(晶文社)」

ベンヤミンは都市を歩く人であった。とりわけ、都市の表と裏のあいだ。その敷居からさまざまな見えざる声と物語を聞いていた。「敷居」の思考はアガンベンの「あいだ」の思考にもつながる。そしてまた、日本的には「能」の夢玄能。禅の「一即多・多即一」の融通無碍な在り方にも地続きである。


ブルース・チャトウィン (著)「ソングライン series on the move(英治出版)」

アボリジニーにとっては、世界を創造したのはカンガルードリーミングである。彼らは歩くことによって、道によって、生活の場を築く。精霊達の声を聞きに歩き、そこへ現れた道が世界や街を形づくる。計画や意思決定がまずあるのではない。「道」が紡ぎ出され、そこへ街路が建物が多孔的な要因で交差していく中で生活の場が生まれるのである。


レスリー・カーン著「フェミニスト・シティ(晶文社)」

あえて、べき論をするならば、変わるべきは「風景」なのだ。フェミニズム、右派フェミニズム、左派フェミニズム、ミソジニーまで、”イズム”的思考では対立のみが増長される。理論的であることを否定する訳ではない。だがしかし、そうであるならばジュディス・バトラーの「ジェンダー・トラブル」の徹底した理論を咀嚼してからであるべきた(賛否はあるけれども)。問題はイズムに走るとポジショントークになりがちなことである。そのように、互いの主張を交差している間にも苦しんでいる人はそのまま生活している。「風景」を変えようというやり方は実行的だし直接的に影響がある。トイレの配置だとか、公園の犯罪防止のための可視化などはわかりやすい。「風景」の味噌は、我々が他者に対して”どのように振る舞っているのか”という身振りも含まれる。あえていうならば、そういう場面が子供達への”ロールモデル”としての「風景」になるからだ。


保苅実著「ラディカル・オーラル・ヒストリー(岩波現代文庫)」
「ども」と言う、軽い感じで著者が語る場面から始まる本書だが、読後のラディカルな衝撃に驚いた。良書。別に彼の本の記事を書いたのでそちらも見てください。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?