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人生で1番大切なのは「余裕」だと教えてくれた倫理の先生

高校生の時ま~あ、よく授業で夢の中へと行っていた私。今となっては「もっとちゃんと聞いておけば良かった」なんて美しいことを言えるけれど、当時の私は(というか、概ね高校生はと信じている)眠くて眠くて仕方なかった。

中でも「倫理」は、その名はあくまで時間割表のなかであてがわれた仮名であって、私にとっては「睡眠」と同義語にしか見えなかった。

今でこそ人の生き方や、哲学について寝ても覚めても考えていることが好きだけれど、当時の私からしたらソクラテスもプラトンも、アンモナイトやトリケラトプスと同様にただ「過去のもの」で興味の対象ではなかった。

だけど、そんな倫理の授業で唯一起きていた時の先生の言葉が今でも忘れられない。

■人生で一番大切なのは「余裕」だよ、と。

その授業の主題がソクラテスだったかトリケラトプスだったのかはよく覚えていない。

けれど、おじいちゃんだった倫理の先生が黒板にそこそこ大きな字で

「余裕」

と書いたことは覚えている。そして、「人生で1番大切なのは、“余裕”だ」と言った。

当時はよく分からず、聞き流していた言葉

しかし、今こうして忘れられないのは事実と解釈では圧倒的に事実を並べた倫理の授業の中で(この学者は○○という説を唱えた等)、急に先生の解釈的な内容が印象強かったからだろう。

そして、今になって考える。
余裕。余裕とは何だろう。

心の余裕
身体的余裕
時間的余裕
経済的余裕
空間的余裕

こうして過去に自分が使ったことのある「余裕歴」を見ると思ったよりもバリエーションがある。倫理の先生は敢えてどの「余裕」が大切であるかを明示しなかった。

けれど、自己解釈に基づくと私は「心の余裕」を指していたのではないかな?と思う。理由は、身体的余裕は心と対極と位置付けられることもあるものの、その他の時間的余裕や経済的余裕は心の余裕が基盤となっている気がするからである。

■ついつい予定を詰め込んで心の余裕をなくす私

自分に対して「余裕がないなあ」と客観的に思う時(その余裕すらないことの方が多いが)基本的に予定を詰め込みすぎていることが多い。

身体を壊した今では「断る」だったり、「予定を詰めすぎない」という手段を自分の中に携えているが、就活の時期のカレンダーを見返すと多い時で1日に4~5個の面接をぶち込んでいた(という表現が最適な気がする)

その瞬間は全身全霊で生きていたから、その時の自分は全力で肯定してあげたい。そして目の前にいたら抱きしめてあげたいとは思うけれど、倫理の先生の言葉を借りるなら余裕とは無縁だった。

心の余裕がなかったから、誰かに優しくする余裕もなかった。さらに時間にも追われていたから1分でも面接に遅れないかと常に時間と戦っているような気分だった。

■意識的に“凪”の時間を作ること

誰かと会う予定から、アルバイトの予定など時間の終始がある予定は基本デジタルで管理している私。だが、その中に必ず終日「凪」の日をひと月に最低1日は組み込むようにしている。

凪、なんてかっこいい単語を使ってはいるが「予定入れない」と書かれた予定を入れているだけだ。もちろん、終日が難しい日もある。そんな時は携帯ではなく、時間の終始のない細々したその日のタスクを記入するアナログの日記兼予定表に“凪の時間を作る”とわざわざ書く。書かないとどうも私は予定を詰め込んで自分をパンクさせてしまいがちだ。

「凪」の時間は、結構いい。

どういいか、はきっと設けた個人によって変わるだろうけれど私の場合は心に隙間が出来る。隙間が出来ると、次の創作活動で何をしようか。どんな文章を描こうか。あるいは何かに応募してみようか、次に作る料理に必要な材料は何だろうか。

考える余裕が出てくる。そして少し休むことで、次の仕事が例えば始発開始でも、体力を温存して身体的余裕を確保できる。その身体的余裕が結果的に、長時間働ける経済的余裕にも繋がってくる。

2年半前の私が見たら少し驚く考え方と、歩み方だと思う。前進が全てだと思っていた過去と、敢えて立ち止まる方が結果的に心が健やかに過ごせると知った今。

倫理の先生の名前は忘れてしまったし、唯一覚えている顔を街中で会ったとしても話しかけることは決してない。

けれど「余裕を持つ」ことは今、私の心を確実に支えているし、焦ってしまう時に“それ、今日やったら余裕なくしてしまわない?”と問いかける糧になっている。

余裕を持つ。その為に「凪」を設ける。
あの時起きていてよかった。

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