妄想②

私の頭の中にはあらゆる妄想が毎瞬、展開している。
もちろんネガティブなものもあるが、勇気をくれたり、愛にほどけるような、そんなあたたかな妄想が、私のもとにやって来る。(私にとって、それらは自分で作っているつもりはなく、頭の中にふわりと流れて来る感覚なので、この表現を使う)。

幼い頃からうっすらと、自分だけが何もかも間違えているような感覚があった。

この世界を生き抜くためのカンペのような、そういう正解がどこかにあり、私以外のすべての人はその正解を知っていて、私だけ正解を知りそびれて生き延びてきてしまったような、そんな感覚。
そんな感覚を覚える理由の一つとして、私が小・中・高校をほぼほぼ学校に登校せずに過ごしてきた、というのもあるかもしれない。ここに関してはまた詳しくはいつか書こうと思う。
(果たして、学校では『この世界の正しい生き抜き方』みたいなものを教わるのであろうか…。そんな授業とか、ありましたか?)

朝起きて玄関の外に出た瞬間から、なにか間違えたような感覚があらわれる。視線の配り方、ご近所さんに「おはようございます」と声をかけるタイミング、雑談はこの内容をこのタイミングで話す、どれもこれも、私にとってはきっとテストのように正解があるもので、さも当然のように正解を探す。毎日は正解探しゲームである。ゲームといえば楽しそうだが、内実、そのゲームの中で私はいつも落ちこぼれた。間違い率は約100%だった。

私は自分の作り出した正解探しゲームに、毎日毎日間違えていた。
それでも健気に、というか必死に(?)、私は来る日も正解を探し続けた。挨拶のタイミングを間違えたような気がしたり、雑談の内容が突拍子もなさすぎて間違えたような気がしたり(全部『気がしている』だけなのだが)、ひとつひとつは些細なことなのだけど、毎日間違いの烙印を押されると(押すのは自分なのだが)人は簡単に自信をなくす。だんだん、私はこの世界に積極的に関わっていく気力がなくなっていた。
15歳くらいの頃に、うっすらと勘づいた。

『あれ、もしかして正解ってこの世界にないんじゃね?』

それは内心、ほぼほぼ間違いないものであると勘づいていた。
だけど物心ついた時から1人ひっそりと行っていたこのゲームをやめるタイミングもなく、止めてくれる人も(生活の中でゲームをしていると誰にも言わないから当たり前だが)いなく、ズルズルともう約15年程、正解探しの旅を続けた。

私は疲弊していた。
どういう風に疲弊していたかと言うと、自分が疲弊していることに気がつかないくらい、自ら心を閉ざし感受性を鈍らせていた。
だから日々の日課は何となくこなすことができるけど、心から笑うと言う感覚がよくわからなくなったり、逆によくわからないタイミングで涙が出たりするようになった。

そんな折、気がつけば付き人Aと生活を共にする日々が始まっていた(付き人Aとは、私の妄想の中に現れる、自分の後ろにいつもついてくれている戦士のような存在である、前述の妄想(URL)参照)。いつの間にやら、私の生活のそばには彼が空気のようにいたのである。
彼は私が困ったりこの世に居場所を見出せなくなった時、ピンチの時に一目散に駆けつけてくれる。というよりも、いつも本当はそばにいるのだけれどそれだとさすがに気が散るのでTPOに合わせて存在感を出したて来る感じ。そういう時に、大丈夫だよと伝えてくれたり、言葉にならないあたたかな愛のようなものを渡してくれて、私を安心させてくれる。
彼のお陰で、私は投げ出しそうな日々をどうにか繋げて生き延びることができた。
(ちなみにA、隠居の身らしく3人の中では一番自由な身なため、私のもとへの出現頻度が一番高い。見た目は爽やかな30歳前後の青年なのに、一体何者なのだろうと密かに思う)。

そんなAにつられるように、Bもいつの間にか私の付き人になった。
Bは私にとって、以前からちょっとした憧れの存在だったのだが、どういうわけだか私を気にかけているらしく、あれやこれやと世話を焼いて来る。Bから見て、私は相当危なっかしく1人にさせておけなかったらしい。
(しかし、Bは歌手活動や俳優業の本職で多忙のはずなのに、Aに近い頻度で私のもとにやってくる。体がいくつあるんだろう?)

そんなこんなで、私の生活はひそやかに賑やかさを増していった。

私の妄想を人に伝えてみたことがある。
あなたは思い込みが激しいからね、と軽くたしなめられ、そりゃそうだよなとその時はなんとなく納得したが、だけどうっすらとその言葉にモヤついてしまい頭から離れなくなった。

だって、私の世界ではそれらは思い込みでも何でもなく、紛れもない真実であったからだ。

ー現実と妄想と呼ばれる何かの境目はどこか。誰が決めた。そもそも、思い込みで、妄想で何が悪い。この世界を切り開き新しい扉を開ける瞬間には、必ず誰かの妄想があったはずだ。妄想は世界を開くための鍵だ。生きるための処世術だ。

…そこまで心の声を聞いて、「あ、これはCが伝えてくれている言葉だ」と気がついた。
Cは音楽家である。私は彼の曲を聴いている時、自分がひとりぼっちでいつも佇んでいる心の中の隠し部屋のようなところに、ふわっと遊びに来てくれるような、それくらい心の深い場所に寄り添ってくれているような感覚があった。彼の曲を聴くと感情の現し方がよくわからなくなっていた自分が、不思議と自然に音楽に乗せて踊ることができていた。彼の曲があることで、私は息ができていた。
Cは正解を求め続ける私に、「この世界に正解はなく、あえて言うならただあなたが感じた、その感覚がすべて正解なのだ」ということを教えてくれた。

そんなCが、私に話しかけて来る。

"伶、逃げろ"

ーどこまで?

"生きられる場所まで。"

ーそんなの、この世界にあるようには思えないよ。

"だったら、作れ。"

"この世界を切り開いていくのは、いつも、妄想だ。"

"お前の頭の中にある、自分が生きていくことができる世界。それを、この現実に出していくのだ。"

"ユーモアと、とびきりのアイデアで。"

不安がる私の頭を、Cが子犬でも撫でるかのように優しくくしゃっとした。

"大丈夫だ。全部、嘘だ。どうせ全部妄想だ。"

私はCはふわりと気配を消した。

私は家路に続く夜道を1人、逃げるような気持ちで必死に走り出した。
家の中には、私でいられる居場所がある。そのあたたかな居場所を、外の世界へ出してゆく。外の世界が生きられる気がしないなら、外の世界をすべて、自分の家にしてしまえ。
そんな声にならない約束を、その瞬間、私はCと交わした。

朝、携帯のアラームが鳴る。
部屋にある植物たちに挨拶を交わし、身支度を整え私は外の世界へと続く玄関の扉をそっと開ける。
昨日と何も変わらないように映る、いつもの現実だ。
現実の中にはノイズが多い。Aがいつもそばにいることも、Bからもらう優しさも、Cと交わした約束も、外の世界に出て自分の不甲斐なさを感じたりしていくうち、なかったもののようにかき消されてしまう。

だけど、自分がここにいることを世界から否定されたように思えた瞬間、私は思い出す。
見えないけど、いつも私の後ろにいてくれる3人のふざけた、だけど世界の誰よりも強い愛いっぱいの付き人たちのことを。それだけで、私は正気を取り戻せる。自分が自分自身に、はじめて落ち着くことができる。3人に命を救われていると、私は本気で思う。

ああ、ありがとう。あなた達の愛に応えられるように、私はこの世界を自分自身で、面白く塗り替えてゆくよ。いつも見守っていてね。

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