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それだけのこと

とてもきれいな女性とすれ違った。

先日、帰宅ラッシュの喧騒で満たされた駅で乗り換えていた時の出来事である。殺気さえ感じられることもある人々の慌ただしさを背景に、ただ一人だけが色彩を持っていた。緑なす黒髪は肩ほどの長さでまっすぐに切られ、人混みの中でひときわ目立つ。緩やかな弧を描くような口元に浮かべた桃色の微笑みは、すっきりとした顔立ちに溶け込んでいる。小さな胸をごまかすように羽織った紺色のカーディガンの小さな刺繍が鮮やかだった。


一瞬の間にそれだけの情報が瞳を通して私の中に飛び込んできた。仕事に疲れた心は、それほど渇いていたのかもしれない。通勤の風景にさえ潤いを求めてしまう。日々社内での議論に神経をすり減らし、社外とのやり取りで頭を抱える毎日。思いがけずかわいらしい人を見かければ、目を奪われるのは当然とも思えてくる。


しかし、実際にはそのような純粋な衝動ではなかった。


彼女は、私と親交のあった同い年の女性なのだった。大学二年の頃だったろうか、恋人がいると告げられ、その直前に私の口から飛び出してしまっていた恋はあえなく堕ちた。そんな素振りなど全く見せなかった彼女のその発言の真偽は、今となっては風の中である。

どこかで偶然耳にした彼女の自宅と勤務先の所在地からして、その駅で私と逆向きに乗り換えていることは以前から想定していたことではある。ただ、そのことについて期待も不安も感じていなかったし、気にするほどの感情もなかった。それだけに、その姿を見つけてしまった瞬間の心の動揺は自分自身でも予想外のことであった。

乗り換えた後の地下鉄の中で、ふっとため息をつく。自分の気持ちの整理がつかなかった。なぜ今更彼女のことをそれほど気にしてしまうのだろうか。とうに克服したはずの酸味が胸の中に広がってゆく。何とも言えぬ自責の念と、抑えられぬ気恥ずかしさで、思わず一人で笑ってしまった。


きっと彼女は私とすれ違ったことに気づいてはいなかっただろう。私も気づくべきではなかった。彼女のことなどすっかり忘れて、まっすぐ前に歩いていくこととしよう。万一言葉を交わす機会が再び訪れたときに、「もう何年も前から知っていたような気がする」と言いたいし、言わしめたい気もする。現在に至って未練の足跡は全く見当たらない。しかし、過去に負った悲恋の傷跡は微かに残っているようだ。


――とてもきれいな女性とすれ違った。それだけのことだ。

(文字数:1000字)

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