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vol.8 堕ちてみる

習慣づけるのは難しい。
もっと自分に満足したくて、新しいルールを作ろうとしても、その道のりはなかなかに険しい。

例えば、ゲーム。
僕は、この手の娯楽は「ほどほど」が一番だと思っている。のめり込みすぎず、ちょっとした時間を彩るためにサクッと活用できるように、なんとかルールを作れないものかともがいている。

幼い頃は、家の中に「ゲームは一日〇〇分」と明確なルールがあった。だけど、欲望のままに動くならいくらでもやっていたかったし、実際、コソコソやっていた。なぜ時間設定をするのか理解していなかったのだ。

でも今は、その意味が分かる。いろんな弊害が出てくるんだ。やりすぎると、目が疲れてきて、頭もぼーっとしてきて、集中力が落ちてきて、やりたかったことも手に着かなくなる。幸いなことに僕の場合、その症状が顕著だ。ウルトラマンのカラータイマーのようなもので、30分も画面を見続けたら目の奥がゴロゴロとしてくるように育ってしまった。最終的には「スティーブ・ジョブズが自身の子どもにタブレット端末を与えなかった」というエピソードが引き金となって、22歳にしてようやくゲームの時間を自制できるようになった。

この一連の流れ。すごくシンプルだけど、身をもって体験した痛みや苦しみがきっかけで新しいルールができることは、動機として申し分ない。

そして、その中で欠かせないステップが「堕ちてみる」ことだ。僕は、初めから自分を律してルールを作って行動できるほどの人間ではない。あえて一度欲望のままに行動して被った損を糧にしないと、ルールや習慣を作ることは出来ないのだ。

以前、こんなことがあった。ある音楽番組で期待のミュージカル俳優が特集されていた回を見た。ある俳優の方が、自身の音楽大学時代に「一度感情を全て出し切る」授業をしたと仰っていた。喜びの感情なら、クラスでフェスのように音楽をかけて思いっきりはしゃぐ。逆に哀しみの感情なら、人生で最も辛い経験を思い出して泣きじゃくる。あらゆる感情の100%を知らなければ、舞台上で20%も60%も表現できないのだと仰っていた。

こんな方と重ね合わせるのは本当におこがましいのだけれど、僕の「堕ちてみる」ことも、この理論に似ていると思った。感情のままに突き進んで、その先に何があるか、この身で確かめる。一度そこにたどり着いてしまえば、次から自制できるようになってくる。欲望の果てにどんな痛みや苦しみが待っているか知っているから。

人間関係もきっとそうだ。自分の価値観を相手に思い切りぶつけたり、独りよがりに接したりすれば、少なからず誰かを傷つけることもある。その積み重ねで、他人のことを少しずつ思いやれるようになっていくのかな。たくさんの人と思い思いに交流して、その中で自らのコミュニケーション方法が確立されていく。巷では多くの知識人が「これがコミュニケーションのいろはだ!」と説いているけれど、そんなものを真似するより案外こっちのほうが近道かもしれない。

こうして振り返ると、一番良くない状態は「ふわふわ」していることだと、心底感じる。どっちつかずに周りに流されながら行動している人間は、かなり中身がスカスカだ。本人もそれを自覚しているはず。誰かの価値観に倣ったルールはなかなか定着しない。それが本当に大切なルールだと信じ切れていないから。結果はどうであれ「えいやっ」と自分本位に動いた先には、その後の自分を支えるルールや価値観が待っている。身を滅ぼしてまで得た教訓は、結構強い。

、、、なんてことを思っていたら、昨日あたりから腰の痛みがぶり返してきた。僕の中でこれは「インナーマッスル鍛えなさいよ~」というサイン。体幹トレーニングをサボっていたのがばれた(、、、誰に?)。そろそろルーティンにしないとな。もうあんな思いするのはごめんだ。


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