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「全国戦没者之霊」の碑は以前金子鷗亭先生が揮毫しておられた。とても立派な楷書で、これは凄いなと思ったことを覚えている。

8月15日だから8月15日について何か書こうと思っていたのだが、昔のことを調べていたら、当たり前だが旧暦の8月15日のことで、現在では全部9月のことだった。

ということで「だからどうした感」しかでていないがもうこのまま書く。

さて、日本は聖徳太子以来仏教を大事にしていた。
十七条憲法にそうしろって書いてある。

その仏教の戒律に従って、殺生を戒める儀式として、旧暦の8月15日、捕獲した鳥や魚を野に放つ「放生会(ほうじょうえ)」が各地の寺院で行われていたそうだ。

世界には神様に殺した動物やヒトを生贄として差し出すような宗教もあるが、幸いにも日本はそうはならなかった。

そして日本人は聖徳太子以来、世界で唯一、一人の人間が異なる二つの宗教を同時に信仰している。所謂、神仏習合だ。

この凄さは一言では説明しにくい。
どうしても一言で言えというなら、嫌だ、と答える。

とにかく神仏習合であったから、677年に天武天皇から出された「放生の勅(ちょく=天皇の命令)」により、寺院だけでなく神社でも天変地異や祭礼の際に放生が行われるようになる。

奈良時代に入った720年、大和朝廷が九州平定の際に殺戮した隼人(はやと・はやひと=古代に九州南部に住んでいた人々)の鎮魂のために最初の放生会が宇佐神宮(大分県宇佐市)で催されている。

北の方でアイヌのことをゴチャゴチャ問題にする輩がいるが、九州の人間が熊襲のことを問題にしたなんてついぞ聞いたことが無い。どういうつもりだか分からないが、一体歴史上のどの政権に対しての文句が言いたくて、そしてそれを今の政権にどうしろと言うのだろう。そんなつもりはないのかもしれないが、金銭が目的だと勘繰られても仕方があるまい。

話が逸れた。

時の流れによって、放生会には収穫祭や感謝祭の意味が含まれてきて、春か秋に全国の寺院や神社で開催されるようになった。

福岡県出身の俺が推したい福岡市の筥崎(はこざき)八幡宮の放生会は、春の博多どんたく、夏の博多祇園山笠と並んで博多三大祭のひとつに数えられるほど、今も盛大な祭りだ。今年も9月12日~18日に予定されている。

千年以上続くこの神事は「万物の生命をいつくしみ、殺生を戒め、秋の実りに感謝する」をモットーにしていて、その起源は「合戦の間多く殺生すよろしく放生会を修すべし」という御神託によるものである。

京都の石清水八幡宮では、平安時代の貞観5(863)年、旧暦の8月15日に「石清水放生会」が始まった。藤原氏が権力掌握にあの手この手を尽くしていた時代で、伴善男の応天門の変がその3年後だ。

「八幡大神様が男山の裾を流れる放生川のほとりにお臨みになって生ける魚鳥を放ち「生きとし生けるもの」の平安と幸福を願う祭儀として始められました。」と石清水八幡宮のサイトに書いてある。

その後「石清水祭」と呼ばれりようになる。今年も9月15日に放生会は予定されているらしい。


まあ、こんな感じかな。

※写真は戦没者の慰霊祭 「全国戦没者之火霊」
この「全国戦没者之霊」の碑は、以前、金子鷗亭先生が揮毫しておられた。とても立派な楷書で、これは凄いなと思ったことを覚えている。

で、ちょっと調べてみると
1952年と1963年~1993年 金子鷗亭先生(故人)
1994年~1998年 不明 ←ここが知りたい
1999年~ 新井光風先生

ということで、現在は謙慎書道会会長の新井光風先生が務めておられるらしい。

金子先生は当時創玄書道会の会長で毎日新聞社系の展覧会で活動していらしたが、新井先生は読売新聞系。その辺色んな大人の事情があるんだろうな。

個人的には金子先生の楷書の方が好みだが、これは単に金子ファンだから贔屓もあるだろう。

これだけの大きな楷書を一発勝負で揮毫するのは、それはそれは大変なのだ。

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