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女らしい女というゲーム

男らしく、頼りがいのある男性がいいという女性がいる。

女らしく、おしとやかな女性がいいという男性がいる。


男らしさとは、なんだ?

女らしさとは、なんだ?


そんなものは全部思い込みに過ぎない。

自分の中に作られた鎖に過ぎない。

あるいは、常識として定着してしまった鎖に過ぎない。

その鎖を他人に向ける者は、結局、自分もらしさの鎖に縛られる。


私は、人種差別も、らしさの問題も、同じ種から成長していると思う。

自分や社会の中に、こうでなくてはならないという常識があって、それを無批判に受け入れたがために、常識から外れた人を攻撃する。

だけど、その常識が定義する範囲は、とても狭いものなんだ。

それに当てはまる人なんて実は一握りしかいないはずだ。

だから、みんな無理してるんだよ。


ごっこ遊びなんだ。

どれだけ男らしい男になれるかどうか。

どれだけ女らしい女になれるかどうか。


くだらないね。

こんな遊びに参加する必要はない。

異性としての、人間としての魅力はこんなゲームで決まるものじゃない。

その人が自分の本来の魅力を引き出しているとき。

また、それに気づいたとき。

そのとき、人間としても、異性としても最高に魅力的な状態になるんだ。

だけど、鎖に縛られている人はその魅力には気づかないかもしれない。

恐れられることもあるかもしれない。

それは仕方のないことなんだ。


そもそも、人間は異性愛者ばかりじゃない。

男と女という、二つの存在だけがあるものでもない。

もともと多様性が展開されたフィールドで、男は、女はこうあるべき、なんて意味不明な論理を持ち出すこと自体が間違っているんだ。


虚構にまみれた通念を、信じないでくれ。

モテるためのテクニックなんて、ゴミ箱に捨ててくれ。

別の存在になる努力なんて、もうやめてくれ。


俺はもう疲れたんだ。この人を幸せにしない、クソ同然のゲームに。

俺は一足先にログアウトする。

君も一緒に来ないか?


※追記
これも22歳の時に書いた文章だったかな?
当時の私は、大学でフェミニズムとかジェンダー論を研究することも考えていました。だから、こういうものを書いていたんですね。ドラマツルギーのような考え方も導入されているし、当時書いたものとしては、悪くないと思います。特に最後の部分なんかは、ジョン・レノンのワーキングクラスヒーローの形式を真似ていますね。

結局、講義をいくつか取っただけで、ジェンダー論の研究はしなかったんですが。文章中では否定していますが、自分がそういう研究に取り組んでも、こうあるべき、という理想論が先行してしまって、あまりよいものを作れる自信がなくなってしまったんですよね。加えて「個人的なことは政治的なこと」というスローガンが有名なように、学問よりも政治色のほうが強いからという理由もあります。

とはいえ、理想論というよりは、誰か異性に自分らしさを認めてほしかっただけなのかもしれません。当時の私には好意を寄せていた女性がいたのですが、彼女に受け入れてもらえることはありませんでした。その煮え切らないアンビバレントな感情を、フェミニズムやジェンダー論に向けることで、昇華させようとしていたのでしょう。もちろん、これ以前から今までこういうテーマに興味があるのは変わらないし、だからこそ熱意を向けていたわけですが。

ただ、今見返してみても、巷によくある恋愛テクニックをあれこれ身につけるよりも、自分らしくあることに忠実になったほうがよほどモテるという主張は、なかなかいい線いっていると思います。

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