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読みにくさについて

 ある記事を書こうとしていて、ある部分が長くなってきたので、そこだけを記事にすることにしました。以前なら多少長くなっても強引に記事にしたのですが、このところ体力が落ちているので、無理をせずに別の記事にします。


文章の特徴


 蓮實重彥の文章を読んでいて感じる特徴はいくつかありますが、なかでも私が目を惹かれるのは以下の四つです。

1)音声化できない文章の要素である約物の使用。

「立体、平面、空白(薄っぺらいもの・05)」&「「「かける」と「かける」(かける、かかる・03)」

 約物は音読不能(⇒「音読不能文について」)ですが、視覚的に目立つ要素なので、文章を読まずにその字面を眺めるだけでも、その有無が確認できます。蓮實の文章は多いほうだと思います。特に目立つのは圏点(傍点・脇点)です。

 蓮實の文章においては約物の役割がきわめて大切であり、約物を無視したり、看過することでは文意はつかめません。「人間椅子、「人間椅子」、『人間椅子』」でも引用した、二種類の鉤括弧を無視しては読めない以下の文章が好例です。

 すると、肉体を失って非人称化されたその眼差しは、空間を奥へと遠ざかりゆく運動によって「言葉と物」が親しく戯れうる絵画を鮮やかに限界づける。また、外部にとり残された盲目の顔は、画面の偽りの深さの奥まった一点に、まるでそれがおのれの顔の鈍い反映だとでもいいたげに誰も目にしたことのない不確かな影を配置し、それを中心とした構図を完成してしまう。われわれが読むことのできる書物は、「言葉と物」とがその上で遭遇すべき「机」としてのこの「絵画」にほかならない。『言葉と物』とは、まさしくそうした意味における「言葉と物」の、つまりは肖像画なのだ。そしてその不可視の中心に反映するのが、「知の考古学」と呼ばれる空白なのである。この輝ける空白。
(蓮實重彥「中心の欠落、そして空白の特権的二重化」「Ⅰ――絵画・図表・絵」「Ⅰ肖像画家の黒い欲望――ミシェル・フーコー『言葉と物』を読む」『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』(河出文庫)所収・p.25)

 また、センテンスが長いことも蓮實の文章の特徴です。約物の使用とセンテンスの長さのために、蓮實の文章が読みにくくなっているとも言えます。

 なお、引用にさいしては、『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』(河出文庫)を使用していますが、この著作は講談社文芸文庫でも読めます。


2)「AであってAではない」「AであってBである」という流れの展開。

「でありながら、ではなくなってしまう(好きな文章・01)」

 こうした展開――そのような流れの展開があると私が思いこんでいるのかもしれません――が蓮實重彥の文章を読みにくくしている最大の理由とみることもできそうです。

 いくつかの変奏がありますが、もっとも分かりやすいのは、たとえば「「自由」という名の「不自由」」といったフレーズでしょう。

 以下の引用箇所では、このような流れになる、いわば理由を説明している感があるという点で興味深いと思います。

 いま、ここに読まれようとしているのは、ある名付けがたい「不自由」をめぐる書物である。その名付けがたい「不自由」とは、読むこと﹅﹅﹅﹅、そして書くこと﹅﹅﹅﹅、さらには思考すること﹅﹅﹅﹅﹅﹅を介して誰もがごく日常的に体験している具体的な「不自由」である。だが、人は、一般に、それを「不自由」とは意識せず、むしろ「自由」に近い経験のように信じこんでいる。従ってこの書物の主題は、「自由」と「不自由」のとり違えにあるといいうるかもしれない。普遍化された錯覚の物語。その物語の説話論的な持続を担う言葉たちは、だから、むしろ積極的に「不自由」を模倣することになるだろう。ここに繰り拡げられようとしている文章は、それ故、ある種の読みにくさにおさまるほかはあるまい。この読みにくさ﹅﹅﹅﹅﹅は、選ばれた主題に忠実であろうとする言葉たちの運動から導きだされるものにほかならず、いささかも修辞学的な饒辞を気取るものではない。
(蓮實重彥「表層批評宣言に向けて」(『表層批評宣言』(ちくま文庫)所収・p.5)

 私が蓮實重彥の文章に感じる「AであってAではない」、または「AであってBである」という流れは、後述する「4)位置関係による意味づけをしない。」とかかわってくると私は考えています。

     *

 ところで、「AであってAではない」と「AであってBである」という場合の「A」と「B」は言葉であり文字です。

 言い換えると、「Aというもの」、「Aという言葉や文字で名指されているもの」、「Bというもの」、「Bという言葉や文字で名指されているもの」ではありません。

「A」も「B」もレッテルであり、名札なのです。名札が貼られている対象である「何か」ではない点が重要です。両者は別物なのです。名札とは、名前がぺらぺらした札(ふだ)であり、それ以上でもそれ以下でもありません。

 その名札だけを見て、それが「正しい」「適切である」「名は体をあらわしている」「名札はそれが貼られた「何か」と同じ・等価・そのものである」と言えるでしょうか? 

 そう決めることならできます。というか、そう決めたのです。

     *

 猫は猫にぜんぜん似ていないのに猫としてまかり通っている。

 いまのセンテンスは次のように言い換えられます。

 猫という文字は猫というものにぜんぜん似ていないのに、猫としてまかり通っている。
「猫という文字」は「猫というもの」にぜんぜん似ていないのに、猫としてまかり通っている。

「猫としてまかり通っている」とはみんなでそれを猫の代わりとして使うと決めたという意味にほかなりません。これは、ねこでもネコでもnekoでも、catでも、犬でも同じです。

「猫は猫にぜんぜん似ていないのに猫としてまかり通っている。」という文がもし読みにくいとすれば、それは猫という文字と猫というものを区別する習慣がないからだと考えられます。というか、それが普通であり人情というものです。

 私も普段は区別して生活していません。

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 名札は薄っぺらいがゆえに、記号化された情報を載せて効率的に運ぶ、つまり乗せるのに適しています。つまり、コスパがすこぶるいいのです。⇒「薄っぺらいものが目立つ場所(薄っぺらいもの・04)」

いずれにせよ、情報はさまざまな軽薄短小な形態の物(物体・物質)に変えて効率よく伝える(拡散・継承する)ことによって、その目的を果たしていると言えるでしょう。
(拙文「薄っぺらいものが目立つ場所(薄っぺらいもの・04)

 薄っぺらい名札を、やはり薄っぺらいにもかかわらずそこそこの厚みがあり、顔と表情に似ているという意味で人に多大なインパクトを与える仮面にたとえてもよろしいかと思います。

 名札にしろ仮面にしろ、名札であれば貼り付けたり、仮面であれば借りてきて仮に被ったものにすぎないのに、まるで貼られた「何か」や、被った「何か」の一部であるかのように錯覚するのが人情です。

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 次の文章には「錯覚」という言葉が使われています。蓮實の文章を読むさいにヒントとなりそうです。

 引用箇所では、「では……のか」、「つまり」、「では……のか」、「……ためである」、「それなら……のか」、「すなわち要約すれば……のだ」、「そして……ている」、「……のは、そんな……である」という具合に、前のフレーズを受ける形で畳みかけ、言い換え(変奏し)、噛んで含めるような流れになっています。いわば「教育者」として「教育」しているかのような言葉の身振りです。私はジル・ドゥルーズの言葉の身振りを思いだします。

 驚くべきこと﹅﹅﹅﹅﹅﹅が驚きを誘発する衝撃を失ってしまった世界、そこで人が出合うものは何か。頽廃である自分を忘れ、醜く薄められた頽廃である。では、薄められた頽廃は何によってもたらされるのか。混同視すること、つまり錯覚に固執することによってもたらされる。では、人はなぜ、錯覚に固執するのか。生き伸びるべく具体的な夢を放棄し、現象と折り合いをつけるためである。それなら、何と何とが混同視されるのか。「ある」ものと「ない」もの、「見える」ものと「見えない」もの、「密着」と「距離」、「作品」と「人間」、「言葉」と「精神」、すなわち要約すれば、「未知」と「既知」とがいたるところで混同視されているのだ。そして、その錯覚によって「批評」は始動する契機を奪われ続けている。「批評」はいつ始まるかという「問い」に、「批評」が「批評」と出会った瞬間からだと答えるシニシズムを装った傲岸さが口にされるのは、そんな頽廃の中にあってである。
(蓮實重彥「批評のメロドラマ」「Ⅲ 驚愕=嫉妬=眩暈」「言葉の夢と「批評」」(『表層批評宣言』(ちくま文庫)所収・pp.45-46)

「「ある」ものと「ない」もの、「見える」ものと「見えない」もの、「密着」と「距離」、「作品」と「人間」、「言葉」と「精神」、すなわち要約すれば、「未知」と「既知」とがいたるところで混同視されているのだ。」という部分がいちばん図式的で要約的だと思います。

 勝手な思いでしかありませんが、私は「猫という文字」と「猫というもの」を感じます。「猫という文字」は目の前にありますが、「猫というもの」は目の前にはないものであり、猫という文字の「起源・実体・実物」とされているものであり(「そのもの」ではありません)、「猫という文字」は「猫というもの」ではなく「文字」という目に見える物であるという意味で「知り得ないもの」である一方、「猫というもの」は誰もが頭の中で思い浮かべたり思い描くことができるという意味で「知っているもの」だと言える気がします。

 私の特技は誤解です。いま述べたことは誤読による誤解だという自信があります。

 なお、上の引用箇所でのキーワードは「錯覚」と「夢」だと私は思います。

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 以下は、同じく蓮實重彥の『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』からの引用です。

「エクリチュール」を遠ざける﹅﹅﹅﹅運動によって「エクリチュール」に近づいてゆく﹅﹅﹅﹅﹅﹅運動とは、具体的にはいかなるものか。それは、いうまでもなく精神分析的な主題である。あたかも夢におけるがごとく、遠ざける運動が近づいてゆく運動と矛盾なく共有しうるがごとき論理、それはしかし、ソシュール理論そのものの欠陥というよりは、「ロゴサントリスム」、「フォノサントリスム」の伝統に深く根ざした現象とみるべきだろう。」
(蓮實重彥「遠ざけること=近づくこと」「4――夢と欲望」「Ⅲ叙事詩の夢と欲望――ジャック・デリダ『グラマトロジーについて』を読む」『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』(河出文庫)所収・p.181)

「運動」と「矛盾」と「夢」が、この引用文のキーワードだと私は感じます。

 夢においてはそこで起こる(見える・感じられる)すべてが肯定されることが大切なイメージでしょう。夢では固定はなく、移ろう動きが、矛盾という現実界にはびこる名札とは無縁なままに「ある」「見える」「感じられる」と言えるでしょう。私は夢をそのようにとらえています。

 この文章にかぎらず、蓮實重彥が「夢」という言葉を使っている箇所は刺激的で読んでいてわくわくするのですが、その「夢」を自分のイメージする夢と重ねることができる時にもっともわくわくする気がします。

 蓮實の書く「夢」については、別の記事で書いてみたいです。

3)掛詞が使われない。

「「かける」と「かける」(かける、かかる・03)」

 掛詞については、拙文「「かける」と「かける」(かける、かかる・03)」で書きましたので、興味のある方はお読みください。

われわれが読むことのできる書物は、「言葉と物」とがその上で遭遇すべき「机」としてのこの「絵画」にほかならない。『言葉と物』とは、まさしくそうした意味における「言葉と物」の、つまりは肖像画なのだ。
(蓮實重彥「中心の欠落、そして空白の特権的二重化」「Ⅰ――絵画・図表・絵」「Ⅰ肖像画家の黒い欲望――ミシェル・フーコー『言葉と物』を読む」『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』(河出文庫)所収・p.25)

 掛詞とは言えませんが、1)で引用した文章にある「机」と「絵画」についても、もしそれらがそれぞれ「table」と「tableau」であるとすれば、そのことに触れてもいい気が私にはするのですが、「Ⅰ――絵画・図表・絵」の中では暗示はされても直接言及されていません。

 掛詞大好き人間であり、たとえば「タブロー(tableau)、テーブル(table)、タブラ(tabula)、タブラ・ラサ(tabula rasa)、タブレット(tablet)」というふうに、記事で何度も書いている私には物足りなく感じられます。⇒「表、目、面」「タブロー、テーブル、タブラ(『檸檬』を読む・02)」

 掛詞をしたり、同源の言葉を紹介しないまでも並置すらしない蓮實の文章を読んでいると、そうした言葉の不在が目立ってならないのです。こういうのを無い物ねだりと言うのでしょう。

 そもそも縦書きによる日本語の文章にアルファベットで表記した原語を挿入することも、蓮實はめったにしません。註や地の文でほんの短い原語があったり、地の文ではない表題の脇に著者名や著作名や短い引用文が原語で出てくる(たとえば『批評 あるいは仮死の祭典』(せりか書房))くらいです。

『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』では「Ⅲ叙事詩の夢と欲望――ジャック・デリダ『グラマトロジーについて』を読む」の p.172 に、やむを得ない感じで三箇所、ほぼ連続してフランス語の単語が出てきますが、これは例外的な字面のページと言えるでしょう。

 そのおかげで、ジャック・デリダによる「フランス語にあっては許しがたい綴字法の侵犯」である「畸型的造語」および「新語」が、フランス語での一種の掛詞であることが見て取れます。

4)位置関係による意味づけをしない。

 ここで言う位置関係とは、方向も含む意味での、上下、左右(「並置」というべきなのですけど)、裏表なのですが、この「位置関係による意味づけをしない」については、現在記事を書いているところです。

 その執筆中の記事のタイトルは、「sense・意味・方向、order・秩序・序列、space・空間・空白」とする予定でいます。触れた以上、説明します。

1)英語の sense には「意味」という意味と「方向」という意味がありますが、蓮實の文章では位置関係や方向をあらわす、「上」「下」や「左」「右」や「裏」「表」という言葉に、意味性や象徴性を担わせていないのではないか。
 この点については、『批評 あるいは仮死の祭典』(せりか書房))において、ジル・ドゥルーズの文章における「と」という接続詞についての蓮實の指摘と(おそらく)共感とかかわっている気がします。⇒「アンチ・アンチ」
 単純化すると、「AとB」というフレーズでの「と」という言葉は、前後の言葉やフレーズを並置しているだけで、両者の間には序列や優劣や主従や帰属といった関係を示唆しているわけではないということです。何らかの関係を認めるのは、言葉ではなく人の勝手であり都合である(つまり抽象であり観念でしかない、私の好きな言い方だとヒトの頭の中にしかない)とも言えるでしょう。
「そもそも縦書きによる日本語の文章にアルファベットで表記した原語を挿入することも、蓮實はめったにしません」とさきほど書きましたが、以下は珍しい文です。

 ではドゥルーズは、接続詞「と」《et》のいかなる点に着目しているのか。
(蓮實重彥『批評 あるいは仮死の祭典』(せりか書房)・p.64)

2)英語の order には「秩序」という意味と「序列」という意味がありますが、本来知覚や思考に秩序をもたらすためにある(整理するためにある)とも考えられる、位置関係や方向をあらわす「上」「下」や「左」「右」や「裏」「表」という言葉に、蓮實の文章では「序列」や「優劣」や「主従」や「帰属」という意味性を担わせていないのではないか。

3)英語の space には、立体と知覚されている現実界における「空間」という意味と、平面である人工の紙面や画面における「空白」(スペース)という意味があります。蓮實の文章では、ミシェル・フーコーの『言葉と物』を受ける形で、「空白」という言葉を、自然界(現実界)にはない捏造されたものとして使用しているのではないか。

 ご覧の通り、広義の掛詞を使って書いています。私は言葉を掛けることで取っ掛かりを作らないと文章が書けないために、常にこういう書き方をしているのです。

 だからこそ、「めったに」言葉を掛けない蓮實重彥の文章に惹かれるのかもしれません。

     *

 以上のような話をとりあえず﹅﹅﹅﹅﹅書くつもりでいます。あくまでも「とりあえず」ですので「見立て倒れ」になって(「見掛け倒れ」なのはもちろんのこと)、挫折するかもしれません(私は記事執筆での挫折が得意です)。なにしろ、私は行き当たりばったりで書く癖があるため、こればっかりは書いてみないことには分かりません。

 なお、この「sense・意味・方向、order・秩序・序列、space・空間・空白」という仮題の記事は、蓮實重彥の『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』と『「私小説」を読む』の読書感想文のつもりで書いています。

『「私小説」を読む』には、蓮實が文学作品を読むにあたって、上下、左右(「並置」というべきなのですけど)をどう処理しているかが具体的に書かれています。場合によっては『夏目漱石論』も参照したほうがいいのかもしれません。

     *

 というわけで、冒頭で触れた「ある記事」とはその見切り発車で執筆中の記事のことであり、「ある部分」というのが、本記事なのです。

 とにもかくにも、本記事を先に書き上げて投稿しましたので、体調と相談しながら、「sense・意味・方向、order・秩序・序列、space・空間・空白」を書いていこうと考えています。

 キーワードは、「二」という数字と、「選択」と「動き・運動・身振り」と「装う・演じる」になる気がしますが、これも書いてみないことには分かりません。

     *

 ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

 みなさんも、どうか体調を崩さないように気をつけてお過ごしください。

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