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見る「古井由吉」、聞く「古井由吉」(その1)

聞く「古井由吉」、見る「古井由吉」


 古井由吉の小説では、登場人物は聞いているときに生き生きとしていて、見ているときには戸惑っているような雰囲気があります。

 耳を傾けることで世界に溶けこむ、目を向けることで世界が異物に満ちたものに変貌する。そんな言い方が可能かもしれません。

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 私にとって「古井由吉」とは小説の言葉としてあります。それ以上でもそれ以下でもありません。かつて渋谷の路上で、すれ違った記憶はあるものの(たぶん「偽の記憶」でしょう、私は人違いをよくします)、会ったことも話したこともありません。

 それにもかかわらず、目の前にあるのは言葉であり文字であるはずなのに、古井の小説で聞いている身振りや見ている身振りが出てくるたびに、書いた人の息づかいのようなものを感じます。人間である古井由吉の息づかいです。

 そんなわけで、とりあえず、ここでは「聞く「古井由吉」」と「見る「古井由吉」」という分け方をしてみます。

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聞く「古井由吉」:ぞくぞく、わくわく。声と音が身体に入ってくる。自分が溶けていく。聞いている対象と自分が重なる。対象が染みこんで自分の一部と化す。世界と合体する。

見る「古井由吉」:ごつごつ、ぎくしゃく。事物の姿と形がそのままはっきりと見えるままで異物に変貌する。異物感。異和感(古井の好む表記です)・違和感。自分が解体されていく、崩壊していく感覚におちいる。

 図式的なまとめになりましたが、私にはそんな気がします。

失調がつづく


 古井由吉の小説では、冒頭やその近くに失調が出てきます。ほとんどの場合、その失調がつづいて、その失調のさなかで作品が進行していくという形を取るのです。

 失調とは、たとえば次のような形を取ります。

 発熱、うなされる、身体の不調、疲弊・疲労・消耗、渇き・脱水、入院・闘病、時間や方向感覚が失われる・迷う、誰かが亡くなる・葬式・法事、入眠・寝入り際・寝覚め・意識の混濁や喪失、旅

 古井の作品を一編でも読んだ方には、「ああ、あれだ」という具合に、ぴんとくると思います。それほど特徴的なのです。

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 さきほど紹介した「聞く「古井由吉」」と「見る「古井由吉」」という図式は、いま述べた失調と並行しながら作品の細部として書かれています。

 つまり、失調の結果として生じている状態とか事態だと取れないこともありません。たとえば、きょくどに疲れているから、または病後や病中だから、そうした兆候があらわれているという意味です。

 そうも取れるでしょう。そう取らない人もいるかもしれません。作品の取り方は人それぞれです。

 いずれにせよ、古井の作品の言葉の身振りは、読む人になんらかの身振りを誘発するだけの力をもっていると私は信じています。

聖耳、夜明けまで、夜すがら


「見る「古井由吉」」と「聞く「古井由吉」」は、古井のどの作品のなかでも出てきますが、どちらかが優勢だと感じる場合もあります。

「見る「古井由吉」」が優勢だと感じるのは『杳子』です。「見る「古井由吉」」の傾向が強い文章は読んでいて、じつにしんどいです。長時間読みつづけると身体に来ます。長時間ではなく長期間で読むのに適した作品かもしれません。

 文庫版では『杳子』といっしょにおさまっている『妻隠』は両方の傾向が顕著に(見て分かりやすく)見られ、『杳子』より読みやすいと感じています。

右は書き込みが多くなり破損もしてきたので、新しく左を買いました。

「聞く「古井由吉」」のほうが、読んでいて気持ちが楽です。『聖耳』という短編集は、タイトルに耳が二つ見えるように「聞く「古井由吉」」が優勢な作品集です。

『聖耳』では、冒頭の『夜明けまで』という短編が好きです。声と音だけの世界を言葉にしているのですが、凄味すら感じます。

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「夜明けまで」――古井らしさのよく出ているタイトルです。夜が明けるまでに、人は何ができるでしょう? 闇のなかで耳を傾けることでしょう。記憶の声や音にも耳を傾けることができると思います。

 もちろん、眠りに就いて夢を見ることも、見ないこともできるでしょう。いずれにせよ、目をつむれば闇の世界に入ります。耳はつむれません。

 古井の場合には、闇のなかで耳を傾けることで黄泉とつながり、そこでは異物ではない世界が見えます。それは外にある世界ではなく、中にある世界だからかもしれません。かなた、ここ、いつか、いまの境のない場なのです。

 闇、夜、黄泉、山、夢という連想が起きます。

 やみ、よる、よみ、やま、ゆめ。yami、yoru、yomi、yama、yume。音と声なのです。

 闇、夜、黄泉、山、夢は、視覚に訴えてきますが、やみ、よる、よみ、やま、ゆめは、耳に染み入ってきます。

 音と声があって、それだけをよすがに――「よすが・縁・因・便」「よすがら・夜すがら・よどおし、夜通し」――、世界とひとつになる。

 それが「聞く「古井由吉」」という言葉のイメージだと思います。

 音と声をよすがに思いえがく世界――、そこでは、記憶をたどって「見る」ものさえも親しげな表情を帯びるのです。

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 聖という漢字を漢和辞典でしらべると、「ひじり」という読みと意味とつながる「さとい」という意味があると書かれていて、「耳がさとい」や「耳ざとい」という言い回しを思いだします。

 聖耳――さとい耳というニュアンスでしょうか。たしかに、古井の文章には耳ざといことへの親しみと憧れを感じます。

 世界を相手にするには目よりも耳が頼りになるとか信用がおける。そこまで言えば言い過ぎでしょうが、目よりも耳を信頼していることがひしひしと伝わってくる気がします。

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 という文字で連想するのは、という文字です。叡の略体とされる睿には「さとい、あきらか」のほかに「ひじり」という訓義もあるそうです。

 睿については、「まばらにまだらに『杳子』を読む(11)」で触れていますので、よろしければお読みください。

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 今回は総論になりました。

 次回は具体的に作品を読みながら、「聞く「古井由吉」」と「見る「古井由吉」に触れてみます。

(つづく)

※ヘッダーの写真はもときさんからお借りしました。



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