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見る「古井由吉」、聞く「古井由吉」(その2)


Ⅰ 一目瞭然、見てぱっと分かる


 前回の「見る「古井由吉」、聞く「古井由吉」(その1)」では、以下の図式的な分け方をしてみました。

聞く「古井由吉」:ぞくぞく、わくわく。声と音が身体に入ってくる。自分が溶けていく。聞いている対象と自分が重なる。対象が染みこんで自分の一部と化す。世界と合体する。

見る「古井由吉」:ごつごつ、ぎくしゃく。事物の姿と形がそのままはっきりと見えるままで異物に変貌する。異物感。異和感(古井の好む表記です)・違和感。自分が解体されていく、崩壊していく感覚におちいる。

 今回は、両方の傾向が分かりやすく書かれている『妻隠』(つまごみ)を取りあげます。

 一目瞭然なのです。誇張ではなく、「見る「古井由吉」」と「聞く「古井由吉」」が、それぞれ見落とすのが難しいくらいに目に付く作品だと言えます。

 まず、「Ⅱ 「目」「明・暗」「見」を目で見る」では、「見る「古井由吉」」が優勢なページを選び、その傾向をしめす言葉とフレーズを箇条書きにし、それに私のコメントが加えてあります。

 同様に、次の「Ⅲ 「耳」「音・声」「聞」を目で見る」では、「聞く「古井由吉」」が顕著なページから、その傾向をしめす文字と文字列を取りあげ、コメントが加えてあります。

 では、じっさいに見てみましょう。

Ⅱ 「目」「明・暗」「見」を目で見る


 以下に挙げるページの数字は、どれも『妻隠』(古井由吉著・新潮文庫『杳子・妻隠』所収)のものです。

 この記事では、ページをしめす数字が出てきます。古井由吉著『杳子・妻隠』(新潮文庫)を参照しながら読むのをお勧めいたします。

*p.200(13字×16行)

・目 5 (※「目」という文字が5箇所出てくるという意味で、以下同様です)
・見 6
・のぞきこんでいた 1
・姿、眉をひそめて 2

 上のメモでは、p.120に見られる「見る」行為に関連する文字と文字列が挙げてあります。

 13字×16行のページに「目」という文字が5つ、「見」が6つあるとかなり目立ちます。このことだけでも、このページには「見る「古井由吉」」が優勢であるのが分かります。一目瞭然なのです。

 それにしても、漢字の存在感はすごいです。目を細めても、漢字は黒々としています。

「のぞきこんでいた」は「見る」の一種ですが、漢字で書かれていないと迫力に欠けます。ここで古井は、「覗」という漢字の使用を避けているわけです。なぜ漢字を選ばなかったのだろうと考えることが、私の楽しみになっています。

「姿、眉をひそめて」があるのは、どちらも見なければ分からないものだからです。

 このように文字に注目していると、「目」と「見」という漢字の作りに目を注ぐことができます。たとえば、「見」という漢字のなかに「目」という漢字があるのに気づくのです。こういう一見当たり前のことに敏感でありたいと思っています。

 小説を読むとき、目の前にあるのは文字だけ。文字だけが頼りです。

「眉」にも「目」がありますね。こうした事実をあらためて目の当たりにすると、はっとします。「見る」には「見逃す」や「見損じる」がいかに多いことか。

*「見る「古井由吉」」がよく感じ取れる部分

 p.200の4行目の「とくにこの一週間」から、p.201の1行目の「彼はしばらく目を離せなかかった」という部分を読むと、「見る「古井由吉」」がよく感じ取れます。

「事物の姿と形がそのままはっきりと見えるままで異物に変貌する。異物感。異和感(古井の好む表記です)・違和感。」――

 この記事の冒頭で紹介した「見る「古井由吉」」の雰囲気が分かりやすい形で出ています。本をお持ちの方は、ぜひその部分だけでも味わってみてください。

 この部分を含め、「見る「古井由吉」」を文章のなかで見る作業は、次回におこなう予定です。今回は、各ページから抜きだした文字と文字列のメモを見るだけで、作業を進めていきます。

 それだけでも「見る「古井由吉」」が体感できると思います。

*p.201

・目 2
・見 2
・うかがう 1
・明けっぱなし、明けて 2
・西日、日なた、蔭、姿 4
・声2、返事 4

 このページでは、視覚に関する言葉(目、見、うかがう)と、視覚でしか感知できないものを指す言葉(明、日、蔭、姿)が見えます。

「うかがう」は「窺う」でしょうが、「カーテンのむこうの気配を一瞬うかがう御用聞きの気持ちを」という部分なので、平仮名で表記したのかもしれません。「気配を一瞬窺う御用聞きの気持ちを」にすると、漢字がうるさく感じられます。古井は「窺う」を捨てて「うかがう」を選んだのでしょう。

「明ける」は古井が頻用する表記で、「開ける」とも書けるところで、あえて「明ける」と書いています。漢字の作りを見ると、「日」+「月」で「明」なのですね。おもしろいです。

 このページでは、聴覚に関する言葉(声、返事)もありますが、全体では視覚の優勢な描写が続いています。

*p.202

・視線 2
・目 4
・西日、陽 2
・白 1
・確かめ 2
・のぞき 1
・姿勢 1
・映 1

 ここでは「白」に注目したいです。色は、まさに視覚でとらえるものですから、色が出てきたときには、視覚が働いている証拠になります。

「視線」という言葉は、目の動きが感じられる言葉です。長く引用すると、「彼の視線を胸のあたりに勝手につきまとわせて」、「妻の視線の動きを、彼は引きこまれるような気持ちで追っていた」なのですが、「目」や「見」だけでは言い表せない目の動きが表現できます。

 たとえば、「目が合う」と「視線が合う」をくらべると、目という点が、線としてあらわれてくる気がします。視「線」だから当たり前なのですが、さらに「視線をからませる」とすると、その線の動きがずっと複雑になります。

*p.203

・目 4 
・視線 2
・見 3
・眺めて 1
・まなざし 1
・うかがう、うかがって 2
・顔 1
・赤 1

「眺」にも「目」が見えます。

「まなざし」は和語だから、やさしい響きをしているし、平仮名で見てもやさしい表情に感じます。「眼差し・目差し・目指し・眼指し」と漢字の表記はいろいろですが、「目・眼が指す・差す」ということなのですね。平仮名と漢字とでは印象がずいぶん違います。

「赤」は、上で触れた「明」と同源らしいのですが、古井にとっては特別な文字だという気がしてなりません。興味のある方は、拙文「『杳子』で迷う」「明日を待つ」で詳しく触れておきましたので、よろしければお読みください。

*「明」と「赤」の反復と変奏

 なお、『妻隠』では、とても興味深い形で「明」(明日・明ける)と「赤」が出てくる箇所があります。

 p.227の後半からはじまる段落なのですが、「薄赤く」と「明日」が出るのを、まるで切っ掛けのようにして、p.228で「明るく」「明けはなして」「明けて」「明日」が見られ、p.229で「明かり」、そしてなんと4行に「赤く染まる」「赤い光」「赤い光」「赤銅色」と赤が連続してあらわれるのです。

 夕方に夕陽が出る時刻の描写ですから、赤が出るのは当たり前と言えば当たり前ですが、文章のなかで集中した「赤」という文字を目の当たりにすると、あっけにとられます。

 いっぽう、『杳子』の最終章「八」でも、いま述べた『妻隠』におけるテーマとイメージの展開に匹敵する、興味深い反復と変奏が見られます。

 Sと杳子が赤いイチゴと白いクリームのケーキを食べるあたりから、赤と白のイメージが、「赤」(唇)と「白」(杳子の顔)へと変奏され、p.169の後半から「西日」「赤い光」「明日」を切っ掛けにして、p.169の最後の一行からはじまる段落に突入し、p.170の「赤をました秋の陽」「赤くあぶられて」で頂点に達するかの印象を受けます。

『杳子』のこの場面も夕刻なのですが、こうした書き方と言葉の選び方は古井の癖だとも言えそうです。とりわけ、『杳子』の「八」では「反復」と「癖」そのものがテーマになっているだけに、私はこの章を読むたびに、溜息をついたり考えこまないではいられないのです。

 ぞくぞくわくわくします。

「明ける」という動作と「赤」という色が頻出するのですから、いま述べた場面では視覚的な描写が優勢であり、「見る「古井由吉」」の筆づかいが感じられるのは言うまでもありません。

*p.206

・目 5
・見 3
・眺めて2、睨み 3
・視界2、明、暗、人影、様子、白、まぶしく、炎天下2 10
・立って3、立つ、左手、ひろがり 6

 明暗、姿・形、色、光――どれもが視覚的に、つまり目で見て感知する物や事や現象を指す言葉です。

 ここでは特に「立って、立つ、左手、ひろがり」に注目してください。こうした言葉は、空間のなかで意味を持つものです。「立つ」という動作が目で見るものであることとはイメージしやすいですが、左右・東西南北・上下・広い狭いも空間としてとらえるものです。

「視界」が2回出ていることに注目したいです。「視線」がそれぞれ2回出ていたp.202とp.203と比較すると、点と線から面と空間へと描写が変化しています。目の前の局所的な描写が、風景の描写へと変わっているのです。

 この箇所は「思わず彼は目をつぶった」ではじまる段落なのですが、小説における回想のなかでの視覚(視覚的な記憶)には「ひろがり」がともなうのかもしれません。

 勝手なことばかり書いていますが、ぜひご自分の本で確認なさってください。

 以上、文字と文字列に見落としがあったら、ごめんなさい。

*目を細めると見えるもの

 ここでもう一度、画面をスクロールやスライドして、p.206のメモをご覧ください。ただし、目を細めて見てください。

 漢字が目につくと思います。小説だけでなく、どんなジャンルでもかまいません。お手元の本(新聞や雑誌でもいいです)をぱっと開いて、目に飛びこんでくるのは漢字ではないでしょうか。

 漢字の存在感は半端ではありません。印刷された文章では目を細めても、漢字は濃いし黒々としています。その場合の漢字は、文字と言うよりも模様です。

 ある特定の漢字や漢字の文字列を探すのは比較的容易ですが、ひらがなになると目に入りにくいです。

 ひらがな、平仮名――漢字のほうが目立ちます。

     *

 個人差はあるでしょうが、私の場合には、ひらがなとカタカナでは、カタカナのほうが目につきます。カタカナには異物感があるのです。

 かたかな、カタカナ、片仮名――。

 カタカナの異物感は漢字の異物感とは異なります。漢字は意味がダイレクトに入ってきますが、カタカナはゴチャゴチャした音の感じがします。ちゃんと読まないうちはノイズに近いのです。

 私にはそう感じられると言うべきでしょう。語感や字面の感じ方は人それぞれですから。

Ⅲ 「耳」「音・声」「聞」を目で見る


 今度は、「聞く「古井由吉」」が顕著なページから、その傾向をしめす言葉とフレーズを取りあげ、コメントを加えていきます。

*p.175

・耳 1
・音 5
・声 4
・話、歌 2
・騒、賑、騒々、罵 4
・ガランガラン、トラック、エンジン、ヒェーッ、テレビ2、(音が)ボリューム 7

 このページでは、「音」と「声」という漢字が目につきます。ページの後半から一挙に出てくるのです。

 聴覚的にとらえられる「話、歌、騒、賑、騒々、罵」という漢字も合わせると、まさに賑やかで騒々しいのです。

「ガランガラン、トラック、エンジン、ヒェーッ、テレビ、ボリューム」という、オノマトペを含むカタカナの文字列を目にしているだけでも、騒々しさが想像できるのではないでしょうか。 

*p.176

・聞 1 
・声 6
・音、音量 3
・話、言い争う、賑、歓談、喧嘩、叫、鼻歌、合唱、騒2 8
・どなり合って、どやどや、ドタンバタン、取組み合い2、ヒューズが飛んだ 6
・暗がり 1
・顔 1
・のぞきこんだ 1

 p.175では「歌」は2回出てきただけですが、このページでは「声、話、言い争う、賑、歓談、喧嘩、叫、鼻歌、合唱、騒」というふうに、声が話や喧嘩や歌や合唱にまでエスカレートしてくるさまが、文字列の字面からうかがわれると思います。

  p.175が音の洪水と氾濫なら、p.176は声の饗宴・競演・共演・協演・狂宴という様相を呈します。

*p.180

・声 5
・怒鳴、調子2、呼2、返事2、抗議、喉、唸、発し、言、吐、繰返し 14
・ウウッ2、わんわんと、がらりとあいて 4
・明かり、あかあかと、灯って、暗がり2 5

 このページで注目したいのは、「声、調子、喉、唸、発し、吐、繰返し、ウウッ」です。

*ヒロシという「巫女」的な少年

 ヒロシという、この小説で重要な脇役が発する声が、声から唸りへ、唸りから「唸り以上のもの」へと変化していきます。このヒロシという少年に、私は「巫女(みこ)」の素質を感じます。

 このあたりのことは、「明日を待つ」で書きましたので、興味のある方はお読みください。

 なお、「ヒロシ」がカタカナで表記されているのは、視点的人物である寿夫も、そしてその妻の礼子も単に知らないからなのでしょうが、カタカナで書かれることによる異物性を無視しないわけにはいきません。

 謎めいた人物、神がかりの人物、大人と子どもの境の存在、虐(しいた)げられる側の人間――こうした要素が、ヒロシを巫(かんなぎ・神なぎ・神をなだめる)のイメージに近づけている気がします。「かんなぎ」は巫女の役目です。

 ヒロシ、Hiroshi。漢字の表記がなくて、「ヒロシ」と「音」で記されている存在のヒロシは、見ているとぎこちなくて不可解な少年であるのに、聞いていると生き生きとした魅力的な人物に転じます。ヒロシは見るよりも聞く対象として輝く人物なのです。

*p.181

・言、声、濁声、発声、言葉 5
・耳を済2、聞 4 
・音 2
・呼、叫2、喘2、響、笑2、啖呵、詠嘆、東北なまり、なまり、長台詞、喉、吠 15
・ドサリ、めりめりと破れ、転げまわる、しいんと、気配、静かさ、取組み合い、静まり、ゲラゲラと 9
・影2、明かり2、暗がり、見て、動いて、照らされ、見えた、目障り 10

 上の文字列の漢字を目で追っていくだけで、情景が浮かんでくるようです。文字列の字面からうかがわれるように、このページで起きている出来事は騒がしく荒っぽいのです。

*小説では音と声を「見せる」必要がある

「ドサリ、めりめりと破れ、転げまわる、しいんと、気配、静かさ、取組み合い、静まり、ゲラゲラと」――

 こうした漢字やカタカナや平仮名は、上で述べた騒がしく荒っぽい音や声や叫びを文字として伝えています。あくまでも文字であり、視覚に訴えている点がとても大切です。

 文字で書かれた作品では、音と声を「聞かせる」わけにはいきません。音と声を「見せる」必要があります。それが小説です。文字からなる文章の宿命なのです。

 その文字の宿命に付き合い寄り添うことが「読む」なのかもしれません。文字に付き合い寄り添うことで「読む」は「詠む」に転じる気がします。能動的に「読む」作業を実践するという意味です。

     *

 p.181で見られる「詠嘆、東北なまり、なまり、長台詞、喉、吠」という文字列が、さきほど述べたヒロシの「巫女性」をさらに濃くしていくように私には思えます。訛りのある長台詞が「祝詞(のりと)」を連想させると言えば、罰があたりそうですけど、そう感じます。

 祝詞では、言葉の意味だけでなく(あるいは意味よりも)、音声の長短・強弱・上下というリズムが大きな役割を果たしていると聞きます。超越した存在との交流においては、言葉の意味はもはや意味をなさないのかもしれません。

 大げさに聞こえるかもしれませんが、ヒロシを描写する古井由吉の筆致に、いま述べたことをひしひしと感じます。

 この『妻隠』の後に、古井は民俗学的色彩の濃い作品――たとえば『聖』(ひじり)と『栖』(すみか)です――を発表していきますが、ヒロシの描かれ方を見ていると、そうした作家としての古井の展開が分かる気がします。

*「聞く「古井由吉」」がよく感じ取れる部分

 なお、p.181の5行目の「アパートの前に立ち止まって見ていると」から、p.182の6行目の「いつまでも目の隅で笑っていた」という部分を読むと、「聞く「古井由吉」」がよく感じ取れると思います。

「声と音が身体に入ってくる。自分が溶けていく。聞いている対象と自分が重なる。対象が染みこんで自分の一部と化す。」――

 この記事の冒頭で紹介した「聞く「古井由吉」」の雰囲気が分かりやすい形で出ています。「見る」から「聞く」へと移行し「見る」にもどるという作りになっているため、「見る」と「聞く」が対比されて、なかなか興味深いです。

 本をお持ちの方は、ぜひその部分だけでも味わってみてください。

 この部分を含め、「聞く「古井由吉」」を文章のなかで見る作業は、次回におこなう予定です。

Ⅳ 反復と変奏を目で見る


 古井の文章で目につくのは、なんと言っても、反復(くり返し)と変奏(少し変えて反復する)という言葉の身振りです。

 これはセンテンスのレベルでも、文章のレベルでも、作品間のレベルでも、顕著に見られる特徴だと言えます。

 つまり、言葉の反復や変奏、そしてテーマや風景や状況の反復と変奏という形であらわれます。

 大切なことは、音楽と違い、小説では反復と変奏を目で見るしかできないという事実です。じつは、これは歌でも言えることなのです。

 目に見えない反復と変奏については、拙文「見えない反復、見える反復(反復とずれ・02)」のなかで具体例を挙げて書いているので、よろしければお読み願います。

     *

 ここでは、歌や音楽ではなく、小説における反復のある側面について触れた箇所を、拙文「まばらにまだらに『杳子』を読む(08)」から、以下に引用します。

     *

(※引用はここからです。)

「くり返す」をくり返す、「反復」を反復する。

「まばらにまだらに『杳子』を読む(07)」で触れましたが、『杳子』の最終章では、「くりかえす」や「繰り返す」や「反復」という言葉とそのバリエーションが何度も出てくるのですが、これも意外と気づかないというか見えないものです。

 あれだけくり返されると呪術的な効果を感じます。おまじない、お呪い、呪い、のろい、詛い、呪詛――みたいに。

 たしかに古井由吉の文章には言葉やイメージの反復が多く、まともに付きあっていると既視感の洪水に襲われ、目まいや目眩や目舞いどころか眩暈におちいることがあります。それが魅力なのです。

それにそういう癖の反復は、生活のほんの一部じゃないか。どんなに反復の中に閉じこめられているように見えても、外の世界がたえす違ったやり方で交渉を求めてくるから、いずれ臨機応変に反復を破っているものさ。
(古井由吉『杳子』(『杳子・妻隠』所収・新潮文庫・pp.163-164))

ケーキと紅茶が杳子の憎む反復の中でもっとも屈辱的な反復を、物を食べる時の癖の反復をほのめかして、杳子の前に嘲弄ちょうろう的な表情で並んでいた。
(p.164)

 こういうくり返しを、言葉の魔術とか魔法という言葉で呼んでお茶を濁したり、強迫なんていう、もっともらしい言葉で片づけたくありません。そういう私は、さきほど呪術的な効果なんて言葉に置き換えてしまいましたが。

 いずれにせよ、くり返しは意外と気づかないというか見えないものだという気がします。引用箇所は、この作品のなかでは重要な意味をもつと思います。

(※引用はここまで、です。)

Ⅴ 言葉は視覚化する


 ここまでの大見出しを振りかえってみましょう。

 一目瞭然、見てぱっと分かる
 「目」「明暗」「見」を目で見る
 「耳」「声」「聞」を目で見る
 反復と変奏を目で見る

 このように、「見る」が反復されていますが、意識してのことです。とても大切なことなのでくり返したのです。

 小説という文字からなる言語作品では、聴覚的なイメージは文字を目で見るという形でしか確認できません。文字を視覚でしかとらえられない以上、これは致し方ない限界だと言えるでしょう。もちろん、音読や朗読された作品であるオーディオブックは別として。

 言語(とりわけ文字)は聴覚を視覚的な形とイメージに置き換えている――。これは小説の宿命でもあります。あまりにも当たり前なので忘れられがちな、この点に敏感でありたいと思います。

 もちろん、聴覚だけでなく、嗅覚、味覚・食感、触覚・触感、気配といった知覚も視覚に置き換えなければなりません。

     *

 小説ではすべてが文字化されなければならない――。

 これも、言われてみれば当たり前のことなのですが、文字からなる小説を読んでいるさいには、つい忘れてしまいます。

 そんなわけで、今回の記事では、特定のページの文字と文字列だけを眺めてもらうようにも工夫しました。

     *

 小説ではすべてが文字化されなければならない――。

 こんなことを考えていては小説を楽しめるわけがありません。

 人が小説を読むのは、楽しむためであり、いま述べた失念や忘却に気づくためとか、さらに言うなら、人が忘れがちな錯覚を明らかにするためでは断じてありません。

 このような記事を書いている私ですが、いちいち「これは視覚化された聴覚だな、うむうむ」とか、「ほうほう、この食べる場面の触感はうまく見える化されている」なんて考えながら、小説を読んではいません。

     *

 ここで、一つ付け加えたいことがあります。

「文字を読む行為」と「文字を読む行為をさらに文字で記述する行為」(たとえば、いまここで私がやっていることです)は大きく隔たっていると思います。

 それぞれにおいて異なった場(時空)にいる自分を感じるのです。

 説明しにくいのですが、このことについて、いつか記事を書きたいと思っています。

     *

 話を少し変えます。

 小説ではすべてが文字化されなければならない、うまく文字にしないと読者に伝わらないということは、小説や詩を書く人がつねに心がけておいてもいいことではないかと思います。

 私も小説を書くことがありますが、「すべてはうまく文字化しなければ伝わらない」という当たり前のことを肝に銘じています。

 さもないと、すぐに忘れるのです。忘れて、ついつい、その時の気分とか成り行きまかせに書いてしまうのです。これは恐ろしい癖だと言わなければなりません。

     *

 今回は、あえて文字の切れ端(文字と文字列)だけを羅列しました。

 文字や文字列を断片として目で見るだけで、目で見ている場面と、耳で聞いている場面が、断片的に、あるいは断片がつながった風景・光景として、目に浮かんできたのではないでしょうか。

 目に浮かぶ――つまり頭や心に浮かぶものは視覚的なものであるようです。

 生きていない文字、紙の上のインクの染みであったり、液晶画面上の画素の集まりであったりする、生きていない物(物質)である文字が、人に「見ている」「聞いている」ような気分を起こすのです。

 不思議です。文字のイメージを喚起する力に驚かずにはいられません。

     *

 次回は、文字の断片(文字と文字列)だけではなく、文章のなかで、「見る「古井由吉」」と「聞く「古井由吉」」を鑑賞してみたいと思います。

 文庫をお持ちの方は、上のメモをヒントにご自分で『妻隠』をお読みになってみてはいかがでしょう。上のメモにあるページだけでもかまいません。

 新たな発見があればうれしいです。私も引きつづき読んでみるつもりです。読書に「もうこれでいい」はありませんね。「まだまだ」「もっともっと」しかありません。

(つづく)

※ヘッダーの写真はもときさんからお借りしました。

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