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言葉は約物(言葉は魔法・02)

 言葉は魔法。

「言葉は魔法。」
「言葉は魔法」
『言葉は魔法』
『言葉は魔法。』
『言葉は魔法……。』
「『言葉は魔法』という魔法」
(言葉は魔法)
(言葉は魔法。)
《言葉は魔法》
【言葉は魔法】
 “言葉は魔法”
<言葉は魔法>

     *

 こうやって並べると、それぞれずいぶん印象が違うなあと思います。あくまでも個人の感想ですけど。それぞれの違いについて考えると、いろいろな状況が頭に浮かびます。

 たとえば、それぞれの括弧には何らかの意味があって、どういう状況で、あるいはどういう意図で使われるのだろう、なんて思いをめぐらすわけです。

 こういうものは文章の中で意味を成すわけですから、上のように単独で並べるとわけが分からなくなるのは当然ですね。混乱させて、ごめんなさい。

     *

 一般的には「言葉は魔法。」とか「言葉は魔法」と記述される時には、それが会話の一部、あるいは独白であるということは、みなさんがご存じのとおりです。そういう約束事があるわけです。

 また、『言葉は魔法』とか「言葉は魔法」と書いて、それが書名(雑誌や新聞も含みます)や作品名を表す場合もありますね。

 もっとも、こういう約束事を故意に守らなかったり、無視したり、知らない人もいます。それはそれで当然のことです。珍しい現象ではありません。こうしたルールには私も詳しくはないし、結果として守らないこともあるでしょう。

 べつに恥じることではありません。知らなくてもちゃんと生きていけます。ルールは破るためにあるのです。いや、これは言い過ぎですね。

     *

「」や『』は意味を持つ記号であり印ですから、一種の言葉とか、広い意味での言葉だと考えてもよろしいかと思います。

 言葉は魔法。

 言葉は約束事。
 言葉はルール。
 言葉は決まり。
 「」や『』は言葉。

     *

 もっと、いじってみましょう。

――言葉は魔法。
 言葉は魔法――。
 言葉は魔法……。
 ※言葉は魔法。
 言葉は、魔法。
 言葉は魔法.
♬言葉は魔法
 言葉は魔法♬

 いろいろあって、楽しいですね。おなじみのものもあるのではないでしょうか。

 こういう記号というか印を「約物(やくもの)」と呼ぶ人もいます。何らかの意味があるのであれば、約物も言葉と見なしてもいいのではないでしょうか。

 約物は言葉。
 言葉は約物。

     *

 たしかこれはああいう時に使うのだった、という心当たりがある一方で、なんでこんなものがあるのかと不思議にも思います。

 編集や校正や印刷業務にたずさわったり、ライターや記者やコピーライターのお仕事をなさっている方は、その種の学校に通ったり、講習を受けたり、専門の本で、こういうものを勉強なさったのでしょうね。

 翻訳業者や翻訳家もそうです。物書きである作家や詩人は、意外とこういうものに詳しくなかったりすると聞いたことを思い出しました。

 この記事を書いている部屋を見まわすと、『記者ハンドブック 新聞用字用語集』(共同通信社)、『朝日新聞の用語の手引』(朝日新聞社)、『日本語の正しい表記と用語の辞典』(講談社校閲局編)があります(本の名前なので、いまちゃんと括弧を使いました)。

 翻訳業をしていた時期に、仕事を斡旋する会社から指示されて購入したものです。ときどきぱらぱらめくって読んでいます。辞書もそうですが、こういうものを読んでいると時の経つのを忘れます。

 言葉は魔法。
 約物も言葉。
 約物は必要?

 約物は約束ではない。
 約物は自由につかっていい。
 約物は印刷時代の遺物。
 約物はネットの時代では異物。

        *

 言葉は魔法である
 言葉は、魔法である。

 昔々の日本の文章には句読点がありませんでした。上で見た各種の約物ももちろんありませんでした。

 見てきたようなことを言っていますが、国語や歴史の教科書とかテレビなんかで古文書を見た時には、たしかに「、」や「。」や「」や『』や「――」や「……」を目にした覚えはありません。

 そもそも古文には段落もなかったというか(そもそもセンテンスという概念もなかったのか?)、段落に分かれることなしにだらーっと書いてあったらしいです。そう言えば濁点「゛」もなかったとか……。ないないづくしじゃないですか。

 古文は約物がない日本語。
 言葉は魔法。
 言葉は魔法語。
 言葉はないないづくし。

 どうやって意味を取っていたのでしょうね。たしかうーんと集中して読んで、「ないもの」を頭の中で補うのですよね。それともでっちあげるのかな。

 補うというのは、いまだから浮かぶ発想です。

 たとえば、そもそも句読点のなかった長い長い時代には(句読点がある時代よりも長いという意味です)、句読点で補うという発想はなかったはずだし(もともとないものを補えますか?)、句点読点を省くという発想すらないかったはずです。

     *

 いま「ないもの」と書きましたが、「ない」のに昔の人はたぶんちゃんと読んでいたのですから、いま「ある」のが不思議です。

 いま無意識に「ないもの」「ない」「ある」という具合に「」でくくりましたが、こういうことってよくやりますよね。

 その「」は何なのかと問い詰められると、答えられそうにありませんが、とにかくよく使っています。これも不思議です。

     *

「ないもの」「なくてもいいもの」「なくてはならないもの」「なぜかあるもの」……。

 しっぽ(尻尾と書くんですね)とか盲腸を連想します。

 わけが分からない。そもそもなかった約物って必要なのでしょうか? 

 約物が作られたから、日本語の表現はより豊かになったという見方もできそうです。ぎゃくに貧しくなったという見方もあるでしょう。人それぞれ。

 約物はいい加減。
 約物は良い加減。
 約物は好い加減。
 約物は無用の長物。 

 言葉はいい加減。
 言葉は無用の長物。
 言葉はヒトの尻尾。

 言葉はしっぽふりふり。
 言葉はゆらゆら。

 言葉はぶらぶら揺れる。
 言葉は揺らぎの中にある。

 言葉は変わる。
 これだけは確かです。さもなければ、私たちは平安時代とか縄文時代の言葉をつかっているはずです。

     *

 いずれにせよ、古文って面倒くさそうですね。古文の読み方を学校で習ったはずなのですが、忘れました。

 古典に対する苦手意識が強いので、ずっと毛嫌いしてきたのです。べつに後悔はしていません。

 横着なんでしょうね。とは言え、古典が読める人を尊敬する気持ちはあります。

     *

 古文が読める人はすごいと素直に思います。古典を楽しめるということは教養です。noteでは、日本の古典に詳しい人でこれはという書き手を見つけると追っかけます。

 新しくアカウントをつくると(何度も出たり入ったりしているんです <(_ _)>)、真っ先にフォローしたりします(ものすごく古典に詳しい人がnoteにいるのですが、ものすごく気難しそうなので、フォローしないで、こっそりと、ほぼ毎日その人の記事を読んでいます)。

(ところで、<(_ _)>って約物の組み合わせではありませんか?)

 古文はすごい。
 古典の知識は立派な教養。
 古文が読めるようになりたいわん。

     *

 村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』が好きです。愛読書のひとつと言っていいと思います。

 やはり村上龍の書いた『トパーズ』もそうなんですけど、会話とか独白なのに「」がない文章が続く箇所があります。

「。」を打ってもいいようなところで「、」が打たれることもあります。あれが好きなんです。読んでいてわくわくぞくぞくするんです。

 そういう段落は字面がべたーっとしています。黒々として見える場合もあります。村上龍は読点がきょくたんに少なかったり、センテンス(ところでセンテンスって何でしょう? ある業界・テリトリー分野・縄張りではこれが大問題らしく、当たり前のものではないことは確かなようです、たしかによく考えると摩訶不思議なものだと思います)が長かったりするからでしょう。

 そこがまたいいのです。表題作の『トパーズ』と『紋白蝶』をよく読み返します。

     *

 そういう文体で書かれた小説のことを、小説に詳しいある人に話したところ、古文みたいで嫌だ、あれってめちゃくちゃ読みにくくね? と言われて意外に感じたことがあります。上で述べたように、私は古文が大の苦手なのです。思うところがあって、野坂昭如の文章も好きだよ、あとね、古井由吉もよく読むんだけど、とかまをかけてみると、えーっ、あの人の小説やエッセイもまるで古文じゃん、古めかしいことばかり言うし、書き方もややこしいし、というほぼ予想どおりの言葉が返ってきました。

 いまの段落では「」をわざと使いませんでした。やっぱり読みにくいですか。違和感がありますか。もしそうなら、私の力不足でしょうね。大家の真似なんかするもんじゃないということです。反省。もっと勉強します。

     *

 次の文章をご覧ください。

 ねえ、奥さん、聞いてちょうだいな、昨日の夜に旦那がお風呂上がりに、おい、秀美、猫に餌をやったか、なんて言うんです、何言ってるのよ、うちには猫なんかいないじゃないって言い返したんだけど、風呂に入っていたら、窓の外でやたらにゃあにゃあ泣いて催促しているから、モコに餌をやり忘れたんじゃないか、と真顔で言うのよ、モコなんて名前まで付けているみたいなの、ま、最近その種の発言が多くなってきたから、そっちのほうかなあ、とも思うんだけどね、で、無視していたわけ、こっちは孫を寝かせるので大変だったし、そうよ、二番目の娘の子なの、そうなの、この間、スーパーで奥さんに会った時に私が連れていた男の子、あら、ありがとうございます、娘に似てかわいいでしょ、私にも似てるってことなんだけど、で、その子を居間に布団を敷いて寝かせていたわけ、なかなか寝付かなくて、ねえ、ママはまだって、ときどき目を開けて尋ねるわけ、あれくらいの年の子って何やっても何言ってもかわいいの、私にとって至福の時間よ、あの子といっしょにいるのがね、そこに、おいキャットフードはどこだって、旦那が怒鳴り始めたから、ちょっとうるさいわねって言い返したら、何をこの野郎とか言い始めたのよ、わーん、おじいちゃん、こわいって孫は泣き出すし、旦那は、どこだどこだ、という具合に、目の色を変えて居間のあちこちを漁り始めるし、さんざんな目に遭ったわ。

     *

 以上は、その辺にあった小説の一部を引用したものなのですが、句読点はあるものの、括弧はないし、改行はしていないし、読みにくいですね。でも、こういう書き方をした小説が現にあるし、私はこういう文体が好きでたまりません。それにしても、下手くそな小説ですね。文体模写の練習かな? 誰の真似なのか分かりませんが。

 よく考えてみると、昔々には、句読点も、さらには濁点もなかったんですよね。それを想像すると、昔の人は偉かったなんて短絡して感心したりします。本当はそんな単純な話ではないはずなのですが、勉強不足なので分かりません。

     *

ねえ奥さん聞いてちょうたいな昨日の夜に旦那かお風呂上かりにおい秀美猫に餌をやつたかなんて言うんです何言つてるのようちには猫なんかいないしゃやないつて言い返したんたけと風呂に入つていたら窓の外てやたらにやあにやあ泣いて催促しているからもこに餌をやり忘れたんしやないかと真顔て言うのよもこなんて名前まで付けているみたいなのま最近その種の発言か多くなつてきたからそつちのほうかなあとも思うんたけどねて無視していたわけこつちは孫を寝かせるのて大変たつたしそうよ二番目の娘の子なのそうなのこの間すぱて奥さんに会った時に私か連れていた男の子あらありかとうこさいます娘に似てかわいいてしよ私にも似てるつてことなんたけとてその子を居間に布団を敷いて寝かせていたわけなかなか寝付かなくてねえママはまたつてときとき目を開けて尋ねるわけあれくらいの年の子つて何やつても何言つてもかわいいの私にとつて至福の時間よあの子といつしよにいるのがねそこにおいきやつとふとはとこたつて旦那か怒鳴り始めたからちよつとうるさいわねつて言い返したら何をこの野郎とか言い始めたのよわんおしいちゃんこわいつて孫は泣き出すし旦那はとこたとこたという具合に目の色を変えて居間のあちこちを漁り始めるしさんさんな目に遭ったわ

     *

 こういう感じになるんですよね。すごいですね。目が痛くなりそう。

 よく覚えていないんですけど、古文では句読点と濁点がないだけじゃなくて、促音の「っ」も「つ」でしたっけ。それとも歴史的仮名遣いだけの話でしたっけ?

 ま、半分おふざけのお遊びですから、大きな「つ」に直してみましたけど。さすがに歴史的仮名遣いにまで直す知識も技量もセンスも団扇もありませんので、上のような感じということでお許し願います。

 言葉は魔法。


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