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長いトンネルを抜けると記号の国であった。(連想で読む・02)

「「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」(連想で読む・01)」の続きです。


連想を綴る

 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。
(川端康成『雪国』新潮文庫・p.5)

 この三文は私にいろいろな連想をさせ、さまざまな記憶を呼びさましてくれます。

・「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」

 約物である句点も入れると二十一文字のセンテンスをめぐっての連想を、前回は書き綴りました。

 今回は、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。」という三つのセンテンスからなる連なりを視野におき連想したいと思います。

     *

 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。(21文字)
 夜の底が白くなった。(10文字)
 信号所に汽車が止まった。(12文字)

 この段落は、三つのセンテンスから成り立っていますが、長(21)、短(10)、やや長(12)という流れで止まります。読点はありません。

 朗読の心得のある人は、こうしたことに敏感であるはずです。音読してみると、読点なしの21ー10ー12のリズムが体感できると思います。

     *

 ガタゴト、ガタゴト
 キーッ、
 ガッタン

 当時の汽車はゆっくりと停車したのではないかと想像します。

 なにしろ、駅ではなく信号所での停車です。白線なんか、たとえあったとしても雪の下で見えなかったのではないでしょうか。

 いかにもこじつけた話になりましたが、妄想癖があって思い込みの激しい私はこんなふうに読んでいます。

汽車、列車、train


 いま、日常生活で「汽車」という言葉をつかうことはまずありませんが、私の子供時代や少年時代には、よくつかっていました。

 子どもの頃には蒸気機関車がまだ最寄りの駅を通っていました。私の少年期にディーゼルで動く列車に徐々に移行していったようです。

 少年が青年になりかけた年に、私は東京の大学に進学しました。東京では汽車という言葉を耳にすることはありませんでした。

 入学してまもなく、授業の始まる前に、ある女子と通学手段についての話をしていて、うっかり「汽車」という言葉が口から出て、気まずい思いをしたのを覚えています。

 山手線の列車(電車)のことを汽車と言ってしまったのです。

 一瞬、目と目とが合いました。雙葉出身だったその人は笑いませんでしたが、わずかな沈黙がありました。

 私はいきなり饒舌になり懸命に話を続けました。たぶん顔は真っ赤だっただろうと想像します。

トンネル、望遠鏡、管


・「夜の底が白くなった。」

「長いトンネルを抜けると」につづいているせいか、このセンテンスを読むと私は望遠鏡を連想します。

 この連想は、トンネルが円筒形の管だから起きるのではないかと思います。安易な連想です。

 トンネルを抜けるときには、「まだかなあ」と先を見ているのですが、望遠鏡をのぞき込んでいるのに似たわくわく感を私は覚えます。

 のぞき込むものは、肝心な部分がたいてい円筒形をしているようです。

 望遠鏡、顕微鏡、万華鏡、古いカメラ、交換レンズ。

 円筒形なだけではありません。そこには必ずガラスがあります。『雪国』冒頭の汽車の場面は、象徴と化したガラスの詰まった箱(車箱という言葉を思いだします)です。

 そうした管と円筒には丸い枠があるのを忘れてはならないでしょう。円い枠があるから、わくわくするのです。覗きこむわくわくです。

 人のつくるものにはたいてい枠がありますが、丸い枠は覗くためと入る(入れる)ために、そして長方形の枠は眺めるためと収まる(収める)ためにある気がします。

 丸い枠から出て、長方形の枠の中にいて、丸い枠に帰る。これが人の一生かもしれません。

     *

 長い管をのぞき込むと、そこには別世界ならぬ異世界があります。

 長い管を抜けると異世界であった。

 トンネルの先に丸く出口(出入口)が見えてきたときには、うれしいし、だいいちほっとします。

 そこに、「夜の底が白くなった」と来れば、息をのむ美しさではないでしょうか。

ネガ、ポジ、白黒


 国境の長いトンネルを抜けて、やれやれ。
 雪国に到着。
 夜の底に白い雪が見えて、はっとする。

 黒が白に、闇が光に、変ります。一種の反転です。作品の冒頭にふさわしい展開であり、状況であり、異化だと感心します。

     *

「黒」や「闇」というネガティブな言葉はつかわれていません。

「トンネル」と「夜」が、「黒」と「闇」に相当するわけですが、前者のペアの方が軽いと私は感じます。

 たとえば、隧道(ずいどう)では――漢字の字画が多い上に「ず」と「ど」にある濁点のせいで――いかにも暗く重い響きがします。

     *

 この段落の最初の二文のつながりを念頭に、その細部を見てみましょう。

 国境の長いトンネルを抜けると国であった。
 の底がくなった。

 トンネル(ネガ)・雪(ポジ)
 夜(ネガ)・白(ポジ)

「トンネル」と「雪」につづいての「夜」と「白」――、ネガ・ポジ、ネガ・ポジという具合に、色が旋律のようにくり返されます。

 ネガ・ポジ、陰・陽、白・黒。

 リズムをもった色のイメージが模様もようをつくっているかのようです。

     *

 白に黒の文様もんようとは文字もんじに他なりません。

 小説を読む者にとって、白と黒の織りなす紋様こそがすべてであり、世界のしるしなのです。読む行為は、白と黒からなる「しるし(もよう)」を読み解くことと言えるでしょう。

 しるし――さまざまな連想を呼び起こし呼び覚ましもしてくれる言葉です。

 しるし、標、徴、印、記述、筆記、印象、印章、表象、表徴、マーク、烙印、レッテル、サイン、シグナル、信号、記号、符号、シンボル、サンボリスム、「象徴の森」(ボードレール)、『シンボル形式の哲学』(カッシーラー)、暗号としての世界、隠喩としての世界、神の刻印。

シグナル、サイン、シーニュ

 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。
(川端康成『雪国』新潮文庫・p.5)

 エドワード・G・サイデンステッカーによる英訳で見てみると、異なった風景が立ち現れます。

 The train came out of the long tunnel into the snow country. The earth lay white under the night sky. The train pulled up at a signal stop.
("Snow Country" by Yasunari Kawabata, translated by Edward G. Seidensticker, Charles E. Tuttle Company, p.3)


・「The train pulled up at a signal stop.」  

 信号、シグナル、サイン、記号、シーニュという連想が起きます。

 signal、sign、signe、cygne

 なにしろ、私にとって、『雪国』という作品は「記号」の宝庫というか、記号の国なのです。

 長いトンネルを抜けると記号の国であった――。そんな感じです。

 ロラン・バルトの「記号の国」(L'Empire des signes, 1970)を連想するなと言われても無理です。

     *

 フランス語のシーニュ(signe、cygne)はともかく、英語の sign を英和辞典で調べると、そのイメージの豊かさと美しさに息をのまずにはいられません。

  しるし、標識、記号、符号、信号、合図、サイン、手まね、身振り、合い言葉、暗号、標示、掲示、看板、ネオンサイン、様子、気配、そぶり、徴候、前兆、傷痕、形跡、臭跡、お告げ、(神の)奇跡、(占星の)宮・シグヌム、署名する、記名する、署名させて雇う、契約する、手振り身振りで知らせる、合図する、目くばせする、十字を切る
(リーダーズ英和辞典・研究社を参照)

 英和辞典に載っているのは、見出しの語の意味ではなく(意味とは目に見えないものです)、日本語での訳語なのです。

 英和辞典を、私は類語・対語をさがすときにつかうことがありますが、それよりも読んで楽しんでいます。詩としても読めます。

 sign というタイトルの詩として読めるのですが、私の場合には sign という名の詩を眺めていて決まって頭に浮ぶのは白鳥(cygne)の姿です。

 白鳥と言っても、ステファヌ・マラルメの詩に出てくるイメージなのですが、この詩の翻訳は青空文庫で読めます。

記号、表徴、象徴


 ロラン・バルトの「(L'Empire des signes) 」のsignesに表徴という言葉を当てて訳出したのが、詩人の宗左近です。邦題の『表徴の帝国』には、詩人のしなやかな感性がよく出ているのではないでしょうか。

 綺麗な字面と美しい音の響きのするタイトルです。


 表徴の帝国。徴表る帝の国。
 しるしあらわる、みかどのくに。

 こんなふうに読みかえると、異世界が見えるようです。

     *

「表徴」と言えば、『雪国』の冒頭には「象徴」という言葉が一回だけ、つかわれた箇所があります。

 鏡の底には夕景色が流れていて、つまり写るものと写す鏡とが、映画の二重写しのように働くのだった。登場人物と背景とはなんのかかわりもないのだった。しかも人物は透明のはかなさで、風景は夕闇のおぼろな流れで、その二つが融け合いながらこの世ならぬ象徴の世界を描いていた。
(川端康成『雪国』新潮文庫・p.10・太文字は引用者による)

 いかにも安易で軽薄な連想ですが、「写るものと写す鏡」というフレーズに、例の signe と signifiant と signifié という話を思いだしてしまいます。シーニュ、シニフィアン、シニフィエ――。

 興味のある方は、以下の資料をお読みください。

「なんのかかわりもないのだった」なんて駄目押しされると、なおさらそんなふうに感じてしまうから困ったものです。

 冗談はさておき、「映画の二重写し」という比喩に魅惑されます。

長いトンネル、長い間、長い貨物列車


 冒頭の汽車の場面では、「映画」という言葉が直接もちいられ、映画がこの小説のテーマであることをはっきりと表明している感があります。 

 鉄道ー線路、信号ー点滅、映画ーフィルム、小説ー文字・文字列。

 こうしたものは、構成単位が列(train)をなすことで人にとって意味をなし、その機能を果たします。時間という流れ(推移)の中で成立するものだからでしょう。

 信号で言えば、点滅、つまり点いているか滅しているかで意味をなします。on と off です。その点滅は時間の差(ずれ)であると同時に、人にとっては線状の列として認識されます。

 モールス符号(信号)がそうですね。

 時間の推移(流れ)を空間的なもの(線形)に変換しているとも言えるでしょう。

 楽曲の歌詞を思いだそうとしてもなかなか思いだせない。最初から歌いはじめて、その箇所に来てようやく分かる。そんなときに、時間の流れそのものである曲や歌詞も、線状になって頭の中に入っているのだなと実感します。

 暗唱した文章なんかもそういう気がします。

 とはいえ、絵として頭に入っている文章もあります。なにしろ、ルビ付きで覚えているのですから。ただし、そんな文章はたいてい断片的なものです。クロースアップの写真みたいなものであって語数は少なく、連続した長いものとして入っているわけではありません。

     *

 映画も小説も時間の芸術だと言われるのは、時間をかけて見るもの(読むもの)であるからだろうと理解できます。だから、映画と小説には(おそらく音楽にも)始まりと途中と終わりがあるのです。

 フィルムのコマが列をなし、文字が列をなす。このように、直線上に最小単位が並ぶわけです。それを人が銀幕に映写したり、あるいは紙の上やモニター画面上に並べたものを、時間の推移の中で見たり読むという理屈です。

     *

 だからというわけではありませんが、『雪国』の冒頭の章(一行空けのあるところまで)のつくりに注目しないではいられません。

 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。
(川端康成『雪国』新潮文庫・p.5・太文字は引用者による)

 島村が葉子を長い間盗見しながら彼女に悪いということを忘れていたのは、夕景色の鏡の非現実な力にとらえられていたからだろう。
(川端康成『雪国』新潮文庫・p.11-12・太文字は引用者による)

 男が葉子の肩につかまって線路へ下りようとした時に、こちらから駅員が手を上げて止めた。
 やがて、闇から現われて来た長い貨物列車が二人の姿を消した。
(川端康成『雪国』新潮文庫・p.12・太文字は引用者による)

 三つの引用文に共通する「長い」を見て、マルセル・プルーストのあの小説を連想する人もいるのではないでしょうか?

 原文では、Longtemps(英語では「For a long time」)で始まり、le Temps (英語では「Time」)で終わる、『失われた時を求めて(À la recherche du temps perdu)』という、時(temps)という言葉をふくむタイトルを持つ長い長い小説です。

 私はよく知らないのですが、時間がテーマの小説だそうです。

     *

『雪国』も、時間がテーマの一つだと私は思います。時間の処理によって成立する映画を比喩とする以上、そうなるのは必然です。

 というか、どんな小説も時間の処理をしながら書かれるわけですから、なんらかの形で時間がテーマになるはずです。

 そして、十年が過ぎた――。

 もし、ある小説にこう書かれていれば、「ああそうですか、十年が過ぎたのですね、はいはい」と納得しないでは読み進めないのが小説ですから。

 小説は絶え間なく時間の処理をつづけなければ書けません。ストーリー展開であれ、描写であれ、説明であれ、会話であれ、です。

 始まりと途中と終わりのある小説は直線状なのです。おそらく時のように。というか、時を処理して(整理して)直線状に並べた文字列が小説だと言えます。

     *

『雪国』で川端がどんなふうに時間を処理して書いているかについては、以下の「『雪国』終章の「のびる」時間」に書きましたので、よろしければお読みください。

止まる、止める、stop


 私になりにまとめてみましょう。

 長いトンネルを抜けると記号の国だった。
 長い時、一方的に記号たちの様子に見入った。
 長い列車が、記号たちの姿を消した。

 記号は人だけではありませんが、そんなふうにも読めます。

「長い」で始まって、途中に「長い」があり、「長い」で終わる『雪国』の冒頭の章です。

     *

 章のラストをまとめてみましょう。

 島村が一方的に見つめていた対象である男と娘が長い線路に下りる。駅員が手を上げる信号を送って二人の動きを止める。闇から現われた長い列車が二人の姿を消す。 

 ここに描かれているのは中断であって終わりではありません。

 映画的でもあり、さまざまな身振りに満ちた展開の描写でもあります。

小説という名の「記号の国=夢の国」


 この記号の国は、映画のように事態が進行する夢の国でもあります。一方的に見るしかないのです。傍観と参観はできても参加はできません。

 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった

 男が葉子の肩につかまって線路へ下りようとした時に、こちらから駅員が手を上げて止めた

 象徴的な「始まり方」(止まり方)と「止め方」だと思います。

 止まって止めただけ、つまり stop(中断) ――。終わったわけではありません。記号の国を舞台とする物語は始まったばかりなのです。

 最後は長い夜で終わることを、島村も葉子も、そして駒子も、まだ知りません。

 最終章から、象徴的な三人の身振りを引用します。

 駒子が鋭く叫んで両の眼をおさえた。島村は瞬きもせずに見ていた。
 落ちた女が葉子だと、島村も分ったのはいつだったろう。
(川端康成『雪国』新潮文庫・p.172)

 葉子はあの刺すように美しい目をつぶっていた。あごを突き出して、首の線が伸びていた。
(川端康成『雪国』新潮文庫・p.172)

 島村だけがひたすら「一方的に見る」存在としてありつづけるのは象徴的ですが、この展開は作品の必然とも言えそうです。

「一方的に見る」という川端における特徴的な身振りについては、拙文「葉子を「見る」「聞く」・その1(する/される・04)」「「写る・映る」ではなく「移る」・その1」をお読みください。

 一方的に見る――。これが川端の書き方だと私は思います。

 そうであるなら、私たちは島村の目をとおして「記号の国」を傍観するしかないのかもしれません。

 ただし、この傍観は「夢の国」の掟でもあります。夢に参加しようとした瞬間、夢は消えてしまうからです。

 夢も小説も、たった一人で劇場の最前列の真ん中の席にくくり付けられ強制的に見せられる映画に似ています。川端はこの「夢のからくり」を熟知していた書き手だと思います。


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