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橋の役割ってなんだろう

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橋の役割ってなんだろう
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図書館でリーディングをやっていた時のこと。読んでいたのは「アイスランドの漁業とアイスランド人女性」についての論文。まず、前提知識として、アイスランドでは漁業が経済の中心。世界でも数少ない捕鯨国として知っている人がいるかもしれない。最近では観光業が盛んになっているものの、漁業はアイスランドのGDPの10%以上を占める。輸出になると40%ほどになるらしい。だから経済危機になった時の失業率であったり、気候変動での失業はなかなか深刻。

話は論文に戻って、アイスランドでは女性が男性と同じように漁業に従事してきた歴史がある。島国であるし、厳しい気候の中ではなかなか農業もできないという背景があってか、小さい時から水産業で働く人も多かったそう。アイスランドのジェンダーギャップって世界でもかなり先進的で、ジェンダーギャップ指数なんかでは世界1位であることは珍しくない。水産業では昔から多少の差はあるとはいえ、同一賃金だったそう。漁に出る女性もいて、その船舶の中で仕切っていた女性なんかもいたみたい。

そもそもどうしてアイスランドではこれほど多くの女性が水産業に従事していたのか。答えは簡単で、そういう環境だったから。環境というのは人を支配する大きな要因であると思うのだけれど、まさにそうで、アイスランドなんかは広大な自然に囲まれた国なので、昔は舗装された道路なんかなかった。つまり、小さいコミュニティーの中で生活するしかなかった。これは他の北欧諸国にも当てはまることで、こうした背景があって、平等の思想が形成されたという経緯がある。もちろん他にも起因するものはいくつかある。

それで、要は他のコミュニティーに移動する発想なんかなかったから、親とか小さな社会の通念にしたがって生きるしかなかった。そういう世界しか知らないからこれはその人たちにとっては窮屈ではないかもしれない。それで、近代化あるいは都市開発が進むにつれてそれが崩れる。これまで一つのコミュニティーで生涯を終えることが「普通」だった人たちのもとにインフラストラクチャーというのが整備される。舗装された道路が作られたり、橋がかかったりして、これまで船で移動していた人に、車で移動するという選択肢が与えられた。これで週末を首都のレイキャビークで過ごす家族も増えたし、レイキャビークや都市部に拠点を移す人が増えたそう。この中にもちろん女性も含まれていて、これまでのコミュニティーになかった高等教育機関で勉強する人もいれば、小さい世界にはなかった観光業をはじめとする違う産業で働く人も増えた。

橋が一つかかるだけで、アイスランド人のライフスタイルに革命が起きた。現代を生きる僕たちにとって、たかが橋だと思うかもしれないけど、意外と侮れない。されど橋だ。深い川を挟んで向こう側の街には行けなかったかつて。でも、もう橋を渡れば’歩いていける。そこには映画館っていうところがあって、ITっていう産業もあるらしい。

僕は昔マレーシアのボルネオ島というところで教育活動をしていたから、環境の恐ろしさが痛いほどわかる。生まれながらにして法を犯して生活している子ども達。もちろんそんなこと知る由もない。いわゆる不法移民だ。イリーガルな身分でマレーシアで生活しているもんだから、警察に隠れながらコソコソと暮らす。もちろん外の世界なんか知らない。学校教育なんて受けられるはずもなく、衛生リテラシーは信じられないくらい低い。親がそうだから子どももそうなる。でもどうだろう。そんな人たちに「衛生教育」っていう橋をかけてあげればもしかしたら笑える時間が増えるかもしれない。橋っていうと目に見える物理的なコンクリートの塊を想像するかもしれないけど、意外とそこら中に架かっていて、それは人の優しさで架かっていることが多い。

論文を読みながら橋のことを考えていたら、昔、TEDで見た「Bridges should be beautiful」というプレゼンを思い出した。このプレゼンの要旨としては、コミュニティーに橋が架かると、移動範囲が広がって可能性が広がる、そして橋というのは長期間残るものだから美しくある必要がある。だいぶ雑だけどこんな感じの内容。このプレゼンでも言っているように、橋っていうのはモノとモノ、ヒトとヒト、あるいはヒトとモノを繋ぐ役割があって、それらが繋がると新しい可能性が生まれる。隣町に学校があるけど、その道中に川が横たわっていて、渡れない。でもそこに橋を一つかけてあげれば、そこに住む人たちは教育を受けることができる。逆にこれまであった橋が壊れてしまうと、コミュニティーにも亀裂が走る。橋は街のシンボルであり、アイデンティティーにもなりうる。

「井の中の蛙大海を知らず」って本当にそうで、人は育った環境で人格とか常識が形作られていくから、すごくすごく大切。誰と関わるかもそうだし、どんな情報を入れるかも同じ。ずる賢い人と付き合えばずる賢くなってしまう。朱に交われば赤くなるってやつ。だから橋は綺麗でなきゃいけない。それでいて丈夫でなきゃいけない。

最近意図せず橋の役割をできたと感じたことがある。僕が仲良くさせてもらっている人で都内にあるカフェKのオーナーがいる。そしてまた別のカフェで仲良くしてもらってるオーナーがいる。僕はどっちのカフェも大好きなので、それぞれのオーナーにそれぞれのカフェを紹介してみた。そしたらどうだろう。その時僕はもうノルウェーに来ていたけど、そのオーナー同士がお互いのカフェに遊びに行ったそう。そして、今では一緒に仕事をするまでになった。僕のおかげなんて口が裂けても言えないけど、あの時紹介したから、図らずともその橋を渡ってくれたのかな、と思う。そして、最初のカフェKではもう1人と橋が架かった。僕の仲の良い写真仲間Tに「カフェK行ってみて!」と勧めたら、そこでも意気投合したそう。数回しか顔を合わせないみたいだけど、Tの写真展?のような企画が開かれるらしい。僕はすごく嬉しかった。意図せずだけど、橋を架けるってこんなことなのか、と独りで思ってみる。たった一言の橋でもその橋がしっかりしていればその人は渡ってくれる。

橋は美しくいなきゃいけない。僕はいろんな人に橋を架けたいと思うし、いろんな人にその橋を渡って欲しいと思う。だから僕は本当に良いものに辿り着くように橋を架けようと思う。

いろんな人にいろんな橋をかけていろんなところに行ってほしい。
僕もいろんな人に橋をかけてもらっていろんなところに行きたい。

よし、美しい橋であろう

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今日の一枚。スタヴァンゲルに架かる橋。ぶらぶら街歩きをしていた時に途中まで渡ってみたときの写真。結構長くて行きすぎると戻るのが大変そうだなと思って途中まで。この先には何があるんだろうと思うと、なんだかワクワクしてくる。

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