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「ウィーンの教育?だから何?」~ウィーン音楽院の恩師との思い出(後編)

皆さん、こんにちは! 在米27年目、ニューヨークはハーレム在住の指揮者、伊藤玲阿奈(れおな)です。

前編中編からの続き。今回で最終回となります。


ウィーンの教授から得た最大の収穫


これまでウィーン音楽院(元)指揮科正教授ウロシュ・ラヨヴィツ先生が主宰された短期指揮コースの思い出を語ってきました。

あえて最後まで残しておいたことがあります。

それは講習で学んだことの中でいちばん感動して、今でも私の音楽に大きく影響していること。そして、これだけでも授業料のモトが取れたと先生に感謝していることです(笑)

それは何だったと思われますか?

修了コンサートのリハーサルでのことです。何度もお伝えした通り、私はラヨヴィツ先生が大切にしているモーツァルトの交響曲第29番を担当しました。

終楽章のある箇所で、私は第一ヴァイオリン奏者に「そこの主旋律はこういう風に弾いて欲しい」と、実際に歌ってみせて指示を出しました。

すると、後ろで監督していた先生が血相をかいて「それは間違いだ!」との痛烈なダメだしが。そして同じように歌いながら、「このように弾かれないといけないんだ」とおっしゃいます。

本番前に指揮者とその先生が違うことを言うので困惑するオーケストラ。私のほうは「テンポも強制的に決められたうえ、メロディーもかよ・・・」と、一気にテンションがダウン。

しかしそれも束の間、先生は慣れない英語ゆえに途中で詰まりながら次のように仰ったのです。

規則に従いなさい! それは "ディー・ポエーティク" だよ。ええと、英語では "ポエティカ" になるのか。つまりだな、、、これは君が知らないポエティカというものなんだよ! いずれにしても、これは君が知らない規則なんだ (It's POETICA which you don't know! Anyway, this is THE RULE which you don't know!)」

私はひと言、こう答えました。

アリストートルですね?

すると先生は私の顔をまじまじと見て、

そうだ。知っているなら、規則に従いなさい

一転、柔らかい口調で注意すると、自分の席に戻られたのです。

ウロシュ・ラヨヴィツ先生
本当にいつ見ても美男です!



まさにヨーロッパ数千年の伝統からくる教え


このやり取り、おそらく大半の方は「?」だと思います。実のところ、オーケストラはじめ、周りの学生もキョトンとしていました。

ラヨヴィツ先生が口にした「ポエーティク (Die Poetik)」「ポエティカ (De Poetica)」というのは、古代ギリシャの哲学者アリストテレスが著した「詩学」のこと。「ポエーティク」は先生が流ちょうなドイツ語での読みで、英語の読みが分からず「ポエティカ」とラテン語読みで言い直されたようです。

私に幸いしたのは、音楽のかたわら哲学の勉強を続けていたおかげで「詩学」のことがピンと来たこと。けれど一方的に「君の知らない」を連呼され、ちょっとムカッとしたので、アリストテレスをあえて英語読みで「アリストートルですね? (Aristotle, right?)」と返したのでした。

アリストテレス(前384~前322)


それはさておき、これと一体なにがモーツァルトに関係するのか?

「詩学」は主に悲劇についての理論書ですが、実のところ音楽とも密接に関係しています。

当時(今から約2300年前)のギリシャ文学は、ほぼすべて韻律(いんりつ)で書かれていました。つまり「」のことです。日本語でいうと「五・七・五・七・七」の短歌のように、ある一定の決まった調子で、音楽のように朗唱することを前提とした文学作品を指します。

ですから「詩学」では音楽と韻律の関係についても紙面がさかれており、のちの西洋音楽にも影響を与えました。

ちなみに、オーケストラ・コーラス・メーター(拍子)・リズム・ハーモニー・メロディー・・・これら西洋音楽で基本となっている多くの用語は古代ギリシャで使われた文学用語(音楽用語ではない!)に起源があって、アリストテレスの「詩学」でも頻出します(ただしアリストテレスが発案したのではありません)。

すなわち、ラヨヴィツ先生が私に伝えたかったのはズバリ、こういうことです。

「ヨーロッパの古典音楽というのは数千年前から文学(=言葉)と密接に結びついていて、理論からして元は詩から発展したもの。モーツァルトという古典中の古典を正統的に響かせるためには、書かれている韻律の種類を見極めたうえで、その規則を破ってはならない!」

どうです? まさにヨーロッパ数千年の伝統からくる教えではないでしょうか!

音楽学者で同様の主張をする人は結構います。ですが演奏家としてちゃんとアリストテレスあたりまで把握したうえで、韻律の伝統を実演で活かそうとするのはラヨヴィツ先生が初めてでした。

もう本当にしびれましたし、「古典」「伝統」についてもっと深く考える機会になりました。現在でも、ラヨヴィツ先生から頂いたこの気付きは至るところで役に立っています。

これが音楽として具体的になにを指し、どう活かせるのかーーこれは私の "メシのタネ" なので(笑)、知りたい方は私のレッスンか有料コンテンツでどうぞ。

「詩学」10世紀のアラビア語による写本
(フランス国立図書館蔵)



コンプレックスを吹き飛ばす確信


「さすがヨーロッパ」「さすがウィーンの先生」・・・反発することもあったとはいえ、私は心底そう感じ入りました。

それだけではありません。面白い副産物もありました。この講習会での体験が、私のヨーロッパ・コンプレックスを吹き飛ばす糸口になってくれたのです。

どうしてそうなったのか?

まず第一に、アメリカ・NYで勉強してきたことはヨーロッパでも十分に通用すると確信できたからです。むしろ「こんなものか」と思うことも案外ありました。

たとえば、楽理分析とバトン・テクニックについては、NYで学んできたアプローチの方が演奏に活かしやすいというのが正直な感想です。専門的なので、詳しいことは別の機会に譲りますが。

第二に、私の回り道だらけの人生で学んできたことが、べつに間違っていなかったと確信できたから

特にアリストテレスのくだりは最大の収穫ではありましたが、それは私が(「なんの役にも立たない」と言われ続けながらも)コツコツと哲学を学んできた積み上げがあってこその収穫です。

雰囲気から察するに、私と先生のやり取りは他の誰にも理解されていなかったと思います。ふつう哲学書なんて読みませんから。なので、「ヨーロッパ人よりもヨーロッパ文化について語れることだって自分にはあるのだ」という自信につながりました。

そして第三に、結局のところ、教育を受けた場所はその人の音楽のスタイルを左右すれど、聴いた人々の感動までは左右されないと確信できるようになったから

前回申し上げたように、コンサートでは私のやりたいように振りました。しかしその結果は「ブラボー」の嵐だったのです。ヨーロッパとNYの特徴がうまく融合したような、自分でも会心の出来でした。

このような確信をえられた結果、私のヨーロッパ・コンプレックスはしばらくして完全に消えてしまったというわけです。

クロアチアで私が音楽監督を務めたザグレブ・シンフォニエッタのメンバーたち



「ウィーンの教育?だから何?」


音楽家は自分自身ふくめ人々を感動させるため、元気づけるために生きています。人生のある部分を充たしてくれることは芸術の大切な役割ではないでしょうか?

言いかえれば、自分自身がいろいろな勉強や経験をしていく過程で、人から何と言われようが「コレなんだ!」と心をワクワクさせながら訴えきれるものを持つ、そしてそれを実行する意志と能力を持つーーこれこそが音楽家の存在意義となります。

ラヨヴィツ先生の指揮コースを受けて、また "本場" ヨーロッパで仕事をして実感したのは、どこで教育を受けようが「コレ」に当たるものを持っていなければ単なる無個性な音楽家だということ

たとえばウィーン風ってだけなら過去の録音でも聴いておけばいいのであって、我々が望むのはそのウィーン風の音楽でもって感動することでしょう? この違いが伝わるでしょうか?

こういうわけなので、今のわたしにとって

「ウィーンで学んだから凄い」
「NYで学んだから凄い」

こういう類の言説はすべて「だから何?」となってしまうのです。

もちろん、この記事でお伝えしたように、それぞれに素晴らしい重みは確かにあるので、それをちゃんと受け止めたうえでの話なのは誤解しないで下さい。そうでなければ己の嫉妬や無知をさらすようなものです。

いずれにしても、音楽家の凄さとは教育を受けた場所ではなく、その人の歩んできた人生、つまり自分自身にどう向き合っているかにかかっています。

これに改めて気付かせてくれたラヨヴィツ先生、そしてウィーンの伝統はやはり本当に素晴らしかった! 心から感謝しています。

©伊藤玲阿奈 2024 無断転載をお断りします

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執筆者プロフィール:伊藤玲阿奈 Reona Ito
指揮者・文筆家。ジョージ・ワシントン大学国際関係学部を卒業後、指揮者になることを決意。ジュリアード音楽院・マネス音楽院の夜間課程にて学び、アーロン・コープランド音楽院(オーケストラ指揮科)修士課程卒業。ニューヨークを拠点に、カーネギーホールや国連との国際平和コンサートなど各地で活動。2014年「アメリカ賞」(プロオーケストラ指揮部門)受賞。武蔵野学院大学大学院客員准教授。2020年11月、光文社新書より初の著作『「宇宙の音楽」を聴く』を上梓。


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