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学習性無力感。

自分、そっち行ったら、死ぬで。

 これは、今年発売された「夢をかなえるゾウ0」の序盤で、夢を持たず心を病みかけている平凡なサラリーマンの主人公が、オフィスに戻ろうとした際に、突如現れたインドの神様ガネーシャが放った言葉である。

 Amazon Audibleの2ヶ月無料体験で、睡眠用BGMとして活用しているのだが、内容が面白過ぎると却って寝付けず、逆効果になると感じる今日この頃である。

 さて、職場に戻ったら死ぬなんて聞くと、物騒で大袈裟に聞こえるかも知れないが、本文中の言葉を借りるなら、入社したときは活き活きとした顔付きな新入社員が、3年も経つとほとんどの人が心が死んだような顔になる。と表現されていることから、ここでの「死ぬ」は、何も物理的な死のみを意味している訳ではないと私は解釈している。

 私が最初に就いた職種が駅員だったこともあって、職業柄、毎朝とは言わないものの、改札やプラットホーム上で押し寄せる乗客を見ては「死んだ魚の目をしている」と同僚らと揶揄していた記憶がある。

 品川駅コンコースの「今日の仕事は、楽しみですか。」が広告主の意図とは異なり、社畜への煽りだと穿った解釈をされて炎上したのは記憶に新しいが、従業員エンゲージメントが高ければ、皮肉や煽りと受け取られず、炎上には至らなかったのではないだろうか。

 日本人は世界から見ても、突出して従業員エンゲージメントが低く、決して自社の商品を親族や友人に勧めたりしない。自身が必死になって働いたことで、生み出した商品を身近な人ほど買って貰いたいと思えないのなら、誰のために働いているのかと思ってしまが、こう思えるのは、世間一般とは就業環境が異なっているが故に、一般の会社員の感覚に染まらなかったことによるものと思われる。

就活はアリ地獄に落ちるようなもの。

 一般の会社員の感覚、それは学習性無力感である。これは心理学で、ストレスの回避が困難な状況が長期に渡ると、何をやっても無駄だと判断して、ストレスの元凶から逃れようともしなくなる現象である。

 例え話として、サーカスの鎖に繋がれた象がよく用いられる。野生の象を杭で打った鎖で繋ぐことは困難だが、生まれたばかりの小さな頃から鎖で繋がれると、幼い頃の学習性無力感によって、成長して鎖など余裕で引きちぎれる力が備わっても、自ら逃げようとしなくなるのである。

 以前記した「社会に飼われる人」でも、雇用主と労働者の関係を、動物園と動物に喩えたが、付け加えるのであれば、新入社員の頃に受けた洗礼によって学習性無力感が形成され、中堅となる頃には独立して会社の看板に頼らずとも、ひとりで生計を立てられるだけの力が仮に備わっていたとしても、自ら会社という檻から抜け出そうとしなくなるのである。

 お金に関する不安も、何でも吸収してしまうフレッシュな新人の頃に、大量消費を誘引するような、煌びやかな世界を見せられ、気付かないうちにその世界に染まりきってしまう。

 そうなると、賃金が右肩上がりであることが絶対で、減給や失業の恐怖に怯えるが故の生活残業に追われながら、やりたくない仕事や嫌なことを、文句を垂れ流しながらも、自分からは決して辞める手段を取らず、次第に病んで、死んだ魚の目をして出社するのである。

 世間一般の大学生は、死んだ魚の目をして満員電車で出社する社会人を見て、自分はあぁはならないと思うのか、そもそも見ていないのか、私自身が高校を出た直後に大学を出ていないため真相は定かではないが、末路が何となく分かっているのにも関わらず、世間体や周囲に流されて、その世界に飛び込んでいく。

 例えるなら、就活は自らアリ地獄に落ちに行くようなものである。

賃金如きに大切なものを犠牲にしない。

 実は、私も学習性無力感の術中に嵌りかけた経験がある。駅員時代こそ、死んだ魚の目をして満員電車にぎゅうぎゅう詰めとなっている社畜リーマンを、ちょっと前まで高校生だった青二才が嘲笑っていたが、乗務員になってから暗雲が立ち込むようになった。

 普遍性を嫌う私の性格上、誰も疑問を持たないが、制定意図や存在意義が定かではなく、現実に即さず却って運用の足枷になっているような謎ルールを見つけては、偉そうな上役を詰める悪習があり、駅員時代はそれが活かされた側面があった。

 しかし、乗務員になってからは、決められたことを決められた通りに実行するだけのルーチンワークかつ、ミスが許されず、「言われたこと以外の余計なことはするな」という、ロボット染みた対応を要求され続けたことから、長所が活かせず「何をしても無駄」と、気付かぬ間に反骨精神が削がれていた気がした。

 そのストレスからか内臓を悪くして、入院手術をした際に学習性無力感の術中に嵌りかけていることを認識。自分ひとりが食べていけるだけの資産の目処が付きそうな状況から、「早期退職」というカードを今年度中に切ることを決意した。

 疫病によってボーナスカットが甚だしいとはいえ、腐っても鉄道乗務員である。というか元から腐りかけの泥舟だが…。工業高校卒が就職できるようなブルーカラーの職種を見渡せば、ひ弱かつ小柄なそして女子社員より小顔で女子力高めな私でも務まる程度に肉体を酷使しない割に、下を見ればキリがないブラック企業度合いも、漆黒というよりはスペースグレーとマイルドで、割とステータスは上位なのかも知れない。

 おまけに乗務員である。希望者全員が成りたいと思って成れるような職種ではないことは重々承知しているし、辞めるなんて勿体ないと、四方八方から袋叩きにされることも理解している。

 しかし、病に倒れた時に「夢をかなえるゾウ0」は発売前だったが、内なる自分の声が「自分、そっち行ったら、死ぬで。」に通ずる言葉を発していた。

 早死にする業種だからこそ、誰よりも食事、睡眠、運動のバランスを考えて、整った生活をしていた自負があった。それでも二度と訪れない、人生若年期の可処分時間の半分を労働に捧げて、時間を切り売りした結果、身体が悲鳴を上げた。

 1ヶ月にも及ぶ入院、手術と大事には至ったが、命に別状なしだったことから、人生を考え直す転機となり、最も大切にしている健康を犠牲にしてまで、代わりなどいくらでも居る職種にしがみ付いて時間を切り売りする意義が見出せなかった。

 それに、私が嫌々やっている乗務員のポストがひとつ空けば、犠牲者もとい志願者の枠が増加するため世代交代も加速する。都市部の鉄道など競争から守られた、ある種の独占企業で新陳代謝が異様に低く、外部から促せない以上は内部から促す他ない。そうやって少し美談にしつつ、理屈を捏ねて働かない自分を正当化したところで終わりにする。


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