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弱さを認めあえる社会であってほしい



体調不良…なのに原因が見つからない辛さ

 私は20代半ばに突然、身に覚えのない発作で倒れ、1ヶ月弱の入院、手術を経験した。倒れる半年ほど前から体調が優れない予兆はあった。最初は寝違えたような肩甲骨の凝りと、腰痛が一向に直らないところから始まった。

 整形外科で異常は見られなかったが、入院して初めて知った事実として、内臓がむくみ、脊髄の神経を圧迫していたことによる痛みだと判明して、個人の力でどうにかなる類のものではなかった。

 その後は全身倦怠感に悩まされ、仕事で気を張っている時以外、すなわち休日は、ぐったりしている状態が慢性化した。食欲低下、腹痛、嘔気の3点セットに悩まされ、只事ではないと思い内科を受診するも原因不明。

 主観ではこれだけ体調が悪いにも関わらず、健康診断も特別な異常は見当たらない。医者にかかっても重篤な症状は検出されず、病気不安症を疑われる体たらくだった。

 しかし、蓋を開けてみると、胆石が悪さをして肝機能障害が急速に進行していたらしく、尿がエナジードリンク系を飲んでいないにも関わらず、飲んだ時のような色だったのも、黄疸によるものだと後から知った。

 少なくとも発作で倒れる程度に重篤な症状のシグナルは出ていて、本人が体調不良を訴え、医療機関を受診していたにも関わらず、ことごとく見落とされ、体調不良が誰にも理解されない状況下で、徐々に身体が蝕まれていく。

 鉛のように重くなった辺りから疑心暗鬼に陥り、肝機能障害の症状が出ているのに、それらが可視化されず、当事者として体力だけでなく、気力まで削られて最後は倒れたのだから、これはもはや逆病気不安症である。

若さよりも健康不安がないことが重要

 そして、今も胆嚢摘出術後症候群を抱えながら生きている。無くても人体の機能的には大きく影響しない臓器とは言え、内臓を摘出していることには代わりない。

 そもそも体毛や尻尾のように、使われない部位は退化して省かれていくのが生物の常にも関わらず、残っているということは、まだ医学的に役割が解明されていないだけで、何かしらの役割を担っているものと考えるのが自然だろう。現に脳は役割が判明していないサイレントエリアが8割もある。

 これまであった部位がある日を境に突然切除されたのだから、順応するのにも時間が掛かるのだろう。体調は思いのほか良くならなず、それが気力を削いでいる感覚は否めない。

 しばしば年長者から若さを羨ましがられるが、健康体で健康不安など皆無な状態が羨ましいのであって、若くても持病を抱えて、食べる物に気を使うとか、旅行計画も身体に負荷を掛けないよう詰め込めず、控えめな行程で歯がゆい思いをする。

 そんなエネルギッシュさとは無縁で、同世代比で気苦労の多い身としては、若さそのものに価値があるとは思えず、実態はあなた方と大して変わらないでしょうに。とも思う。

弱者には弱者なりの生き方がある

 昨今、弱者男性たるワードがSNSを中心にしばしば用いられる。義務教育から集団行動を前提として、否応にもヒエラルキー構造を意識せざるを得ない環境に9年以上居ると、半ば洗脳に近い形で強者=勝ち組、弱者=負け組の固定観念が形成されがちである。

 Wikipediaによると、弱者男性は独身・貧困・障害など弱者になる要素を備えた男性のことであると定義されていて、構成要素としては、労働の非正規性や収入、容姿、コミュニケーション能力、パートナーの有無、発達障害や精神疾患の傾向となっているが、そもそも記事内でも指摘されているように、(社会的)弱者の定義が曖昧ではある。

 とはいえ、非モテ、非正規雇用、病弱でも国家や社会からの制度的支援が何もない弱者男性と異なり、私は課税所得上の低所得者として、国家や社会からの制度的支援の恩恵に預かっている意味で、自他共に認める弱者に位置するのだろう。

 しかし、真の弱者は助けたくなるような姿をしていない格言からも伺えるように、自分一人が食う分には困らないであろう、資産所得を有しておきながら、社会から情けをかけられる様な姿をして、恩恵を受けている私は、どこまで行っても弱者擬きであることは自覚している。

 とはいえ、早産児かつ早生まれとなり、学年が1つ繰り上がるレベルのハンディキャップを背負いながら、幼少期を過ごした私は、同じ学年で人類の一個体として見た時に、フィジカル面で圧倒的に弱いことは明白だった。女性で例えるなら小動物系だ。

 弱者の立場を結構経験しているからこそ、弱者なりの立ち振る舞いや生き方も心得ているし、20代で既に老後資金問題が解決する規模の金融資産を有する意味で、経済的には弱者じゃない立場になった今も、別にお金持ちが偉いと思わないし、貧乏だからと見下すようなこともない。

 路上で寝てる奴は大体トモダチだし、住所不定無職のループから抜け出せないのは、元々、社会的に弱い立場に居た人が、病気や失業などのアクシデントによって運悪く住所不定になると、定職に就けず、家も借りられず、携帯も契約できず、行政の支援も受けられずに詰む、社会システム側の問題であり、当事者の問題だとは微塵にも思っていない。

 誰もが何かの拍子に弱者となる可能性があるし、そこで他人に助けを求められない人ほど、社会システムの枠組みから疎外されて、負のループから抜け出せなくなることも、嫌というほど理解している。

 だからこそ社会全体が、弱者=負け組ではなく、今の社会の構造上、他人の手助けを必要とする人くらいの認識になり、弱者には弱者なりの生き方があると思えるような世の中に変わっていく方が、誰にとっても生きやすい社会となるのではないだろうか。


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