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善行も悪行も本質は同じ。


自らの欠陥を補う為の行いに過ぎない。

 過日、某小売店の店内を歩いていたら、商品棚の上段にある商品が背伸びしても届かずに困っていそうに見えた人を「俺でなきゃ見逃しちゃうね」と内心思いながら、人権がないらしい身長で精一杯爪先立ちして代わりに取り、お礼を言われる前に立ち去った。

 その後、株主として商品数が多すぎるが故に陳列が煩雑になっており、結果として手に取れない人が居るうえに、店内の社員にも余裕がなく、誰もそれに気づかない状況は却って機会損失で、利益を阻害する要因となり得るのではないかと意見した。

 困っている人が居るとか、ゴミが散らばっているみたいな状況でも、それは店員の仕事で、客である自分は見て見ぬフリをすれば良い。誰かやるだろうと、気にせず素通りする人が多数派なのが日本社会である。

 心理学では「リンゲルマン効果」と名付けられており、役割を与えられないと無意識で手抜きをするように出来ているから、そうなるのが自然なのだろう。

 私の場合は元駅員の性で、店員を見つけて言いに行く位なら、気付いた自分が直接動いてしまった方がはやいと思ってしまう。

 これだけ切り取ると胡散臭い偽善者にしか写らないだろうが、気付いてしまった自分が見過ごしたことに対して、思考を占領されたり、仕事であれば、まわりまわってコトが大きくなってから、自分がやる羽目になる可能性が少しでもあるなら、対処不能になる前段階で気付いた時に片付けてしまおうと、対処能力に自信がない自分の欠陥を補う為の行いに過ぎない。

善悪はものの見方や切り口で変わる。

 見出しは「僕だけがいない街」の登場人物である八代学のセリフである。極端な思想と思いきや、元ネタはアメリカの哲学者ジョン・デューイの言葉から来ており、例えどれほどの善行を重ねている人物でも、悪の側面は内包しているし、逆も然りであることを端的に表している。

 光と影。コインの表裏の関係のように、表面的には善行に見えることであっても、本質的には善行とは限らない。見方や切り口を変えれば悪行にも見える。

 善行にしても、悪行にしても、人が行動に移している時点で、何かしらの打算があったうえでの行いと考えるのが自然なのだから、本質は同じであり、それを判断する者の価値尺度や、切り取り方の問題でしかない。

 私はペット不可の集合住宅に住んでいるが、野良猫に餌をやる愚かな住人が居て、猫が住み着いている。無論、管理会社経由で、餌付けするな的な貼り紙は掲出されているが、元駅員の職業柄、馬鹿でも理解できるように注意したところで、そもそも馬鹿は注意を聞かない。

 人間に媚びれば、簡単に餌が貰えると学習するのは、動物の本能だから、誰彼構わず甘い鳴き声を出す。そのため、私は周囲に聞こえるか聞こえないかレベルの声量で、嫌味ったらしく「餌なら周囲のことを考えられない、無責任な人たちから貰いなさい」と言って玄関を去る。

甘いだけで優しくない社会?

 実家は猫を飼っているため、猫が嫌いな訳ではないことは偽善者っぽく補足させて頂く。そのため、一応は生き物を飼うことの責任とやらは心得ているつもりでいる。

 だからこそ、自身の淋しさを紛らわすために、野良に気まぐれで餌付けする行為は、命に責任を持つことを野放図にしている無責任極まりない行為であり、甘いだけで優しくない。

 それに、世の中には猫をペットとして飼う人も居る反面、アレルギーを持っている人も一定数居る。その人たちからしてみれば、住み着かれるのは勘弁してほしいと思うだろう。

 不動産のオーナーからしても、敷地内や建物が野生動物の糞尿によって腐敗するなどで、その価値が毀損するリスクを考えれば、そのリスクヘッジで割高な家賃を設定しなければ割に合わず、ペット不可の安い物件を選んで契約に至っている以上、たとえ野良でも動物が住み着くような行為は自重すべきだろう。

 オツムの弱い当事者からすれば、慈悲深い気持ちで餌付けしている善人なのだから、非難される筋合いはない。小動物が鳴いて助けを求めているのに、聞こえぬフリをしている私のような住人が悪だと決めつけては、論点ずらしで矛先がこちらに向く可能性すらあるのだからタチが悪い。

 動物愛護団体ごっこをしたいのなら、私財でお好きにどうぞ。それができるだけのリソースがないのなら、私情で命を弄ぶなと考える私もまた、資本主義や契約社会のルールに則ったエゴイズムに過ぎず、煎じ詰めるとカイジ利根川の「金は命よりも重い」に行き着く。

 そこに動物的な本能は存在しない意味で、本質的に人間のエゴである呪縛からは逃れられないだろう。何を選択しても、どこかで悪意は育つのだ。

 学校教育が典型だろう。ゆとりを持たせて子どもの自発性に委ねたゆとり教育は、当時この方針を決めた大人たちの善行に依るものだったのかも知れないが、蓋を開けてみると、その甘さから「これだからゆとりは…」の温床になっており、何の罪もない当事者からすれば悪行に映る。

 それを反省して詰め込みにシフトしたら、今度は地頭の良い人ほど、平均を底上げする詰め込み教育の不毛さに気付き、不登校の形で抵抗することで、教育システムの枠組みから疎外してしまう。

 却って地頭の悪い人ほど、余計なことを考えないが故に思うがまま詰め込まれ、なまじペーパーは優秀だから優等生として良い大学を出て、これまで地頭の良さだけで対応してきた、日本企業の幹部候補として、これからの社会を担う構造に変化しつつある。

 数年後に振り返った際、分母から積極的不登校を排除する形で底上げされた名目値から、善行として評価されるのか、優秀な人ほど日本の教育システムに適合せず、海外に流出する事態を招いた悪行に映るのか。文科省が自らの欠陥を補う為の行いがどちらに転ぶのか楽しみではある。


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