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内側にあるもの、外側から見えること

鈴木重子さんと安納献さんというCNVC認定トレーナーさんの講座が気に入って何度か受講しています。

今年1月には、福岡で対面のワークショップを開催されていて、私も一時帰国中だったので、えいやっと参加しました・
(えいやっ、は帰国中でその時間を捻出したり、移動や宿泊費などが予定外の出費や負担になったので、心の「いきたい❤️」に頭と体が答えた感じになります笑)

さて、お二人の「いのちの源泉」というシリーズものの講座がありまして、その講座に参加した人は、OBコミュニティというものに誘っていただけます。

その中で、献さんがシェアしてくれたお話と、マーシャルが言っていたことに触れたら、私の中の探求・究が溢れてきて、コメント欄にコメントを書いていたのだけれど、コメント欄に書く長さじゃないな、しかも私の探求・究中のものをダダ漏れにしているだけだ、と気づき、コメントをnoteに引っ越して自分の探求・究録として残しておいてみようかと思います。

とはいえ、もしかしたら献さんの投稿を見ないと通じないところもあるかも〜、とも思っています。
ご興味がある人は、ぜひ、重子さんと献さんの講座に参加して、献さんのNVCの探求・究や人生の探求・究から紡がれている投稿を読んでください♪
投稿を読むために、ではなくて(笑)、お二人の講座にぜひ参加してみてほしいなぁ、とも思っています。
重子さんと献さんのウェブサイトはこちら
他にも、重子さんと献さんの講座やお二人と仲間たちが開催・主催・共催している講座やワークショップは、NVC Japanコミュニティで紹介されたり、お二人のファンが紹介投稿されることがあります。
NVC Japanコミュニティ(Facebook)

さて、献さんが紹介してくれたマーシャルが言っていたこと、は以下の通り
(献さんの訳を元に、動画を見て私が手を加えました)

Participant: I want to go to a workshop that will help me to be a better mother, and a more loving person.

Marshall: Of course, those are dangerous abstractions. We don't want this child to think there is such a thing as a lovely mother or (M: what was that second thing?  P:A better person) a better person.
There's no such thing as a loving person. There is no such thing. We don't want to be abstractions that don't exist. We want to do something real in life.
So you want to learn ways of connecting in a more loving way with her?
That's possible, it's not possible to be a loving mother.
マーシャルが”6歳の子どもに、出かける理由を伝える”母親に「ニーズを感じないリクエストは、それをやってあげるときに嬉しさを感じない。リクエストを聞くときはをその背後にあるニーズにつながって」というようなことを言った後の母親(参加者)とのやりとり↓

参加者「もっと良い母親、もっと愛情深い人になるためにワークショップに
    参加したいの」
マーシャル「もちろん、それらは危険な抽象概念です。この子には、「愛情  
    深い母親」などというものが存在するとは思ってほしくないし、
    (マ「もう一つはなんでしたっけ?」 参「もっといい人」)
    もっといい人なんてものが存在するとも思ってほしくありません。         
    愛情深い人間などというものは存在しない。そんなものは
    存在しないのです。私たちは、存在しない抽象的なものになりたく
    ありません。私たちは人生の中で何かリアルなことをしたいので
    す。
    つまり、あなたは彼女ともっと愛情深くつながる方法を学びたいの  
    ですね?それなら可能です。愛情深い母親になることは不可能
    です」

Making LIfe Wonderful DVD 4/4. 21:31より

私のお返事:

昨日、ジム(*)と話していてジムが伝えてくれた内容が私の中で共鳴しています。

そのエッセンスとこの「愛情深い人」というのが私の中でどうつながっているかというと、
① (ジムとの話のエッセンスからの私の理解)
外側から見て、「愛情深い」と解釈してる言動をしている人が、実際に内側でも「愛情深いからそうしている」のかどうかは、その人以外にはわからない。

(これ以降は私の解釈・考え↓)
② そもそも「愛情深い」というのは、「愛情」という動きがあるもの(「Do you love me?」と聞かれて「今、この瞬間にあなたのことを思うと温かい気持ちになって、あなたの人生が素晴らしくなるために貢献したい、とか、手をつなぎたい、とか、そんな気持ちになっているかどうかを聞いていますか?」というように、そんな気持ちは瞬間瞬間で変わるはず)を一瞬「愛情深い」状態になることはあるかもしれないけど、未来永劫はあり得ない、難しいよね、私たちは有機的な生き物だから、という、”献さんが言っているポストイットに呼応する感じ”が私の中にあります。(とはいえ、献さんがこれを読んで、首をひねり、「請おうと言っているけど、私が言いたいことと違うことを受け取っているようだ」となる可能性にも気づいています)

(私がマーシャルの言葉を理解しようとして探求・究している、解釈と考え↓)
③ そして、「愛情深い」と言ったとき、まるで「ここからここまでは愛情たっぷりで、これ以下は愛情少ない・少なめ」と言った、「量や質」で測れるように感じるのだけれど、そんな「基準は存在しない」。
「愛情深い」などの表現を行ったり聞いたりすると、比較したい人が採用している「曖昧なんだけど、確固として存在するかのように見える、KYと誰かが誰かのことを呼ぶときに、それがルールや”当たり前”として基準」があるように見える・聞こえるが、実のところ、そんなのは存在しないよね、とマーシャルは言っているのかな?

④ この「愛情深い」というのは、KDの”Love as a need vs Love as actions or feelings"というのと、比較・ノーマライゼイションなどに触れいてるなぁ、とつらつら考えております。

⑤ そして、私の頭の中では①にまた戻ってしまうのだけれど、マーシャルが「もっと愛情深くつながる方法を学びたいんですね?それなら可能です」と言っているのは、「自分でも”愛情深い質につながって言動している”と納得し、他の人も”これは愛情があるからこの言動をしているんだな”とお互いにそう思える”言動をする方法”、つまり、ニーズにつながって言動し、それが他の人にも”愛”や”温かさ”など”愛情がある、感じている”時、またはその感じを感じたくてこの言動をしているんだな、と伝わる可能性が高まるdoing⇄beingを学び(この場合、私の中ではlearningというよりはretraining)、実践する(実際に言動にそれを反映させる)ことはできますよ」と言っているように読んでいます。

⑥ ここまで書いてみて、何と私はねじれているんだろう、と改めて気づきます。この母親のように、「〇〇になりたい」という、その奥にはニーズがあり、「どうしたら”愛情深い母親になれるのか?そして外側からもそう思ってもらえるのか”というノウハウ」が知りたいのではなく、「自分のことも愛し温かな存在として感じ、子どものことも温かな存在として見て、その人の人生が素晴らしく豊かなものになってほしい、そのために一緒にいたいし、サポートしたいし、共にさまざまな経験をしたいのだ」というところにすぐにつながるには、まだ心や頭の回路が迂回しているなぁ、と気づいています。

三つ子の魂百まで(しがらみやら何やらを身につけた)、を生まれたての0歳(ニーズにつながって言動する)のように、ニーズや自分の身体につながった状態で出来るだけ多くの時間を、しかも力を抜いて気楽に過ごしたいと願っているので、”手続き学習(何も考えなくても自然にできるようになるまで何度もやることによって会得すること)”になるまで、実践、実践、実践(practice, practice, practice)していこうと、願いとつながり、”ずっと先の到達した時点で”ではなく、”今この時”も”気楽に過ごしつつ”クネクネ道を旅していきたい、と思いました。

投稿を書いてくれてありがとうございます❤️

私の忘備録を読んで湧き上がる、それぞれの探求・究、私はこう思う!があれば、コメント欄に書いてください。
一人で探求・究するのも楽しいですが、他の人とワイワイやるのもやりたいことなのです❤️

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