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ギフテッドに対する誤解と理解不足

先週、ギフテッドに対する支援が失敗しましたという記事が出ていてXでバズっていた。

  1. 10歳そこらの子が、高専生レベルだからイノベーションというほどではない

  2. できるという意識が高すぎて、ちょっとでもできないとすぐ諦めてしまう

みたいな記事に対して、ギフテッドに村でも焼かれたんですか? というコメントがずらり。

どうも一番バズってたのはこれかなあ。

そもそも、ギフテッドというのは、知的能力が年齢平均より”高すぎる“というマイノリティであって、年齢相応からどのくらい離れているかという指標となるのがIQなので、ただ単に、周りの子に合わない思考回路を持っていればギフテッドとしてよいらしい。IQ130以上? 協調性があるとかないとかでなく、「協調できない程度に他の子と思考回路が異なる」というのが正しい理解だと思う。「ギフテッドではない」は、「おまえはそこまで頭がよくない、頭がいいなら協調性だってあるし、能ある鷹は爪を隠すことだってできるし、偉業を達成するものだ」みたいな含意があるのだろう。しかし、偉業を達成する必要もなく支援が必要な子ども達だという理解が乏しいのが現状だ。

そもそも、発達障害ではないが周りの子に合わないので、HSP(感受性が高すぎる子)とか、ギフテッド(頭が良すぎる子)とか親が解釈したがるのだというコメントをする人も見受けられた。うーん。HSPはちゃんと調べたこともないのでよくわからんけど、「ギフテッド」と称される使い古されたIQで定義されて、「周りから浮いている」子については、支援した方がいいと思うけどね、という話をしたい。参考文献は以下。

あえての検索避けなのか発音のこだわりか何なのかわからないけど、著者は「ギフテッド」ではなく「ギフティッド」という表記を選んでいる。私は小さいィにッをを続けて打つのがめんどくさいので、以下も「ギフテッド」で通す。

知的能力が高い子どもは、大人から迫害を受けがちだ。鼻持ちならない子どもだ。他の子を見下しているし、だからといってアインシュタインみたいに圧倒的にできるわけでもないし、大人の精神力を持ち合わせてもいない。学校の先生でさえ手を焼いている。そういう印象を持たれがちだ。

小学校に入ると、全部わかりますといって授業を荒らしてしまったりするどころか、授業が退屈すぎてやる気を失ったりする。不登校になる子も少なからずいる。わかりきっていることを延々と説明されるのは苦痛だ。そして、知的能力が高いだけで、コミュニケーション能力が高いわけではなければ、我慢せず学校の授業は「つまらない」というだろうし、わからなくなった時点で飽きて「もういい」となるだろう。単に知的能力だけが高いだけで、あとはその辺の子ども達と変わらない「子どもらしい」精神でいるだけなのだ。しかし、それについて「鼻持ちならない」というレッテル貼りをする大人が周りにいることが、この子たちの不幸なのだ。

精神的な成長というのは、結局のところコミュニケーションの経験に依存するものだろうと私は考えている。IQが高かろうが別にたくさんの辛酸を経験をしてきたわけではないから、幼い。周りと話が合わなければ、友達とやりとりしたり喧嘩したりする経験も少なくなるかもしれない。ただ知的能力は、他の子に比べれば高い。何か見透かしたような態度でいる場合もあるだろう。だって、自分が当たり前に思っていることを、努力してできるようになろうとしている人がいる状況にずっと置かれていたら,そうならざるを得ないのは当たり前だ。だから、ある程度この「マイノリティ」の子ども達に話が合う友達を作って上げた方がいいだろうということで、飛び級制度を作ったりしてきたのが海外の事例だ。とはいっての精神的には幼いし、経験も少ないので、飛び級させたところで、「仲間」になれるかは微妙だ。同年齢層のギフテッドだけを集めて友達を作らせるのがいいのだろうか。(ただし、集団から外れた特徴を持つ子ども達を集めても、その中のまとまりはどのくらい保障されるかわからない。数も少ないので集めるのも大変だろう)

えこひいき問題

そもそも、学校の「年齢相応」の授業の内容は、平均的な子どもがするっと理解でき、平均よりちょっと低いくらいの子がある程度理解できるようにできている。知的障害(軽度であればIQ70でも当てはまる)の子がわからないのと同じように「わからない」というか、つまらない。知的障害で支援を受けるのは当然だと考えるのに、IQが130(数値が低い方ではIQ70くらいのマイノリティ)、150(同IQ50=中度知的障害に相当)という子どもが支援を受けると「特別扱いだ」「えこひいきだめ絶対」みたいな感想をもたれる。エリート教育をやるのか?みたいな。

ちなみに、この本に載っているが、IQが130以上の子どもと100前後の平均的な子どもの脳の発達を比べれば、異なる傾向を示すので、ある程度生理学的な裏付けがあるらしい。ざっくり言えば早期から平均の子に比べて脳の結合が多くなる。20歳前後には落ち着く。

特別な支援はえこひいきか

特別な支援について、人口の1割程度いる発達障害には許されるのに、IQ130以上、つまり人口の2%程度しかいないマイノリティであるギフテッドには支援をするのが許せないというのはどこからくるのだろうか。それは、障害が「困っている」人として定義されるからであり、世間の人たちは「勉強ができることはいいことだ」と思っているからである。

しかし、勉強ができてもそれを隠すことを要求されたり、あまり自己肯定感が高いとスクールカーストの中でうまく振る舞えないだろうと、大人達が「増長しないように」誘導する。そういうわけで、自己肯定感を育む機会を疎外される。精神的に未発達な状態であっても、「能ある鷹は爪を隠す」とかなんとかいわれて、できることがいいことにならないみたいなことを過学習させる。

こんな本もある。

ギフテッドというのは、知的能力「だけ」が、人口の2%以下の外れ値を示し、周りの子ども達と感覚が合わないで苦労している子どものことだ。発達の凹凸があったり、発達障害の傾向が強く出る子もいるが、発達障害的な要素がなくても、知的能力がマイノリティになるだけでいろいろ苦労する。早く見つけて、支援してあげないとメンタルヘルスのトラブルなどを抱えやすい。

それに対してなぜか、アインシュタインとかエジソンみたいな「大天才」みたいなのを期待して、イノベーションのために、国のためにうまく使うべきみたいな論を出す人がいるが、これは、「自分よりなにかが優れている他者は、自分の好きなように利用できないなら無価値」みたいな感情からくるんだろうか。ギフテッド教育をやるなら、役に立つならやってやってもいいが、その個人が幸せになるためにやるみたいなのは、ただのえこひいきだ、と考えている人が多そうだ。

自分をターゲットにした公教育で満足している人でも、特別支援教育では1人につき3倍以上の予算がかかっていると知ったら、ずるいと思うかもしれない。ただし、その子達は、それだけの支援がないと「同じだけの結果」が得られないといえば納得できるかもしれない。一方で、ギフテッド教育に関しては、学業的な達成度で「同じだけの結果」を得ようとするものではないので(その子達はテストとかで測られるものであれば、平均以上の結果が出せてしまう)「ずるい」となる。

精神的な安定と成長の支援のために

では何に対して「同じだけの結果」を求めていくかというと、精神的生活の安定ではないだろうか。

「ギフテッドの子どもたち」という新書では、ギフテッドの特徴を持っていたであろう子の親が、その子が自殺したあとに書いた手記が最初に紹介されている。どうしたら、心ない大人達から、子ども達を守れるか、というのが最初から最後まで、「ギフテッド支援」の課題になるのである。特に、日本はムラ社会的な特徴が強く、「出る杭は打たれる」とか「能ある鷹は爪を隠す」とか言って、自己肯定感を育むことをあまり社会が推進していない印象がある。

こういう本が邦訳されて出たのが2019年だが、元のアメリカで出版されたものは2007年に出ている本だったりする。日本ではこのあたりの支援は特に遅れている。

こっちがより専門家向けの本。

つまり、放っておくと周りに理解し合える友達もできないし、大人からは出る杭として打たれまくるし、学校に行く意味も感じられなくなり、卑屈になってしまう、もっと悪ければ精神疾患になることもあるので、ケアしましょうねという話。「二十歳過ぎればただの人」以下になってしまう人がいるわけだ。ただの人になれるソフトランディングくらいを目標に、ちゃんと支援できればいいんじゃないの? と思う。そしたら埋もれていた異能の人がたまにはちゃんとサルベージされるだろう。最初から全員異能じゃないと支援する意味がないとかいうのは、期待が過剰すぎるし、支援する意味にしちゃいけない。

私は手話の研究者だが、「マイノリティ支援」について考えるとき、「マイノリティのほうがよりばらつきが大きい」ことを覚えておかねばならないと思う。世の中は平均的な人に合わせて設計されている傾向にあるので、マイノリティは経験もばらつく。マイノリティのほうが、家庭で受ける扱いに対しての脆弱性も高い。そのあたりのことをしっかり考えて、あらゆる子どもが幸せに、そして「自分に納得感がある人生」を送れるようになっていけるといいと思う。


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