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わたしを刺し、抱きしめる物語、『違国日記』

ヤマシタトモコ作『違国日記』を大変遅ればせながら一気読みした。

上記のnoteにも書いたように、ヤマシタトモコ先生はBLをメインに書いていた頃からずっと好きな作家さんで、でもBLでない作品でより多くの人びとから認知されたことがちょっと寂しくて、そういう屈折した気持ちからずっと手に取れずにいたのだが、昨年完結もしたこともあり思いきって一気に全巻買って一気に読んだ。

「読んでよかった〜〜〜」と思った。これだけ話題になってきた作品なのだから多くの人が同じように思って支持されてきたのだろうけど、シンプルに読んでよかったです。長らく意地を張るように読まずにいたけど、意地なんて張るもんじゃないね。でも「もっと早く出会いたかった」とは思わなかったので、結果オーライかなとも思う。

「せっかくなら苦しんで生きたいでしょ」

単行本6巻 / page. 30

朝(あさ:主人公)の「なんかさー…槙生ちゃんてそんな考えすぎててしんどくない?」に対する槙生(まきお:姉の遺児の朝を引き取った)の答えが、愛おしくて大好きだった。
朝の問いは、わたしがわたしに対して時たま尋ねるものだった。「考えすぎじゃない?」「考えないでいる方が楽じゃない?」槙生のように他人から言われたことはないが、わたしはそう自問自答してきた。
わたしが当事者ではないことについて脳の容量を割くというのは、少なくともその時点においては大した意味を成さないはずだ。それでも思考し、頭を悩ませることに何の意味があるのだろうか。社会に関心を持たなくても、自分のことだけ考えて生きていけたらもっと楽なのではないだろうか。だが残念ながら個人は社会の中に属する生きもので、突き詰めると自分に関係のない話なんてない。ただその中で自分が何を考え何を考えないかを選択するだけだ。
考えない方が楽なことはあるし、考えてもどうしようもないこともあるし、何でもかんでも首をつっこむことが良いというわけでもないし、社会の問題との距離を図りかねると自家中毒になることもあるし、「考える」って難しいのだけど、考えることをやめたら終わりだとは思う。
だから、槙生の「考えない楽さより考える苦しみを引き受けます」宣言と取れる、1ページ丸ごと使ったこのシーンが大好きで、朝には「何言ってるか全然わからない」と言われていたが、もしあの槙生が目の前にいたらわたしは彼女を抱きしめたくなるだろうと思った。

「なんで一言ただあたしを愛してるって言えないんだよ」

11巻 / Last page

どうにか言葉を尽くして自分なりの愛情を伝えようとする槙生に対して朝が半ば怒った様子で言い放った言葉はそのままわたしにも突き刺さった。
「もうちょっと愛情表現をしてほしい」と、亡くなった夫は時折わたしに言った。好きとか愛してるとか、そういうまっすぐな愛の言葉を口にするのがわたしは心の底から苦手で、声に出そうとしても口がむずむずしてしまう。その二文字や五文字を伝えるために何十字も何百字もかけて回り道をしないといけないのがわたしだった。でも夫はそういう長々としたものを求めているようではなかった。
これは夫との関わりの中で後悔している数少ないことの一つだが、それは夫が結果的に不在になってしまったからそう思っているところが大きく、もし時間を巻き戻したとしてもわたしはやっぱり夫の望みに反して同じことをしてしまうと思う。それは単純に恥ずかしさが理由としては第一に来るのだが、それ以外に「果たしてこれだけ短い言葉で過不足なく自分の思いを伝えられるのだろうか」という疑念があるからだ。
わたしは好もしく思えるものに出会ったとき、「その感情が発生した理由を説明できなければならない」と長らく考えてきてなるべく実行しようと試みてきたのだが、そのきまりを夫にも適用していたのかもしれない。「好き」な人はたくさんいても、「好き」の中身はそれぞれ違っていて、あなたが好きですと言うだけでは多分わたしが満足できないのだ。逆に「好きだ」とだけ言われても、わたしはそれを100%の純度では受け止められず、「どうして?」と思ってしまう。わたしの何が好きなのかわからないと漠然と不安になってしまう。好きと言われるだけでただただ心が跳ねるシンプルな構造だったらよかったのに。

わたしを刺し、抱きしめる物語

他にも好きなシーンがいくつもある。
10巻で自分には何もないと言う朝にカンちゃん(朝のクラスメイト)が「田汲(朝の苗字)は何もなくなんかない」と強く言う場面とか、11巻の塔野(とうの:未成年後見人の槙生を監督する弁護士)の「私は勉強で苦労しなかったので共感が足りません」と無遠慮に朝に言う場面とか、4巻のラストで槙生と笠町(かさまち:槙生の友人で元恋人)が友だちにオプションを付けたような新しい関係を結ぶ場面とか。

『違国日記』を「読んでよかった」とわたしが思ったのは、この物語の印象深いシーンは全てわたしに身に覚えのあることだったからだ。登場人物がこうなったからよかったというよりも、登場人物たちがわたしを刺したり抱きしめたりしてくれるからだった。カンちゃんが自分を必要以上に卑下するなと言ってくれるし、投野はわたしと同じようにただ勉強が好きだったから勉強していただけだし、槙生と笠町の関係はわたしの理想のような形だった。
一方で『違国日記』が「このようなメッセージを伝えようとしている」と明言することもできない。彼ら彼女らの言葉を読み手が勝手に自分ごととして受け取っているだけだ。まあ、人が良いと感じる物語ってそういうものなのかもしれない。きっとこういう物語だから多くの人の胸を打ったのだろう。


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