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ホラー短編 独居の怪

 テレビ番組『こんなトコロに住んでるの?』の視聴率は安定していた。今回は三日がかりの取材で、場所はF県S村の山奥にある一軒家だ。今日と明日は村の民宿を拠点に、来週にあと一回日帰りで来る予定だ。編集作業は来週から再来週にかけて。来月中には放送されることだろう。
 ディレクターの都合がつかなくなり、今回の取材は副ディレクターの私、福田が担当することになった。私とカメラマンの亀田さんと音声の尾瀬、ADの江田の計四名は機材を積んだ取材用のバンでF県に来ていた。
 出発前にgoogleマップで経路を確認したが、その一軒家までは道路が整備されていないようだった。山の麓から獣道と見紛うばかりに荒れた道を通って向かうようだ。道の入り口は草木が生い茂っていて、獣ですら使うのをためらうのではと思しき道だ。集落からまったく隔絶している一軒家に、本当に人が住んでいるのか疑問に思える。ここまで世俗と関わらずに生活するなんて現代社会の中で可能なんだろうか。ちょっとジュースが飲みたくなった時にも自販機がない。雑誌が読みたくなっても本屋がない。ネット通販の宅配もこの僻地にまで対応しているのかなど、いろいろと想像を巡らせながら私は車を走らせていた。

 高速を降りてから一般道を更に二時間ほど西に走らせ、ようやく山の最寄りの村に到着した。まずはここで村民のインタビューを撮る予定だ。
 私はアポを取っていたお宅に訪問した。
「あのぅ、すいませ~ん。ジャパンテレビの『こんなトコロに住んでるの?』という番組なんですけど…」
「はぁっ? あ~、知っとるよ。前に連絡くれた人かい? いっつも観てるよ」
「ホントですか? ありがとうございます~。あの、お聞きしたいんですがあの山の奥に一人で住んでいる方がいらっしゃるのはご存知ですか?」
「あー、はいはい。近藤さんだべ。昔っからあの人が住んどるよ」
「あっ、ご存知で! その近藤さん、近藤雅実さんという方なんですが、どういった方なんでしょうか?」
「さあ~。あんまし降りてこねぇからようくわかんねぇんだけども、何ヵ月かに一回はスーパーに買い物に下りてくるよ。あと息子さんが、年に2、3回くらい様子見に来てるみてぇよ」
「はぁ~息子さんがいらっしゃる」
 この村人も他の村人も、どうやら近藤さんが山奥で暮らしていることは知っているようだが、付き合いがあるというほどの人はいないらしく、暮らしぶりまでは把握されていなかった。里に降りてくるのが年に一度くらいでは付き合いがないのも仕方がない。しかし普段の食材の調達などはどうしているのだろうか。買い物もほとんどしていないようだし、ほぼ完全な形で自給自足の生活を営んでいるのかと想像した。たまに下りてくる際に必要な物品を購入し、息子が年に2、3回様子を見にくる際に他に要り用な物を届けてくれるのだろう。
 それにしても、急に病気にかかったり怪我をしてしまったらどうするのだろう。番組では取材対象にしているけど、こういう独居生活をしている人が他人事ながら私は心配だった。

 次にインタビューをしたのは役場の観光課の男だった。これから向かう山は、昭和初期まで姥捨山うばすてやまだったという。姥捨山のある土地にありがちな山姥が出るという昔話も聞けた。編集次第では面白い構成にできるかもしれない。
 その後、三人ほどインタビューをして、ついに私たちは山奥の家に向かった。

 山の麓の登山道に入る手前の駐車場にバンを停めた。道路は山頂上付近まで延びていて、となりの市まで交通は整備されている。山の標高は約1200mほどだが、目的の家は麓から道路を外れて2kmほど斜めに獣道を進んだ先にあった。私たちは最低限の機材を持って山に向かった。重い機材を持ちながら2kmも未整備の道を歩くのは重労働だ。その後さらに近藤さんの取材というメインの仕事もある。先が思いやられた。

 登山道を逸れて獣道に入る。思ったより道は険しかった。藪がうっそうとしていて、道といっても地肌はほとんど見えない。小枝が体に引っ掛かり、進路の邪魔をしてくる。起伏が激しいのでバランスをとりながらの進行だったが、これがなかなか体力を奪っていった。
 全身から吹き出し汗が下着を濡らしていく。
 道を撮影しながら歩いているカメラマンの亀田さんが一番キツそうに見えた。四人ともぜえぜえ息づかいが荒い。何を思ってこんな山奥に住んでいるのだろう。どういう方法で家が建ったのか。疑問は多いが、疑問は好奇心の表れだ。僻地だからこそ、そこに住む人間の特殊な人柄が明らかになる場面は心が掴めるはずだ。
 私は疲れながらも視聴率に期待していた。

「ここかぁ」
 二時間ほどかかったが、ようやく目的の家までたどり着いた。山道は下りの方が負担が大きいと聞く。民宿のチェックインの時間もあるので、滞在時間は二時間しかない。私はさっそく家主を探した。亀田さんは私の後について、住宅の周辺を録画している。
「すいませーん! 近藤さーん!」
「外には居ないようですねぇ」
 江田が話しかけてきた。屋外で見つからないのは都合がいいと思っていた。多少じらされた方が、対面した時に視聴率が大きくなる。
「やっぱりそれなりに大きな畑だな。買い物をほとんどしていないようだから、ここでいろんな野菜を作っているっぽいな」

 畑の面積は全部で10rほどもあろうか。いろいろな種類の野菜が育てられているようだが、成長段階はまちまちだ。
「けっこう大きな畑ですけど、手入れが全然じゃないですか? 雑草もすごいですよ、ここ」
 確かに手入れには抜かりがある畑だった。雑草が生い茂っているわりに、肝心の野菜は枯れていたり、未成熟なものもある。無農薬に拘りがあるのかもしれないが、除虫や追肥や、もしかしたら水やりでさえ怠っているのかもしれない。
「ここ数ヶ月くらいは放ったらかしにしている感じがあるよなぁ。けどまぁ売り物にするものじゃなければ、こういう栽培でもいいのかもしれないな」
 音声の尾瀬が感想を漏らした。そういえば彼の実家は農家だった。農業に多少明るい面がある。
「今までの一軒家と違って貯水槽もないな。まさか井戸水使ってる系っスかね」
 江田が言った。そうかもしれない。冷たいお茶を出されるのが心配だ。この間やっとピロリ菌を退治したばかりなのに。
「外にはいないみたいだし、そろそろ家に行ってみるか。もういい加減、座って休みたいよな」
 私たちは屋外の撮影を切り上げ、家を訪ねることにした。

「ごめんくださーい! 近藤さーん!」
 玄関から大声で呼びかけた。
「近藤さーん、近藤雅実さーん! 息子さんにアポイントメントをとらせていただいていた、テレビ局の福田でーす!」
 なんの応答もない。どうやら家には居ないらしかった。
「アポとってあるんですよね? ヤバくないですか?」
「おかしいなぁ、近藤さんはたいてい家で過ごしてるって、ディレクターに聞いてるんだけど…」
 アポ無し訪問の体裁だったが、実際には近藤さんの息子さんに撮影の許可はとっていた。息子は本人に段取りの説明したと言ってたし、本人は明るい性格だから快く応じるはずだと聞いている。自給自足の生活をしているから、もしかしたら自然の木の実や山菜なんかを採りに行っているのかもしれない。なにせアポを取ったのは3ヶ月も前だったし、自然なファーストコンタクトに見えるように、日程はいつでもいいという言葉に甘えて、あえて具体的な訪問日を知らせていなかった。やはり打合せを詰めていなかったのが良くなかったようだが、今さら後悔しても仕方がない。私たちは家の外で待たせてもらうことにした。

 一時間ほど待ったがまだ近藤さんは現れない。三時間の滞在予定のうち、屋外の撮影も含めて半分は過ぎてしまっている。私は焦りを感じていた。
「ダメだな。帰ってこない。ちょっと範囲を広げて、その辺探してくるよ」
 私がそう言ったとき、家の裏手からガサガサと何者かが歩み寄ってきた。
 オーバーサイズのダボダボの赤いチェックのネルシャツ、下もオーバーサイズのジーンズを穿いている。服装はオールデイズなアメカジファッションだったが、着ているのは婆さんだ。なかなかミスマッチな格好で、インパクトが強い。
「あっ、近藤さん? 近藤雅実さんですよね?」
 婆さんは答えず、様子を窺うようにじっとこっちを見ている。距離は約3メートルほど。婆さんは右手になたと、左手には汚れたレジ袋を持っていた。
「近藤さん? テレビ局の者ですが、息子さんから取材の話を聞いてますよね? 3ヶ月くらい前のことなんですが、約束どおりお伺いさせていただきました」
「ああ、はいはい。取材ですね、はい」
 どうやら思い出してもらえたようだ。3ヶ月前とはいえ、ほとんど他人と交流がない方だ。山奥の生活が忙しくて忘れていたとは思えなかったが、なにぶん高齢だ。年相応の記憶力の低下は仕方がないのかもしれない。
「私、ジャパンテレビの『こんなトコロに住んでるの?』という番組を担当させていただいております、福田と申します。本日は取材を受けていただきありがとうございます」
「それで……、私はどうしたらいいですか?」
「とりあえず、ご自宅の中を撮影させていただいてよろしいでしょうか? その後にインタビューの時間を設けますので、少しお話を聞かせていただきたいと思います」
「家ですか? 家の中を撮るの?」
 息子からどの程度の説明を受けているのだろうか。家の中を撮影するに決まっているだろう。そんなに汚れているのかと私は訝しんだ。
「番組では家の中も撮影させていただいております。もちろん映せる範囲でけっこうです。都合の悪い場所がありましたらカメラは回しませんですので」
 婆さんは少し考えてから答えた。
「はあぁ、まあ少しならいいですよ。そんかわし、私がいいと言った場所以外は映さんとってください」
「ありがとうございます! その条件で構いません。では、さっそく中に入れていただきたいのですが」
 渋々といった感じではあったが、婆さんはこっちですと私たちを家の中に促した。ディレクターの話はこの婆さんをノリがいい人柄と言っていた。ディレクターと息子という二人を間に挟んでいるので、どうやら情報の正確性は弱いらしい。目の前の婆さんは暗く、自閉的な印象だった。
「じゃあ、中にどうぞ。着いてきてください」
 私たちは婆さんについて家の中にお邪魔した。

「お邪魔しまーす」「失礼しまーす」
 婆さんの後について靴を脱ぎ、廊下を渡った。屋外は草木が鬱蒼として自然状態に近かったが、中は意外と整理されている。まずは居間に案内され、居間と、繋がっている台所を撮影した。婆さんはカメラの動きに気をつけている様子だ。
 建物には古さを感じるが、家財道具は整然としていて不潔な様子はない。
「とりあえず座って休んでください。今お茶淹れますから」
    婆さんは台所に向かった。亀田さんと尾瀬はそのまま仕事を続けてもらって、私と江田は居間のコタツに腰を下ろした。
「けっこう綺麗にされてますねぇ。近藤さん、ここにお一人でお住まいなんですよね?」まずは基本的な質問から始めた。
「え~、まあ一人で住んでます」
「いつからお住まいなんですか?」
「さぁ~いつだったか、もう長いこと住んでると思います」
「山道からだいぶ距離がありますが、大工さんか建築資材を運んで建てられたのですか?」
「まあ、あんまり昔のことなんでねぇ……。そうだったと思いますけど」
 婆さんは曖昧で要領を得ない返答ばかりだ。やはりもの忘れが酷いようだ。山奥での独居生活は厳しいのではないかと思った。あとでディレクターから息子さんに、認知症の可能性も含め報告してもらおうと思った。
 私は少し角度を変えて質問してみることにした。
「近藤さん、生活用水はどうされてますか? 山の一軒家にお住まいの方だと浄化槽を備えていらっしゃる方が多いんですけど、近藤さんのお家には見たところ浄化槽がないようですが」
「あ~、水は井戸水を使ってます。家の横にあって、ポンプで汲み上げてますよ」
「なるほど~、どおりでお茶が美味しいと思いました」
 お茶の味を褒めてみたが、婆さんの表情は固いままでリアクションがない。認知症を患っているのではないかと心配した。スタッフの顔を窺ってみると、皆一様に心配そうに婆さんを見ている。
「その、戸棚の写真は旦那さんと息子さんですね? いつ頃の写真ですか?」
「あの、あんまり詮索せんでください。昔のことだし、うちの家族のことなんで」
「あっ、はい。不躾でした。どうもすみません……」
 違和感が拭えない。ディレクターの話だと婆さんを明るく社交的だと言っていたが、どう評価しても目の前の老婆は暗く自閉的だ。人違いの可能性も考えたが、こんなところに建っている家は一軒しかないし人違いはありえないだろう。この認識のズレはいったいなんだろうか。

 婆さんはスタッフの顔をジロジロと見回していた。スタッフも不審に思っていそうだ。そろそろ時間だし、日が落ちる前に戻りたい。明日も伺う予定だったが、明るいうちに映せるところはできるだけ撮っておきたいとも思う。今日のインタビューはこれくらいにして、少し撮影させてもらうことにしよう。
「近藤さん、では今日のインタビューはこれくらいにして、家の中の様子を撮影させていただきたいのですが」
「は? ここで撮ったら良かんべ?」
「あ、ここもそうなんですが、できればお風呂とか寝室とか、普段の暮らしぶりがわかる画が欲しいので、そういった部屋も撮らせて欲しいのですが……」
「そりゃあ困んなぁ、片付けてもいないですし。ここだけ撮りゃあ良いいじゃないですか?」
「どうしても映したくない場所はカットしたり、モザイクという手もありますから。どうしてもここの撮影だけでは番組として成立しないので、どうかお願いします」
 婆さんは考えた後、渋々了解した。
「では、カメラの方だけでいいですか?」
 それは困る。しかし、承知しないと撮らせてもらえなかったりしたら更に困る。最悪、あとでアテレコする方法をとるかもしれないが、とにかく家の様子を撮らせてもらおう。
「わかりました。じゃ、亀田さん、近藤さんに付いていって」
 亀田さんは頷いて婆さんについていった。

「いやぁ、なんなんすかね、あの婆さん。ノリ悪いし、これじゃ面白くなんないですよ」
 もっともだった。このままではお蔵入りもあり得る。今日は婆さんが乗り気じゃないのかもしれないから、明日また機嫌をとりながら挽回しよう。私は江田と尾瀬と三人で作戦を立てることにした。しかし、こんなに苦労してこの程度の記録しか撮れないとは予想外だ。この調子では明日も思いやられるな。

 ダンッ、と二階から音がした。続いてバタバタと床を叩くような音。何かが床に落ちたような音だ。家の家具でも倒してしまったのだろうか。まさかカメラは落としていないだろう。私は心配になった。
「今、けっこうでかい音だったよな」
「そうっすね。家具にカメラぶつけて倒しちゃったとか?」
「かもしれないな。大きなトラブルにならなきゃいいけど」
 何かを壊してしまったのなら賠償する責任がある。見たところ価値のあるものがある家には見えないが、婆さんの機嫌を損ねて撮影に支障をきたしてしまうことが心配だった。
「ちょっと声かけてこようか……」
 ブブブブブブ。
    その時、スマホが鳴った。表示はディレクターの名前が出ている。
「ディレクターからだ」私は画面の通話を押した。
「はい、福田です」
「あー、お疲れさまでーす。どう? 取材してる?」
「ええ、今近藤さん宅にいます。取材許可は貰ったんですけど、話と違ってあんまり乗り気じゃないみたいですよ。消極的っていうか、嫌がってる感じです」
「えー? めっちゃ明るくて元気がいい人って話なんだけどなぁ? 息子さんからはうるさい人だから迷惑かけるかもって言われたんだけど」
「いやー、全然そんなことないですね。絡みづらくて、編集大変そうですよ。この回」
「おかしいなぁ~。まぁ、取材はさせてもらってるんでしょ?    機嫌とってなんとか協力してもらってよ」
「はぁ、頑張ってみます。今日は時間押してるんで、明日が勝負ですね。ディレクター、あの婆さんって何が好きかとか知ってます? 明日は手土産でも用意していこうかなって思うんですけど」
「は? 婆さん?」
「え? はい、お婆さん。近藤さん」
「何言ってんだ? 近藤さんは爺さんだぞ」
    どういうことだ?   この辺りの土地に家は一軒だけで、間違いようがない。話に齟齬があったとしても、性別を間違えるなんてありえない。二階からの音のこともあり、不信感を抱いた私は二階の様子を窺うことにした。

「すみませーん、大丈夫ですかー!」一階の階段から上の階に声をかけてみたが返事がない。
「近藤さーん?」
 返事がない。不安になった私は上に上がってみることにした。
 二人が撮影しているはずだが、物音ひとつ聞こえてこなかった。階段を踏む度にギシギシと軋む音だけが鳴った。
 階段を登りきると、襖の部屋が二つだけあった。廊下にひとつと突き当たりにひとつ部屋があるようだ。私は手前から開けることにした。
「近藤さーん。開けますねー」

 禁忌を破るようで後ろめたい気持ちがあったが、不安があった私は襖の取っ手に手をかけた。襖をスライドさせたその刹那、目の前の人影が頭上から何かを振り下ろしてきた。
「うわっ」
 反射的にのけ反ったが右腕に何かが当たり、熱い感覚が走る。
「痛っ」
 婆さんが刃物で切りかかってきたようだ。得物は鉈だった。婆さんは態勢を立て直して鉈を振りかぶり、再度切りかかってくる。
「うわわっ」
 踵を返して慌てて階段をかけ降りる。
 ちらっとしか部屋の中の様子が見れなかったが、亀田さんが部屋の中央あたりで倒れていた。この婆さんは危険だ。
「みんな逃げろ! ヤバい!」
下に降りると私は大声で叫んだ。婆さんが後ろから追ってきている。
 居間に入り脱出を促す。
「福田さん! ちょって見てください!冷蔵庫ヤバいっす」
「それどころじゃない! ヤバいんだって! 逃げろ!」
 すぐ後ろに婆さんの気配があった。
 身を屈めて前方にダイブした。
 間一髪で残撃をかわした。
 すぐさま態勢を立て直して次の攻撃に備えたが、尾瀬と江田は目を見開いて事態を見ていた。状況を飲み込めていないようだ。
「亀田さんが殺された! 早く! 逃げるぞ!」
 ようやく立ち上がり逃げ出そうとするが、婆さんは構えている私より、事態の把握が遅れた二人標的を変えたようだ。
 婆さんの袈裟斬りに振り下ろした鉈が音声の首元に刺さった。
「あがぁ、が」
 首からドクドクと血が流れ出た。
「あわあっ」
 江田も私の側にきて、二人で居間を抜け出た。機材はそのままに、玄関まで走った。
「なんなんですかあれ!」
「わからん、たぶん俺たちを殺す気だ」
 靴を履く余裕はなく、手で持って脱出しようとした。近藤も走って追いかけてくる。老人とはいえ、屋内ではそう距離を離せない。玄関の引き戸をガラッと開けた瞬間、すぐ後ろの江田が声をあげた。
「いぎぃっ」
 背中を反らせて顔を歪めている。どうやら背後から鉈の一撃を浴びてしまったようだ。
「走れるか? 行くぞ」
 私は江田の腕を掴んで駆け出した。慌てて走り出したのでつんのめりながらなんとかバランスをとって先に進んだ。近藤も玄関から出てきた。私たちを追いかける姿勢だ。
 老婆なので、年相応に身体能力は低い。走り出してしまえばあとは逃げ切れるはずだ。私たちは走った。背中に傷を負った江田は動きが悪いが、それでも婆さんよりは速かった。私は江田に速度を合わせて走った。敷地を抜けてしばらく走ると婆さんの足音が聞こえなくなった。どうやら振り切ったようだ。
「福田さん……。すみません……」
    江田の息が切れている。
「大丈夫か、ちょっと見せてみろ」
    背中を見ると左の肩甲骨から中央あたりまで服が裂け、血で染まっていた。服に付いた血は明るく濡れていて、今も出続けている。江田の顔は蒼白だった。場所が平面に近く、止血の仕様がない。
「歩けるか?」
「福田さん、さっき福田さんが二階に行ってる間に、台所の冷蔵庫あけて見ちゃったんです。冷蔵庫の中に、人の、写真に写ってたお爺さんの頭が入ってました」
    私は絶句した。写真に写っていたのがお爺さん……近藤雅実さんと息子さんならば、あの老婆はいったい誰なんだろうか。江田の話が本当なら、家主の近藤さんは殺され、死体はバラバラにされてしまったようだ。婆さんは男物の服を着ていたが、おそらく近藤さんの服を適当に着ていたのだろう。
「これ以上は、ちょっと無理そうです……。福田さん一人で山を降りてください。助からないかもしれませんが、助けを呼んできてください」
    言葉を発するのも辛そうだった。まだあの家から十分に離れてはいない。この状態では格闘はできないだろう。江田が走ることは難しく、かといって私には背負って走れるほどの体力はない。私が一人で山を降りて、助けを呼ぶのが合理的だろう。幸い、車のキーは私が持っている。
「わかった。ここで待ってろ。急いで助けを呼んでくる。あとスマホは持ってるな? 警察と救急隊を呼んでおいてくれ。俺も俺で下まで降りたら村の人を連れてくる」
 とりあえず車まで急ぐことにした。険しい道を2、300mほど走ったところで銃声が鳴った。
“銃声!?”

 ダーンという大きな音が山にこだました。足を止めて身を潜めたが、婆さんが近づいてくる足音も気配もない。銃は、おそらく猟銃だろうが、まさか銃まで持ち出してくるとは。江田の安否が気がかりだ。無事を確認しに行きたいが迂闊に戻っていいのだろうか。恐怖心はあったが、やはり銃声を聞いてしまっては怪我人の江田を放ってはおけない。もし無事だとして、老婆が冷静に探索をすれば草木を踏み倒した跡と江田の血痕で、居場所を突き止められてしまう可能性が高い。
 私は踵を返し、出来るだけ音を立てないように江田の元に向かった。草木が生い茂る獣道では、ゆっくりと移動しても完全に足音は消せなかった。落ちた小枝を踏み潰す度にパキパキと音が出る。私は慎重に足元を確認しながら先を急いだ。

 江田がいる木まであと10mほどだ。周囲の様子を窺ったが、人の気配は感じない。声をかけようかと迷ったが、婆さんが草陰に潜んで私が近づくのを待ちかまえている可能性があった。私はもう少し距離を縮めてから声をかけることにした。江田の場所まであと5m。江田は木の根元に腰を降ろし、がっくりとうなだれていた。あと3m。江田の表情を窺う。背中の出血で意識を失っているのかと思っていたら、目を開けていた。しかし、眼は虚ろで心臓のあたりが血で汚れいた。江田は既に死んでいる様子だ。さっきまで体の正面に傷はなかったはずだ。さっきの銃声はきっと、婆さんが江田を撃った音に違いない。
 婆さんはまだこの近くにいるはずだ。息を殺して耳をすませた。山には風が吹いていて木々の葉っぱがざわめいている。婆さんが近くにいても、ざわめきにかき消され音を聞き取ることは難しいだろう。こっちの動きも悟られるわけにはいかない。私は今まで以上に慎重に動いた。
    右手の方からガサッと大きめの音がして目をやると、そこには銃を構えた老婆がいた。
「うわっ」
 声を上げると同時に発砲してきた。身をかがめたが、腕に弾が当たった。当たったのは右の上腕の外側だ。肉が抉れたが幸い急所は外れた。私は斜面を転がるように逃げた。婆さんは弾丸を装填し、再度私に狙いをつけた。銃声が鳴った。動きながら逃げる私を捉えきなかったか、弾丸は外れた。私は藪も獣道も関係なく、夢中で山を下った。
 登山道に出て、さらにロケ車が停めてある駐車場まで走り下りた。滝のように汗をかき、脇腹が痛い。呼吸を整える間もなく、車にキーを差し込み発車させた。そのまま村の駐在所まで向かい、駐在さんに事情を話した。駐在さんはとなりの市の警察署に応援を頼み、近藤家が捜査されることになった。
 逃げ延びた私は救急車で病院へと運ばれた。

 テレビ番組のロケで取材クルーが殺されたというニュースは世間でしばらく騒がれた。
 警察の事情聴取のあとは各メディアの取材に追われ、落ち着かない日々が続いた。危険な取材だった、個人の私生活を覗く下世話な番組だ、取材陣の連携不足が招いた怠慢が悪いなどといった悪評も立ったが、不運な事件だったとの評価が概ねの世論だった。
 今回の事件の主犯である老婆は、山の反対側の市に住む婆さんの息子の介護疲れが原因だった。親が認知症になってしまい、一度は施設に預けたが施設での暴力行為が止まず、受け入れ可能な施設がなくなってしまったとのことだった。しばらくの間は家で息子が面倒を見ていたが、やがてそれも限界となり、失踪したことにして認知症の母を山に捨てたのだそうだ。違法だと知った上で姥捨山の機能を利用したが、認知機能以外は健康だった婆さんは生き残り、山中で見つけた一軒家を、家主を殺害して乗っ取ったようだった。そこへ我々テレビの取材陣が赴き、今回の悲劇が起きた。
 事件後にようやく落ち着いてきた頃、私は人事部に転属願いを出した。今回の経験は製作にとって糧となる経験かもしれないし、事件の唯一のサバイバーが指揮をとった初番組は視聴率が期待できるだろうという意見が局内にあった。私は副ディレクターからディレクターへの昇進の話が決まったと聞いたが、心の傷が深かった。せっかく助かった命だ。出来れば今後はロケに関わらなくて済むように、製作の仕事から身を退きたかった。
 転属願いは提出済みだ。受理されるといいのだが。

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